第10話

 庭の草木は急にざわめきだした。葉の動きを追いかけて、風が吹き流れる。

 少女の前髪はぶわりと舞いあがった。遮るものない額を、冷たい風がせき立てる。少女は身体が浮き立つ心地がして、預かり受けた刀をより一層抱え込んだ。

 ともすれば漏らしそうになる呻きを、彼女は必死に飲み下して、木の根にうずくまり続ける。

「寂しそうな顔をしているな、娘っ子」

 何の予兆もなくかけられた声。初めて耳にする声質に、少女ははっと顔を上げた。

 頭上の木々が、葉をこすり合わせてさんざめく。葉の間を突き抜けた陽光が、少女の額にじわりと沁み込んだ。薄い光を遮る人影はない。

「誰」

 少女は肩を強張らせた。手を強く握り込み、身丈にはあまりに長い刀を引き寄せる。

「そう怯えるな。この近くでそういう顔をされるのはあまり嬉しくはない」

 声と距離とがぐんと狭まった。いつの間にこんなにも近くまで迫ったのか。風の唸りによく似た声は、少女の目鼻先で響いた。それも根元に座している彼女と同じか、より低い位置から。

 臭く饐えた生温かい息が顔にかかる。まるで人間のように息をつく。腹を押された感じさえ受けて、彼女は身を震わせた。

「誰?」

「名なら、お前が名乗ればよかろう」

「紅」

 少女は名を口にする。反応はなかなか返ってこなかった。合間の沈黙が恐ろしくて、彼女は、ぐ、と顎を引く。得体の知れぬ相手は、すんと鼻を鳴らした。

「それはお前の名ではなかろう」

 問い掛けるような声色だった。優しげに響く声は、訝しさを内包している。

 だけど、と紅は言い返す。力を込めて刀を抱き寄せた。

「だけど、これは私が貰った名。これは、私の名。私はこれ以外に私の名を知らない」

「お前がよいのならばそれもよかろう?」

「――っ」

 紅は、口を開いた。動こうとする唇に逆らって、吐き出した息はどれも頼りなくかすれて、音が鳴らない。

 ちらちらと目を刺す木漏れ日が、単一の世界で明滅する。さっきまで近くにいた鳥はどこかへ行ってしまったのだろうか。さえずりも何も聞こえなくなった。

 ひとつ、と姿のない相手は、言葉を重ねる。

「聞きたいことがある。彩りの名を与えられし娘子よ。この辺りに花が咲いていないだろうか。できれば、いっとう美しい花がいい」

「……は、な?」

「そうだ」

 相手は断じた。紅は息を潜めて耳を傾ける。だが、あると思った続く言葉はなかった。

 ならば、早くこの相手にどこかへ行って欲しくって、少女は花に想いを巡らせる。

 薄い艶やかな花びらなら、どこにだってなっている。ただこうも寒くなって来ると、その数も減りつつあった。

 この季節。山の入口に咲く花ならば、幾度か母と摘みに出かけたことがある。喉がいがらっぽい時に、蕾を煎じて飲むと、痛む喉がうんと楽になる。胸をすくよい香り。とても嬉しくなる香が舌の先に蘇った。

「山の入口か」

 唸りに似た声が耳を打つ。驚く少女の周囲で、草木がまたざわめきだした。

 なるほど、と相手は一人得心したように口内でごちる。

「お前はよほど心配されているのだな。この庭の草木に」

 背にあるのは、ざらつく幹の感触。むわりとした獣臭い息を鼻先で感じた。出所のかわからぬ焦燥感に、肌が泡立つ。少女は鞘に収まった刀に縋りついた。

「どうして」

「分からないか?」

 さも意外そうに、相手は問い返す。

「花の礼だ。息吹の名を持つ娘子よ」

 刀を握りしめる手の甲に、硬い毛並みが触れる。びくりと身体を竦ませた彼女の耳元で、唸りに似た声は反響した。

「光ばかりのその先に、どうか闇の垣間見えんことを」

 首筋に濡れた鼻先が、ひやと押し当てられる。

 少女は、目を見開いた。







 ガツン、と鈍い音が立つ。

 紅、と呼ぶ声が叫んでいた。

 身体を覆っていた重みが、トンと軽くなる。

「まったく乱暴なものだ」

 防がなければ当たっているぞ、と憎々しげに吐かれた言葉が、遠い向こうから聞こえる。

 ――紅、と強く肩を掴まれて、少女は自失から立ち直った。

 同時に、全ての音が蘇る。葉がざわざわと揺れた。ばさりと立つ羽音と共に枝が弾かれる。水場から零れ落ちた水流が、徐々に土の中に沁み込んでいく。

「紅!」

 肩を揺すられた紅は、後ろに振られた首の痛さに顔をしかめ、呻いた。

「み、こ」

「無事か!?」

「……実己?」

「どこも噛まれてなどいないのか!?」

 少女は、感覚のなくなった頭で、ゆるく首を振った。

 瞬間、背ごと抱き寄せられた肩に重みがかかった。安堵の声が頭の後ろで響く。首裏にあたるのは、髪なのか、それともあの髭なのか。うなじをちくちくと苛むものが、こそばゆくて仕方がない。

「う、」

 紅は嗚咽を漏らして泣き喚いた。手を伸ばして、実己の首にしがみつく。

 次々に胸に去来する千切れた感情が何なのか、彼女には分からなかった。

 悲しかった。恐かった。寂しくて寂しくって、とても悲しい。

 糸が切れたように泣き続けた。途切れた糸の先を見出すことができない。己の泣き声以外、何も聞こえなかった。耳の奥が頭にまで響いておかしい。震えだした音が、痛かった。





 ほう、と銀毛の獣は、目を細めた。

 風がなだらかに、野の表面を滑ってゆく。すっと伸びた草の合間合間に、薄緑の花が咲いていた。花の存在を聞いていなければ、草の色に紛れて見落としてしまっていただろう。爽やかな香気が地を満たす。

「見事なものだ」

 しばらく緑一色の景色を眺めていた銀獣は、ほどなくして鼻を草原の中に埋めた。

 噛み切った細い茎から、ぱっと澄んだ芳香が立つ。銀獣は草色の花を一輪、口にくわえると、山の中に姿を消した。





 水場で椀に水を汲み入れた実己は、紅の元へと引き返した。

 ルグの根元に座したまま、未だ喉を引きつらせている少女は、よほど泣き疲れたのか、頭を大木に預けてぐったりとしている。

 大丈夫か、と実己は紅の身体を支え起こした。ぼんやりとした表情で頷く紅の瞼や鼻は、腫れぼったくて、見るからに痛そうだ。

 よほど喉を枯らしたらしい。紅は口元にあてがった椀の水をゆっくりと、だが息もつかずに飲み干してしまった。

 実己は、紅の口端に零れた水を指で拭いとる。「実己」と、彼は焦点の合わぬ目で紅に呼ばれて、どうしたのか、と首を傾げた。

 少女は、膝に載せていた長刀を頼り気なく持ち上げる。

 実己は黙したまま、小さな手が持つ傷だらけの黒鞘を見つめた。この世に一振りだけの刀。最早他にはない刀。かつても『実己』と呼ばれて差し出された。

 実己は黙した。手にしていた椀を地に置いて、再度刀に目を落とす。

 真っ直ぐに伸ばした腕で、彼は託された刀を受けとった。それは傍から見れば恭しくもあったろう。

 けれども、実己はすぐに刀を脇に置くと、手から離した。

 代わりにその手で、実己は少女の頬に張り付いた涙の跡筋を拭きとる。不可思議そうな彼女は、不意にこすられた指のままに顔を歪めた。

「あのなぁ、紅。こんなものは放り捨ててよいから、獣が来たら真っ先に逃げないといけないぞ?」

「……獣?」

「さっきいたろう。野犬か、狼か……喰われているのかと思った」

 つい今しがた目にした光景を思い出してぞっとする。犬や狼にしては、やけに大きな銀の獣が、細い首を噛み砕こうとしていた。咄嗟に投げつけた石。その程度で、すぐさま獣が去ったのはよほど運がよかったのだろう。ルグの根元であったから、まさかとは思ったが、筋骨の浮いたしなやかな体躯の下から、褪せた紅布の切れ端が見えた時には、臓腑の隅々が冷え渡った。

「だけど、実己。喋ったよ」

「喋った? 何か口をきいたのか? あの獣が?」

 首肯して、紅は顔を凍らせる。

 その怯えようを見れば、眼前の少女が嘘をついているなどとは到底思えなかった。

「ならば、あやかしの類か……」

 実己は、獣が行方をくらました方角を眇め見る。跡形もなく消えた先には、すでに何の気配もなく、いつもと変わらぬ山があるばかりだ。

 変哲のない山並みから意識を外して、彼は目先を少女へと落とす。

「何にしろ、危ない時は家に隠れろ。できなければ、助けを呼べ」

「助け?」

「そう。どうしようもなく恐ろしい時は、“助けて”と叫ばないと、誰も気付いてはくれないぞ」

「……“助けて”」

 少女は、掠れた声で呟いた。実己はそれをみとめて頷きを返す。

「だが次はないようにする。もう二度と。……だから大声でな」

 実己は、誓約を込めて少女の頭を撫ぜた。果たして意味を解したのか、いないのか。どけた手の下から覗いた紅は、ついと眉根を寄せていた。

「実己」

「どうした」

「塩は……。塩はあった?」

「あ、あー……」

 実己は、見えぬ双眸から目を逸らす。確か庭先までは手にしていた覚えがある。そこから後の塩壺の行方など知るはずがなかった。恐らく、どこかに転がっているだろうとおおよそのあたりはつくのだが、中身が無事かは分からない。

「なかった?」

「あった。あった。ちゃんと買ってきて、ちゃんとしまった」

 少女が不安に浸されぬうちに、実己は嘯いて立ち上がる。辿った行程を引き返せば、容易に見つかるに違いない。実己は、深く考えることなく足先を庭の口に向けた。

 ふといなくなった人影。歩幅の広い足音が遠ざかるのは早い。少女は手をついて立ち上がると、転がるようにして後を追いかけた。

 少女がおぼつかない足取りで追って来ることに気付いた実己は、一度立ち止まると「危ない」と、彼女を抱えあげた。いつ絡まるやもしれなかった足が地から離れたことに、彼女は彼の肩口で、「うん」と息をつく。

 家の陰で、塩壺は見事に転がっていた。蓋の外れた壺からは、中身が半分ほど飛び出ている。少女を抱えたまましゃがみ込んだ実己は、まぁ半分は使えるか、と転がる壺の縁に手をかけ立ちあげた。

 実己は、塩壺の傍に落ちていたトクル葉の包みに目を留める。そういえば、こちらもすっかり失念していた。彼は、塩壺は後で片すことにして、饅頭の包みだけを拾い上げる。そのまま家のひさしの下に入り、腰を下ろすと、壊れそうな木壁を背に、彼は凭れかかった。実己の膝から降りた少女は、何が楽しいのかくすくすと笑いながら、ちょこりと彼の横に腰かける。

「実己、実己。空が変わるね。面白いね」

 掌を空に突き伸ばして、小さな少女は眩しそうに目を細める。

 見上げると、傾きだした夕日が、空を朱色に染めだしていた。色づいて筋状に広がる雲は、錦を川にさらしているかのようだ。

 実己はにわかに驚いて、ふっくらと夕日に縁取られた少女の輪郭を見やる。

「夕暮れが分かるのか?」

「分かる。あのね、朝と夕はどんどん変わるから面白いよ。明るくなっていくの。暗くなっていくの」

「そうか、光が見えるのか」

「見えるは分からないけど、光は知ってる」

 誇らしげに顔を輝かせて、少女は言った。

「朝はとっても好き。夕もとっても好き。どっちも好きだよ」

 へぇ、と実己はいたく感心して彼女の言に頷く。瞼を閉ざしてみれば、なるほど。そこには何色ともつかぬ、だが確かに光と呼べるものがあった。以前から、知っていたはずなのに、たった今気付かされたことに男は、少なくない感銘を受ける。

 再び開いた空は、赤々と燃え広がっていた。沈み行く陽が、徐々に薄暗さを増していく。すぐに辺りは闇に落ちるだろう。


 嘉隈かぐま様、と柔らかな声が耳の底に落ちた。

『私は、ここから朝を吸い込む海を眺めるのが好きです。ここから見る朝日ほど美しいものはありませぬ』

 穏やかな日々だった。あの場は静かにも、幸福に満たされていた。

 目を閉じる。あの日、同じく外で番をしていた灘は庭先に降りてきた二人の会話に『言えている』と笑いながら小声で相槌を打ったのだ。


「実己?」

 見上げてくる目。見えるはずのない目は、逆に奥底まで覗き見られるような錯覚を植え付ける。

「どうしたの? 痛いの? 苦しいの? お腹が痛い?」

 少女は、ぎゅと実己の袖を握りしめた。

 彩りのない茶けた双眸には、己自身の姿が映り込む。人が、それをおかしがたい恐れとして見るのは、水鏡のように何の嘘偽りのない己がその場に照らし出されるからであろう。少女に非があるはずもない。よい目である。とても美しいのだ、本来は。

「お前はよい子だな。本当に」

 実己は少女の頭をくしゃくしゃと撫ぜすかす。判然とした意味を飲みこんだ少女は、ひゅっと息を吸い込んだ。

「実己?」

「大丈夫だ、紅。どうもない。朝日の方が好きかも知れないと、そう思っただけだ」

「……そう」

 そっか、と口元を緩ませた少女は息をついて、握っていた彼の袖から手を離す。

「なら、紅も朝日の方が好きだなぁ」

 ほとりと座りなおした紅は、日を抱いた山を望んで、嫣然と笑みを広げた。かと思えば、年相応に首を竦めた彼女は、口元に手を当てて、くすりくすりと常と同じく打ち笑う。

「甘い匂いがする」

「……あぁ、忘れていた」と、実己は手にしていた包みを開く。

 顔を出した薄茶の饅頭は、時間が経過している上に、一度落としたせいか、初めに見た頃よりも、随分と平たくなってしまった気がする。だがトクルの葉が移した香は、よく饅頭にしみ込んでいるらしく、取り上げると何とも芳しい香りがした。

 約束の土産を手渡された紅は、両手で持った饅頭にかぶりつく。紅の顔の半分はあるその饅頭は、彼女が持つと饅頭とは別のものに見えた。

「甘いね、実己。饅頭、おいしいね」

「そうだなぁ」

 笑う少女に頷き返して、実己は手にした饅頭を齧る。

 山の稜線を描きだした光は、とうとう最後に太陽を山の中へと押し込んだ。後に佇む残り日は、太陽が沈んだことも知らずにまだ辺りを煌々と照らし続ける。

 水気のない饅頭はぱさぱさしていて、妙に頬の裏に張り付いた。

 けれど、甘かった。

 染み入るほどに、飾り気のない甘さだった。

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