六、澄み落ちる宵と標灯

第14話

 鼻頭を弾いた水の感触に、紅は打たれたように天上を振り仰いだ。

「降ってきた」

 もっと確かな感触が欲しくて、少女は額を覆う前髪をかき分ける。すん、と鼻をすすれば、匂い立つ土の香りがずっと近くに感じられた。

 鼻先についた水滴を、少女は慎重深く十の指先で手繰り、そして、立つくす。降り始めた雨が、むき出しの額にぱたぱたと落ちた。

 冷たい。

 けれど、雪ではない。

 これは、雪ではなかった。

『雪が降り出す前には帰ってくる』

 そぼ降る雨の中、少女は瞼を降ろして耳を澄ます。

『だから悪いが、少しだけ』

 そう言って、紅の頭に一度手を置き、それきりいなくなってしまった人が帰ってくる気配はまだない。そも、帰って来る確証など実のところありはしないと、彼女は疾うに知っていた。望まずとも、いなくなることもある。動かなくなることも。

 紅は冷えだした指先を口にあてがって、呼気を吹きかけた。

 寒くなってくると、上から落ちてくる冷たいもの。それから、地面の代わりに足下に現れる冷たいもの。

 あぁ、ゆきが、と毎年、ほぅと息をつきながら母がこぼしていた。

 いつものように母に続いて庭に出ようとすると、止められる日があった。指先だけが肩に触れる。触れたかどうか定かでない感触は、やわらかに娘を隙間風吹く家の中へ押し戻し、母は一人で庭の水場に水を汲みに行く。

『ゆき?』

『そう、雪だ』

 首を傾げれば、実己が説明しだした言葉に、母が口にしていたものこそが冷たいものだったのだと知る。

 いっそ雪であったらよかったのだ。雨なんかではなく。

 そうすれば、きっと。もうすぐそこまで実己は帰ってきていたに違いなかった。



 しとど雨が降っている。

 潅茄邇かんなじは、続く岩道に幾度か足を滑らせそうになりながら、どうせなら岩山でない場所に建つ他の御堂に身を寄せるのだったと若かりし頃の選択を鑑みては辟易した。

 言ってしまえば己に神の教えを説いた堂主がたまたま人付き合いの苦手な性質だったというだけなのだが、うっかり彼について来てしまったかつての青年は切り立つ崖の端にくっつくようにして建つ御堂を見て愕然とするしかなかったのを覚えている。それが今では己が堂主になってしまったのだから、嫌でも離れることができない。

 里からそう離れている訳ではないが、場所が場所だけに立ち寄りたがる者もいない。今日のような雨の日に、足を滑らせれば、修行を積まずとも天上の神々の身許に馳せ参じてしまえる危うげな道を好んで登ろうとするのはよほどの物好きか、はたまた事情を抱えこんだ厄介者だけである。

 雪の降る冬になればとても通ることはできないから、潅茄邇もふもとにある堂に身を寄せることになる。今年は例年に比べ随分と冷えるから、早いうちに移ってしまおうと準備をしている最中だった。

 ようやく堂が見えてきたことに気を緩めた潅茄邇は、雨避けの編笠を杖先で押し上げ、目をすがめた。

「御堂にどなたかいらしているようですね」

 のんきそうに言ってきた弟子に、潅茄邇は「だな」と肩越しに応じた。

 降り続ける雨の中、堂の前に佇む者は、軒下に入る素振りも見せず、雨に濡れるに任せている。

 背恰好から男と検討はつくものの、雨で霞む視界の先では、影のようで輪郭がおぼろだ。まして男が手にしている刀ともなると、なおさらのはずだった。

 潅茄邇は、込み上げてきた苦みを無言で呑みくだす。

 その長さ。そりのある鋭い切っ先を包む、しなやかな漆黒の鞘。もう一年以上も前、無理に押し付けられた時の馴染みのない重さが手の内に蘇る。覚えこめ、と難題を言ってきた、太く、低い、昔馴染みの快活な笑声も。

 だから、たとえ、似た拵えのものと置き並べてあったとしても、潅茄邇は迷わずその刀を選べたろう。これほど距離があっても一瞥で判断がついたくらいだ。

 ――ようやく来たか。

 ――やはり、だめであった。

 相反する想いを抱いて、潅茄邇は口を引き結ぶ。強まった雨足に任せて、彼は歩を速めた。



 ぱたぱたと雨に叩かれる音が耳に届いた。今まで周囲を取り囲んでいた雨音とは異なる軽い音。実己が首を巡らせたその先で、ぬかるみが水を吐き出すようにゆるりと動いた。

 実己は、ぬかるみを踏んだ泥まみれの足先を辿って、その人物を見上げた。眼前に立ったのは、長身の実己よりもさらにいくらか上背のある初老の男だった。その後ろには、細面の若者がやはり編笠をかぶり、杖を手にして、付き従っていた。雨避けのためか、まとっている外掛けは、どちらも渋茶色であったが、手前の男の襟元からは、濃紺が覗く。それが、神職に身を置く者のうち、どの宗派の、どの位を示すものか、実己には見当がつかなかったが、伝え聞いていたものと一致していることにひとまず安堵した。

 手前の男は、つ、と、手にした杖先で編笠を持ち上げる。ぱたた、と降り注いだ雨が笠にはじかれた。角張った輪郭に引き結ばれた口元は厳格で、何よりも、大きな眼には見る者を萎縮させる力がある。の割に、目尻から伸びた幾数もの皺は柔らかく、人のよさも見え隠れするちぐはぐな面相をしていた。

「……潅茄邇様ですか」

 実己が問えば、男は「むう」と頷きとも呻きともとれる声を出した。ずぶ濡れの実己を上から下へ眺め回し、見極めるように眉根を寄せる。

倶堆ぐてにしては、随分と若いな。なだか、実己か」

 息を詰めた実己の脇を、初老の男は大股で通り越して、「おおーい」と堂の内へ声をかけ、木戸を杖で大ざっぱに叩いた。

洲邇すじ、おらぬのか。この雨の中、客人を外で待たせるとは何事か」

「はいはい、おりますおりますおりますよっ!」

 叫び声と共に奥からどたどたと駆け足が聞こえたと思うや、がたがこと木戸の掛けがねが外される。

「まったく客人もなにも、こんな雨の中、こんな場所にいらっしゃる物好きがどこにいるって言うんですか」とぐちぐちと文句を垂れながら、木戸を開けた青年は、全身ずぶ濡れの実己を目にするや、「って、いた!?」と目を丸くした。

 潅茄邇は、ほれ見たことか、と言わんばかりに、洲邇の頭をぽかりと殴ると、編笠についた雨粒を払い外し、さっさと堂の中へ入ってしまう。

「あなたも来たのなら、木戸のひとつも叩いてくださいよ」と頭を押さえながら恨みがましく言う若者のもとに、後方にいた若者が立ち並ぶ。

「さ。どうぞ」

 穏やかに促され、実己は目を瞠った。

 実己の視線の問うところに思い当たったらしい、うり二つの顔が、揃って「ああ」としたり顔で頷きあう。

「洲邇とわたくしは双子です」

 ちなみにわたくしは兄で、莎邇さじと申します、と編笠を取り外した若者は、温厚そうに笑みを深めた。

「どうぞ中へ。これ以上ここにいても、あとは凍えるばかりですから」

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