七、依り辺の岸の色
第21話
ちらちらと凍える景色に、雪が舞う。
広がる木々の枝の合間をすり抜けて落ちた雪片は地に到達した先から、するりと溶けた。地一面に、敷き詰められた黄や紅の朽葉は、溶けゆく雪を受けるたび、わずかばかりかつての鮮やかさで艶を帯びる。
絶え間なく明け方から降った雪は、時を追うごと次第に積み重なって落葉ばかりの地面を真白に覆い尽くした。
木の枯れ枝すら残らず覆い隠して、白雪が景色を塗り潰してゆく。
庵から飛び出た少女は静けさを吸い込む景色の中、「実己」と男を呼びまねいた。
「こっち。よい匂いがするの」
辺りに広がる雪原に、ぽとり、ぽとり、と足跡が伸びていく。
少女は手を伸ばした。ひらとひらめいた掌は周囲の色に添って淡く、何も映さぬ澄んだ茶眸が曇天の薄空に向かう。
「冷たいの。雪、また降ってきたね」
あぁ、と実己はつられて天を仰いだ。
「雪だな」
ふふ、と紅は笑みを零して、「雪。冷たい。白、でしょ」と、嬉しそうに口ずさむ。今度はこれが同じ色、と彼女が掴んだ衣の裾は、よく洗われて澄んだ色をした生成りの綿入れだった。
綿入れをまとっている分丸みを帯びた紅は、歩きにくささえ楽しんでいるように雪の中を進む。ぽてりぽてりと彼女が歩むごとに、足が沈んで雪に埋まる。雪積もる地面にあまりに近くては、寒そうに思えて、実己は紅を後ろから抱えあげた。
頭上近くで軽やかな笑声が鳴る。束の間、吹き付けた凍風が鼻にしみたらしく、ついと眉根を歪めた紅は鼻を袖で覆い擦った。
久方ぶりに外に出て疲れたのか、紅は、ほてり、と頭の上に片頬を落としてくる。やおらゆるりとつかれた息が、細く辺りにたゆたった。
「なんだか光ができたりなかったり」
ひらり、と伸びた紅の掌があたって、近くにあった枝先の白い樹花を揺らす。まだ春には遠い冬の中途、いつの間にか狂い咲いていたらしいその花は、枝を覆う雪と共に、はらはらと花びらを零した。風が吹けば、花の香と共にあたり一面の木々から枝に積もった雪が零れてくる。
流れていく雲間から時折、思い出したように差し込む陽光に反射して、風に巻かれた雪花が目の前で瞬いていく。
ひらり、ひらり、と紅の手は差し込む光を弾いて、翻る。すん、と鼻を鳴らして、紅は呟いた。
「白って、いい匂い。きれいね」
なるほど、確かに、眼前に広がるのは紅の言葉どおりの豊かな光景であった。色も、音も、香りさえ反射して、美しさが吸い込んでいく。
深い心地に陥りそうになる間際、紅がくしゃみをして、実己は笑った。
「風邪ひいたら、
「今日は来ないと言っていたよ?」
「どうだろう。世話焼きだからなぁ」
なぁ、と口真似をして、紅はくすくすと笑う。
あの日、実己が
ほら見ろやっぱり放っておいたら自ら命をたってしまったではないかと、心の内で散々師を詰ったあとに、洲邇は送魂の祝詞をうたいあげた。
「もし」と、洲邇が行き交った村人に山近くの家に住んでいた者のことを尋ねれば、村人はとたん色を失くし震えながら逃げていった。続いて尋ねた者も動揺を隠せず、強ばった顔の中で視線だけをしきりに彷徨わせた。
そのうち、話がまわったのかもしれない。村の通りを進むうち、一目で神職と知れる渋茶の上掛を纏っている洲邇を遠まきに見留めた村人たちは怯えながらひそひそと囁きだした。
「やはり、出たのだ」
「妖の亡霊が」
「狂ってしまった」
「あの幼子が」
「近所の子らは」
「今も恨んで」
「村を祟っているのだ」
聞こえはじめた囁きに、洲邇は首を傾げる。不可解さに声をかけようとしたところ、洲邇は老いた男に暗がりから腕をとられ、裏路地に引きずりこまれた。
「余計なことをするんじゃない。あんたの探し人はうちにいる」
驚いて詳しく聞こうとしたところで、目線で黙れと一蹴される。そのまま連れて行かれたのは村医者の加地だと名乗った老人の自宅だった。
部屋の仕切り戸を開けた先、奥の間の一角を隠すように、天井から白布が吊るされている。視線を巡らせる洲邇に、常は療養を要する重病人のために設けている場所だと老医者は言った。
加地は白布の内側へ二言三言声をかけ、白布の端を捲り上げる。顎でしゃくられ促されるまま中に入った洲邇は、虚をつかれたような表情の探し人と相対することとなった。
「驚いた。潅茄邇様かと思っていた」
「そっちこそ、別人じゃないですか」
「あぁ、洲邇か」
得心するように頷いて、実己は何もない口許に手をやった。つい先頃、あれだけ拒んだにもかかわらず、あっさりと小綺麗に――少なくともあたりの村人と大差ないくらいには身なりを整えている男に、洲邇は拍子抜けした。
「焦げてしまったから。ここの人らに見られているしな、念のため」
「そうです。驚きましたよ、あなたの家」
生きているなら一体何があって、と続けようとした洲邇の言葉は、「誰」と、か細くあがった少女の声に遮られた。見れば、敷布に横たわっていた少女が、顔を傾けてくる。頬も、額も、火照った色をした彼女は、うつらとわずかばかり目を開いた。
傍に座した実己が、毛布の隙間から弱々しく出された指先を握り返す。
「うん。俺の知り合いだ」
「知り、合い?」
「大丈夫。よい人だよ。大丈夫だ」
うん、とかすかに声を出して頷いた少女は、とろりと重たげな瞼に引きづられるまま、眠りについた。
村人たちのささめきと、横たわる少女が重なって、洲邇は気色ばむ。
声を失くして立ち竦む洲邇に、加地は座るよう促して、これまでのことをかいつまんで話した。そうして事件が起こった後、この場で二人を匿ってきたと話をとじた。幸い二人とも命にかかわる怪我こそ負わなかったが、負担が大きかったのだろう。少女の熱は数日たった今もまだ引かないと言う。
「出ましょう、実己さん。この子は早く、この村から出した方がいい」
聞き終えるなり洲邇は、実己にそう断じだ。
二人の身は御堂で預かると言い切った洲邇の動きは早かった。呆気にとられた実己の答えは待たず、明け方に出発することを言い渡した。医者に熱冷ましの薬と処方を用意するよう言いつける。そのまま止める間もなく表に出ていった洲邇は、村の方々を訪ね歩き山の麓をさまよっていた少女の霊魂は無事に慰め神の御元に送ったから安心しろと説いてまわった。
村を出ることが決まったその日、夕前に老婆がそっと加地の家を訪ねてきた。眠る少女の額をこわごわと指先で撫でた老婆は、紅の父方の祖母にあたるのだと、実己は加地から静かに聞かされた。
医者夫婦に見送られ、実己ら三人は薄墨色の夜明けに村をあとにした。まだ熱の残る紅を背負い、先頃進んだ帰り道を、実己は不思議な心地で戻った。
冬の間の麓の里の仮堂で、洲邇の帰りを待っていた潅茄邇と
潅茄邇が、二人にあてがったのは人里から離れた庵だった。木々深い山の中にある庵は、時折、長期で訪れる風変わりな客らを宿泊させたり、さほど必要ない堂の雑多な書物や物を保管してある他、利用することがないという。ただ放っておくと朽ちていくばかりなので、そも、誰も来ないとわかった今、管理するために誰か人を雇わねばならぬと考えていたらしい。
春になったら本堂の方にも手伝いに来い、と潅茄邇は実己に言った。
加地が用意した薬が切れる頃、ようやく紅の熱は引いた。それでも、長く床についていたせいか、まだ長く立ちあがるのは疲れるらしく、縁側にほとりと座り込んでは、ぼうっとしていることがある。
寒かろうと、実己は温石を渡してやった。火で温めほどよく冷ました温石は紅の気に入るところだったらしく、猫のようにまるまっては腹あたりに石を抱え込んだ。もはや、温まっているのか、温めているのかわからぬ様は傍目にもおかしく、日溜りで憂いなく穏やかに過ごしている少女の様は、実己を安堵させた。
そうして大方、寒風吹きつける日溜りでまどろんでいる二人を見つけることになる洲邇は、訪れるなり二人を叱り付けることが多々あった。「この分ではまたすぐ熱を出してしまう」と小言を繰り返して帰った折の翌日には、分厚い綿入れを二人分寄越した。
「多分、あんまり長く外にいると、また洲邇に怒られるなぁ」
ちらつく雪が、目の前を行き交う。紅を抱えたまま、教えてもらったばかりの花の枝を実己が指先で弾くと、また、雪と花が零れてはらはらと舞った。漂う花の香がいっそう濃くなる。くすくすという陽気な温度を持った笑声が、耳に心地よく響いた。
「洲邇、いっぱい怒るの、おもしろいけど」
「おもしろいか」
「うん、おもしろい。潅茄邇はういういって言って、頭を撫でるからおもしろいでしょ、莎邇はお菓子をくれるから嬉しい」
あぁでも、と紅は手遊びをするように、実己の髪をぺしぺしと払う。いつの間にのっていたのか、雪粒がいくつも落ちてきて、実己の鼻先で消えた。
「実己の髪と髭が短いままになっちゃったのはおもしろくないね」
「手伝いとして置いておく奴が、山賊と間違われて怖がられると困ると言っていた」
「ううううん。……怖いは、困るからね」
ならしかたないねぇ、紅は半ば気落ちしたように、不服そうに息を吐き出す。
実己は、くしゃりと相好を打ち崩した。
「怒られるまでやってみるか」
「洲邇に?」
「そう、洲邇に」
「内緒で?」
「そうだな、内緒で」
「内緒! おもしろいね!」
軽やかに弾んだ声音を出して、紅は脚を揺らす。実己が緩めた腕の間から、彼女は勢いよく雪原に飛び降りた。
短く切りそろえられた黒髪が、肩口で楽し気に揺れる。深い雪に足をとられながら、庵に向かって駆けていく。中途、遊ぶように雪の合間でくるりくるりと回った紅を、実己は目を細めて見やった。
降りしきる雪が、静寂を含んで頬に落ちる。柔らかな温度を持って、真白な雪は肌に溶けた。
【終】
紅の薄様 いうら ゆう @ihuraruhi
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