3話 水晶迷宮(1)
氷の窟の中は、冷たい空気が流れていた。
光源は無く、目の前を歩く旅人の光石だけが頼りだ。三人が移動する度に、きらきらと自然の迷宮を形作る氷に光が反射する。ルネはそれを見ることもなく、ただじっと旅人たちについて歩いていた。ふと、足を止めて振り返る。
歩いて来た道は天井が高く、人一人が悠々と通れるほどの道ではあったが、光はまったくといっていいほどなかった。闇の洞窟と言ってもちがいない。進む道も進んできた道も、途中からまったく先が見えない。光石が無ければ、ここを帰ることすら不可能だ。
ルネが立ち止まったことに気がついたのか、前を歩く深い青眼の青年が声をかけた。
「どうした、ルネ」
ルネが見上げる。もうすっかり見慣れた、旅人装束に身を包んだ青年だった。ルネは言いよどみ、少しだけ青年を見上げた後に俯いた。その目に、手に持った鉢がうつる。
ざくざくと前方から氷を踏む音が聞こえ、ルネが見上げると、半猫のような風貌をした、緑の目のケット・シーが立っていた。身長はほぼルネと同じほどで、茶色のマントを羽織り、帽子には自ら切ったのであろう穴から猫の耳が見えている。彼は声をあげた。
「気にすることないニャ! カキたちについてこれば、間違いはないニャ!」
「……うん……」
ルネが小さな声で頷くと、目の前で、青眼の青年がルネを覗き込んだ。そうして、ルネの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「大丈夫だ、ルネ。花を咲かせたいんだろう?」
「……うん」
「なら俺たちについてくれば、何とかなるさ。この考古学者ミスラ様に任せておけばな。…地図によれば、もうすぐ出口だ。行くぞ」
「行くニャ!」
青年は前を歩き出し、ケット・シーもその後に続く。
ルネはしばらくそれを見つめた後、決心したように歩き出した。光石の光が氷に反射し、自然が作りだした迷宮の一角をほの明るく照らし出していた。
そして、今だその迷宮の姿を見る事も叶わないまま、リズたちは門を見つめていた。
カウンターの中では、先ほどの大男が作業をしている。シキが窓から覗き込み、声をかけた。
「どう? 直りそう?」
「ああ。中の機関まではやられてないからな。ハンドルだけで何とかなりそうだ」
「……そう」
シキがそう言って離れる。門の前には、何人かの住人たちが一度戻ってきていた。彼らによると、旅人もルネも何処にもいないとの返答がほとんどで、シキはため息をついた。
「やっぱり、あの城に行くしかないみたいね……」
シキの呟きを聞きながら、リズはじっと門を見つめていた。雪が、ちらちらと降り始めていた。白い吐息が、マフラーの中から漏れていく。タルトが気配に振り向くと、シキが二人に近づいてきていた。
「リズちゃん、やっぱり私が行くわ。……ルネは、私が連れ帰ってくるから、リズちゃんは……」
リズはシキを見上げ、まるで言葉を制するように見つめた。
「シキさん。お母さん、どんなヒトですか?」
「え?」
不意打ちのような言葉に、シキが動揺する。
「ルネ君、連れ帰ってきますから。だから、待ってて下さい。それに――」
リズは笑って、赤水晶のペンダントを首から提げた。
「こういう厄介なのは慣れてるし」
「よぉっし! 直ったぞー!」
大男の声が、カウンターの中から聞こえた。全員がそちらの方を向くと、男はハンドルを回し始める。歯車の音が響き渡り、同時に轟音が轟く。ゆっくりと片側の扉が開き、やがて人一人分が通れるほどの隙間が開いた。
「じゃ、行って来ます!」
「あっ、ま、待って! 一つだけ!」
シキが声を張り上げた。
「鉱夫に伝わっていた言葉って、結構あるの。その中でも、「水晶は堅くとも、頭は柔らかく」っていうのがあったのよ。意味はわからないけど……それだけ!」
「わかった。ありがとう!」
リズは言うが早いか、扉の向こうへと滑り込み、走り出した。後ろのカウンターから声が聞こえる。
「おい! 嬢ちゃん!」
「ルネ君連れ帰ってきますからー! あったかいもの用意しといてくださーい!」
リズはそう叫ぶと、その勢いのまましばらく走り続けた。
いくらか走ったところでようやく立ち止まる。
「……さてと。勢いで来たのはいいけど……」
二人は、改めて目の前に広がった光景に圧倒された。そこには、全てが氷でできた森があった。木々は全て透き通った青白い氷で、見た目にも寒々しい色合いをして、どこまでも続いている。目の前にはまっすぐの道が伸びているが、背後には霧が降り、後退するのを阻むかのようだ。
代わりに、目の前の霧はだんだんと晴れていき、ようやく眼前の目的地を確認することができた。
二人は思わず、感嘆の声を漏らす。
「……こりゃすごいや」
「……ほんと、ね……」
それは丘のような巨大な氷だった。
鉱山の入口なのだろうが、神殿のように、白い柱と化した氷が、太いものから細いものまで何本も乱雑に立ち並んでいる。何とか通れそうではあったが、それらは鉱山の入口を隠してしまっている。
「それで……この迷路を抜けないと城にはたどり着けないわけだね」
「リズ」
タルトは腕にしがみついた。
息さえ凍り付いてしまいそうな冷気が、辺りに渦巻いている。
「も、戻れるわよね」
リズはタルトを見下ろすと、にこりと笑った。
「戻れるかどうかじゃなくて、戻るんだよ」
リズはタルトをしっかりと抱えなおした後、前を見据えて歩き出した。入口は人一人ほどが悠々と通れるほどの亀裂にすぎなかったが、光はまったく無い。まっすぐに道は続いているというのに、数メートル先からは闇が続いていた。
リズはカバンから光石を出すと、持ってて、と言いながらタルトに渡した。ランプは置いてきてしまったからだ。
「行こう」
「……うん」
二人はそう言うと、真っ暗な迷宮の中へと足を踏み入れた。
中は洞窟のように道が続いていた。
ひどく暗かったが、光石の光は周囲の壁に反射して、きらきらと煌いている。その壁はまるで沢山の四角い氷を固めたようにごつごつとしている。もっともそれが氷なのか、それとも水晶そのものなのか、今ではまったくわからない。
光石が無ければ戻るべき道さえ見失ってしまいそうだった。リズはそのまま慎重に歩を進め、暗く冷たい道を進んでいった。
リズが、不意に足を止めた。
「どしたの?」
「んー……」
「まさか、迷った?」
「……まだ一本道じゃないか……」
一本道で迷うほどではないよ、とリズはタルトを見下ろしながら言った。それから視線を少しずらし、地面を見る。
「いや。ひょっとしたら、楽にこの迷宮を抜けられるかもしれない、と思って」
リズは笑ったが、タルトは首をかしげただけだった。
それからまた歩き出し、それから止まった。
「つまりさ――」
リズは下を向く。
「この道。歩くと、隅の方はざくざく音がするのに、真ん中辺りはあまりしないんだ」
「それ、って……」
「踏み固めた跡だね。直前に誰か通った跡だ」
「じゃ、それを追えば!」
「もっとも」
リズはタルトの言葉を遮った。厳しい表情で地面を見つめる。靴で地面を擦っても、その表情は変わらない。
「絶対的な期待はできないけどね――」
そうして、睨むように地面を見つめた。それから、少しだけ笑ってタルトに視線を戻す。
「いつまで出来るかはわからないけど、今はこれだけが頼りなんだ」
そうして、タルトが持っている光石を見た。それは、普段旅人が使う光石よりも小さいものだ。とにかく、正しい道を選んで早く城に到達するほか無い。
リズは不安げに見つめるタルトに笑いかけ、先に進み始めた。耳を澄まし、極力余計な音はたてないように歩く。足で踏み固める音に最大限耳を傾けていた。
歩き続けるうちに、やがて通路に横道が現れた。左右に分かれてた道だ。リズは片側の道の入り口に立ち、少しだけ歩いて戻ると、もう一方の入り口に立ち、同じように少しだけ歩いた。それから、もう少しだけ歩いて、こっちだ、と言った。
リズも絶対の自信があるわけではなかったし、完全に足元の音を信用していいかどうかもわからなかったが、とにかく進んでいくしかない。迷宮の中はひどくこざっぱりとしていて、生き物の気配すらしない。人工の地下通路を進んでいるような感覚だ。かといって、きっちりと同じ幅を保っているわけではない。
おそらく水晶採掘の為に掘り進めた道の上から氷と霜が覆っているのだ。
しばらく歩くと、また分かれ道があった。リズはその度に耳をすませ、同じ事を繰り返した。それは迷宮を進むごとに頻繁に現れ、それが二度、三度と続いた頃には、さすがにリズの顔にも疲労が現れてきた。
リズは突然立ち止まり、タルトの抱いていない方の手を伸ばした。タルトが見上げると、壁に手をつき、下を向いて無言で顔をしかめていた。
「リズ。大丈夫?」
「――うん」
リズの返事は、ぼんやりしていた。時間の感覚は既にあって無いようなものだったが、思えばリズは、朝食べたきり、飲まず食わずでここに居るのだ。その上、迷宮に入ってからずっと集中力を必要とされている。疲労は溜まっていた。
「リズ」
タルトの声に、リズは顔をあげる。
「いや――大丈夫。行こう」
リズは笑いかけると、先ほどまでと同じように歩き出した。
タルトはもの言いたげに口を開きかけたが、結局、何も言わなかった。代わりに両手に持った光石を掲げ、リズの行く先を照らした。
迷宮の中は相変わらず人の気配すら無く、何が出てくるのかすらわからなかった。何かいるのかもしれないし、いないかもしれない。進んでいる道が正しい道かどうかも、まったくもって確証が無いのだ。
リズが横道を見た時、ふっ、と、光石の光が弱くなった気がした。
「――光石は、光を吸収して発光するんだ」
リズは一度立ち止まり、そう言った。
「そしてその大きさによって、その容量も、発光できる時間も決まってくる」
そう続けると、リズは光石を見つめる。タルトも、同じように光石を見つめた。
「まさかこんな暗いとは思わなくてね。それはほとんど予備用に使ってるヤツなんだよ」
リズは、苦笑するように笑った。
それからもう一度壁に手をついた後、また歩き出した。今度はしばらく一本道が続いていたが、リズはいつ分かれ道が来てもいいように、じっと目を凝らし、辺りに注意を払っていた。タルトはリズを心配そうに見上げたが、やがてまた前を見つめた。
「リズ」
タルトは、思わずリズを呼んだ。
暗くなっていく光源の中で見えたのは、少し広い空間と、三つの分かれ道。そして、
光石は、足元すら照らし出せないほどになっていた。
「ちょっと待って」
リズは一度しゃがみこみ、目を凝らした。少ない光石の光では限界のようだ。しかし、こうも曲がりくねってきたのでは、一度戻るにも戻れない。
手袋を外し、手で何とか地面を触るが、ざらついた地面を正確に判断するよりも、それをやるにはかなりの時間がかかるという事実の方が、簡単に確認できた。反響する上に、この少ない光源の中、音と手の感覚だけを頼りに進んでいくのは、限界がある。
「早く抜けないと、光源がもたないかもな」
それでも正しい道を進むためには、慎重にならざるを得ない。そんなことはわかりきっていた。でも慎重になればなるほど、今度は時間を食い、城に到達するまでに光源が持たなくなるかもしれない。
嫌なほどの悪循環だ。
迷宮自体はほぼ単純な構造だろうが、それでも光が消えれば、ここで迷ってどんな事になるかはわからなかった。リズは一度宿屋に戻らなかったことを後悔していたかもしれないが、そんなことをしている場合ではなかったし、なによりも、地図が無い以上時間が無い。それはわかっていたが、リズは立ち上がろうとして止まり、また顔をしかめた。
「おやおや――」
突然、声が響いた。
「……タルト。今何か言った?」
「ううん」
二人がお互いを見つめる。
そしてもう一度前を見つめると、二人の目の前で突然、光がついた。
「わっ!?」
「赤水晶の気配がすると思ったら」
「人間じゃないのー」
光は、その高く歌うような声と共に増えてゆき、最後には三つの光になった。
「デモコレハ違ウヨ、前トハ別ノ人間ダ」
光は光石一つぶんの明るさを保っていて、辺りは一気に明るくなった。昼間のような――とはいかないが、それでもこの洞窟に入った時よりも明るい。タルトは驚くのと同時に、少しだけほっとしていた。
光はリズの周りを飛び回ると、また目の前で止まった。
「驚くこたぁないだろ。むしろお前らの方がシンニューシャなんだからなー」
そう言われると、リズは姿勢を正すしかなかった。
「はあ…それはすみません」
「それより、どこ行くのー」
どうでもよさそうだ。
「ええと、氷の城に」
「ああ、城ー」
「ワカルワカルー」
「それで通じるぞ」
その返答に、リズは少しだけ期待を持った。
「キミたちはその、ここに住んでるの?」
「住んでる?」
「すんでる、んじゃ、ない、の?」
「居るー」
「居ル」
「居る、よなぁ」
リズたちとこの光たちとでは、感じ方が違うようだ。
そもそも、この光たちが生物なのかどうなのかすらわからない状態では、何もいえない。
「リズ! この人たち話になるの?」
「じゃあっ、そうだ、この前に、私たち以外の人間が通らなかった?」
「ンー」
光のうちの一つが、考え込むような声を出す。
「通ったような」
「通らなかったようなー」
「通ッタヨウナー」
「どっちなのよ!?」
タルトが思わず声をあげると、光たちは二人をからかうように、周りをくるくると飛び回りながら言う。
「マァ、ソウ言ウナヨー」
「オイラたち、人間の気配とかわかんないもん」
「水晶の気配ならわかるけどー」
どうやら、自分達とは根本的に何かが違うらしい。今聞こえている言葉も、はっきり自分の耳から聞こえているかどうかすら怪しいのだ。
「……じゃ、結局わからないのかぁ……」
リズの元気の無い言葉に、光たちはリズの目の前に集まってくる。
「ソウ落チ込ムナヨ、人間ー」
「城への道くらいだったら、教えてあげるからー」
リズとタルトは、同時に顔をあげた。
「本当?」
「ただしー」
言いかけたリズの目の前に、三つの光が迫った。リズは思わず目を丸くして、一歩下がる。
「ただし、オイラたちと遊んでくれたら、な」
「え……」
「オイラたちのテリトリーに勝手に入り込んどいて、勝手に出てくつもりかぁ?」
「ソーソー。ソレニ、ココハ本来、俺タチガ居ルトコナンダゼ?」
「それにー、赤水晶持ってる人間なんてー、久しぶりだものー」
「赤水晶……」
リズは無意識に、首から提げた赤水晶を握った。タルトも、それを見つめる。赤水晶は彼らにとって、何か特別な意味でもあるのだろうか。
「じゃあ、遊ぼうかー」
光の一つが、リズの前にやってきた。
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