三、菜の草芽は口を結んで

第3話

 しとねに横たわり、何事かを呻き続けている実己の額に、紅は自分の手を置いた。

「やっぱり熱い。風邪……かな?」

 紅はぽつりと呟いた。返ってくる答えはない。

 ただ熱を移した掌がじんわりと湿り気を帯びた。

 朝、紅が起き出した時にはもうすでに実己はこうなっていたのだ。

 ぜえぜえ、ひゅうひゅうと実己は息を鳴らす。彼の胸に耳を押し当てていた紅は、耳を離すと首を捻った。

「風邪と似てる音がする。でも、咳は鳴らないね。風邪、なのかな?」

 紅は実己のまなこを確かめ、なぞる。閉じられた瞼は、僅かに動くも睫毛を震わすのみに留まった。

「~~……」

「何て言ってるのか分からないよ」

 紅はむぅと眉を顰めた。

「あったかいの。冷たくないの。熱いの、……冷たくした方がいいのかな?」

 紅はひょいと褥から降りた。そのまま、庭へと続く戸に向かう。

「熱い実己は、やっぱり紅いのかな?」

 振り返るも確かめる術はない。時折、大きくなる吸音を聞きながら紅は立ち止まった。

「苦しいのかな? でも、やっぱり咳は鳴ってないよね。血も出てないよね。だけど加地かじさんいるかな? 呼んだ方がいいのかな? でも、村には行ってはいけないと言われた」

 紅は一人、座り込んだ。両の膝をぎゅっと抱きしめる。

「嫌だなぁ。それは嫌だなぁ」

 紅は膝を抱えたままゆらゆらと揺れる。

「言ってくれないと分からないのに。何も言わなかったから、動かなくなって、連れて行かれちゃったのに」

 膝頭にこてんと顎をのせて、耳を澄ます。けれど、これだけ言っているにも関わらず何の反応も示さない実己に対して、紅はしかめっ面を返すと「もう」と息をついて立ち上がり、とてとてと外に出て行ってしまった。





 実己が目を覚ましたのは、やはり、今回も水音によってだった。

 さらさらと流れゆくのではなく、ぽちゃりぽちゃりと音を立てて水は揺れる。

 受けた矢傷は深くはないが、だからと言って決して浅いものでもなかった。さらされた河水の分量だけ、残り少なかった体力さえ奪われていた。何より幾日にも渡り、積もり重なっていた疲労こそが、彼に熱をもたらした。

 熱に浮かされた実己は、何かを思い起こすよりも先に、水音に惹かれて、姿が見えない紅を探す。それは、ほどんど無意識で、ともすれば親鳥の後を追う雛のように、必然とされ疑う余地もない義務であった。

 首を動かしてみるも、少しばかりしか動きはしなかったから、実己は代わりに両の目を動かし、巡らせる。

 しかし、その狭い視界さえも、べちゃりという音と共に阻まれることになったのだ。

 突如消えた世界。暗闇ではないが、うすらとしている闇。顔を覆う冷たさと、つたいしたたる水の感覚に、実己は堪らず小さく呻いた。

「実己、今、しゃべった!? 実己、起きた!?」

「……紅?」

「起きたあ!」

 高く、やかましい声が響きわたる。けれど、実己は耳をつんざきそうな声よりも、体の上にのしかかってきた少女の重みに「うっ」と呻き、顔を歪めた。またがっている紅の方は、実己の様子など気にした様子もなく、起きた、しゃべったと、はしゃぎ続ける。

 紅をどかそうにも、今の実己にはとてもどかせやしない。だから、彼はとりあえず右腕を動かし、顔からずれ落ちかけている布を手に取ろうと試みることにした。首を巡らせるのは辛かったのだが、傷を負っていない側の肩を動かす分にはそれほど支障はないらしい。首も腕も動かすこと自体が億劫だということには変わりはない。だが、それよりも顔の上にある水気を含み過ぎた布が邪魔で仕方なかった。

「実己、加地さんいる?」

「加地……?」

「そう、加地さん」

 一体それは誰なのか。

 実己は訝しく思って尋ねてみたつもりだったのだが、返って来たのはただの繰り返しだった。

 実己は若干考えてはみたが、結局「いらん」とだけ返した。

 加地がどういう者であるにしろ、充分に体を動かすことのできないこの状態で見知らぬ人間に出くわすのはよろしくはないだろう。谷津牙やつがの妃、紅華くれはなを探す双日の追手衆が、未だこの辺りにたむろしているだろうことは、熱に苛まれている頭でも容易く予想できるのだから。

「本当にいらない?」

「ああ、いらん」

 実己が再度断りの言葉を告げると、紅はふと顔をほころばせた。透き通る茶の瞳には喜びなど欠片も映ってはいなかったが、喜んでいるようにも見える笑みではあった。

「よかった。加地さん、いらないね。加地さん、いつも苦いの持ってくるから。だけど、苦いのはお薬だから、お薬は飲まなきゃ駄目だから。実己もお薬嫌い。いらないの、よかったあ」

 それなら、“加地”とは薬師か医者か。

 実己がそう思い当たった時、紅はひょいと嬉しそうに跳ねた。少女にまたがれ、下敷きになっている実己の方は、もろにその影響を受けるのでたまったものではない。高熱を宿して、体を思うように動かせないのだから、尚更だ。

「……紅」

「なあに?」

 ようやく収まった振動に、実己はほうと安堵の息を洩らしつつ、右手に持ったままであった布を紅の手に触れさせた。

「水が多すぎる。できるのなら、ちゃんと絞ってくれ」

 ぽたり、ぽたりと布から零れた雫は赤く荒れた小さな手の甲へと落ちた。ぐしょりと濡れた布は、少し揺すれば、ぽちゃりと音をたてるのではないかと思うほど。このまま放っておけば、すぐに褥に水たまりができてしまうのではないかと思わずにはいられぬほど、ぽたり、ぽたり、と雫は絶え間なく滴り続けている。

「ちゃんと絞った方がよかったの? 実己、熱かったから、冷たい水いっぱいの方がいいかと思ったのに」

「ちゃんと絞ってあった方がいい」

 そう? と紅は呟き返し、少しばかり迷った後、ひょいと実己と褥の上から降りた。

 どうやら水を張った盥が近くにあるらしいと、実己が気付いたのは、すぐ傍でじゃぶじゃぶと布を洗う水が音を立てたからだ。

 昨日このあばら家に辿り着いた時、確かに水汲み所はあったようだが、紅は一人でまかなったのだろうか、と実己は考える。盲人だというのに、一人でここまでできるものなのか。続く思考はひやりとする布を額にあてがわれたところで閉ざされた。

 申し分のない水気を含んだ今回の当て布は、素直に気持ちがよいと思えるもの。心地の好さに実己はうすらと目を細めた。

「実己、ご飯いる?」

「いや、いらない」

 空腹は全くと言っていいほど感じはしない。それよりも、眠気とだるさの方が勝っていた。

「寝ていてもいいか?」

 紅からの答えは随分待っても一向に返っては来なかった。落ちそうになってきた意識をまどろむに留め、実己は右手を紅に伸ばす。

 絡めた細い髪はさらりとは流れない。絹糸とは遠くかけ離れたちぢれ糸であろうと、漆黒であることには何ら変わりはない。

「髪、紐は?」

 結んでいないから、ばらばらにほどけて零れ落ちてしまうのだ。複雑に絡んでは、千切れてしまうのだ。

 紅は、むむむと顔を俯かせた。

「だって、私できないよ。結べない。分からない」

 たもとを探って、紅は一本の朱紐を取り出す。掲げられた朱紐を見て、実己はふと口元を緩めた。

「分かった。起きてから結ぶ」

「うん、ちゃんと起きて、ね」

 紅は褥の縁へりにちょこんと座っていたが、結局は手を付いて立ち上がると、そそとどこかへ行ってしまった。

 本当に気配が離れて行って、小鳥が枝を弾き移る音が聞こえる。静かになったのを確認すると、実己はようやく目を閉ざした。



*****



「こーう」

 実己が口に手を添えて呼びやると、紅は土をいじっていた手を留めて、ぴくりと声のした方に顔を向けた。その様相は、正に耳をぴんと立てて辺りの様子を窺う野のうさぎを彷彿させる。

「芋はもう充分だ。洗いに行こう」

「もういいの? まだちょっとだよ。この前はもっといっぱい採ったよ?」

「ああ、もういいぞ。今日と明日の分だけでいいから」

「そう?」

 紅は傍らに置いていたざるをよいしょと持ち上げた。ざるの中には鮮やかな赤紫の薄皮を持つ芋が五つ、ごろりと転がっている。大なり小なり寸法も形もまちまちだ。だが、覆われた泥の合間から見える色だけはどれも鮮やかであった。

 実己は水を張って用意していた盥の中に紅が持ってきた芋をざあと流し入れた。

 彼が起き出せるまでに回復したのはほんの三日前のこと。それまで実己は五日間ほど床に伏していたらしい。起きてみれば、大した手当もしていなかった肩の傷は膿み、だが、膿んだ傷は膿んだまま黄色く固まっていた。

 芋を一つ一つ手に取り、傷をつけぬよう丁寧に泥を落としていく。紅も水場で手を洗い清め、自らについた泥を流した。

 置いてある盥の合間を綺麗に縫って歩いていた紅は、紅い実の入った盥の前で立ち止まった。

「なんだかいい匂いがする」

 水にさらしてある紅い小粒を摘まんで、口に含む。けれど、期待に満ちていた紅の顔はすぐに歪んでしまった。

「酸っぱいだろう」

 実己は洗ったばかりの芋をざるにあげて水気を切りながら、紅が予想通りの反応を見せたことに表情を崩した。紅は口に広がってしまった酸いの味を追い出そうと、ぺっぺっと実を地面に吐き出す。

「あと六月むつきもしないとチイコの実は甘くはならないぞ」

「チイコ?」

「その実。清水に漬けておくと熟した実は甘くなって、よい酒をつくる」

「甘くなるの!?」

 これが? と紅は掌で紅い実を掬った。水から出たチイコの実は艶やかに光る。ころりとした丸い実を、実己は紅の掌から取り除くと水の中に戻した。ぽちゃんと音を立てて水が跳ねる。紅は頬についた雫を袖で拭った。

「そうだ。甘くなるぞ。とろりと柔らかくて美味しくなる」

「変なの。酸っぱいのに甘くなるなんて。そんなの初めて」

「ふうん。紅はそんなの初めてか」

「うん。チイコって変な実だね」

「そうだな、変だよな」

 実己は澄んだ水の中に手を差し入れて紅い実で遊んでいるらしい紅の髪を撫ぜた。

 確かに変である。というより奇妙でしかないのだ。

 チイコの実も、この場所も。

 狭い庭には岩も石も見当たらない。小石の一つも転がってはいないのだ。どうやら粒ほどの石まで一つ残らず取り去られているらしい。

 その代りとでもいうように野菜や樹木は所狭しと植えられていた。野菜は根菜、葉菜、果菜のどれもが、これから冬までに次々と収穫の時期を迎えるもの。樹木に関しても実を付ける果樹ばかりで、植えられているものは一年を通してみれば入れ替わり立ち替わり順繰りに実をつけていくのだろう。この庭にある木が一本も実をつけぬという日は恐らくないはずだ。しかも、つける実、全てがそのまま食べられるか、少し火を加えれば食べられるもの。チイコのようには手間がかからぬものばかりである。その上、ここにある果樹の実は家の裏山に幾分か踏み入りさえすれば、いくらでも採集することができる。にもかかわらず、それらは庭に植えられているのだ。

 水場に関しても同じ。河はここからそう遠くない場所にある。水を汲んで戻るだけなら四半刻もせぬうちに戻ってこられるだろう。しかし、この庭にはわざわざ山の清水から水が引いてあった。絶え間なく流れ続ける水は、受け皿に溜まり、溢れて落ちる。水の沁み入る場所にはせりが植えられ、さやさやと風を鳴らす。水を撒かずとも、庭の大地は潤されていた。

 必要最低限のものしか置かれてはいない土間敷のあばら屋。だが、蓄えられた薪は軽く半年は持つ。他にも冬を越す為の干し芋や干し柿といった保存食が備えられていて、その量は母娘二人分の域を遥かに凌駕していた。

 そして、紅。彼女は炊事や洗濯といった日常の生活において欠かせぬことは一通りこなせたのだ。まだ幼い、しかも盲目である紅に、これらのことを難無くこなせるようになるまで教え、身につけさせる為には想像し難いほどの根気がいったはず。道具類も皆、紅が届く範囲にしか置かれてはいなかった。

 まるで自分が死んだ後の娘のことを配慮し、為したかのようなものごと。しかし、決して彼女の名を呼ばなかったという見知らぬ女。いくら考えても二つの姿は重なりそうにはない。果たしてどちらが本来の姿なのか。それともどちらもが本来の姿であるのか。

 けれども、実己にとってはどちらであったとしても関係のないことだ。だから、実己は紅からひょいとチイコの紅い実が入った盥を取り上げた。

「紅は、こっちな」と言って、芋の入ったざるを紅に手渡す。

 泥水を流して洗い、空になったもう一つの盥を拾いあげると、実己は「戻るか」と紅に声をかけた。

「戻るかっ」

 紅はくすくすと笑い声を洩らす。

「酸っぱいチイコ、本当に甘くなる?」

「ああ、なるなる」

「それなら、早く甘くならないかなぁ。明日になったらなってるかな」

「残念だが、ならないぞ。六月は必要だとさっき言ったばかりだろう」

「ならないの?」

「ならない、ならない。今日の甘いのは蒸した芋で我慢だな」

「甘いの。芋。我慢!」

 紅はぴょんと跳ねた。本当に紅はうさぎなんじゃないのか、と実己は笑う。

 実己にしてみれば紅は紅でしか成し得ない。それは、ぴょんぴょんと両足を揃えて跳ねながら前を行く紅であり、過去の彼女ではなかったのだ。


 からっ風は菜の間をすり抜け、こすり、ざわざわと葉と葉を揺らす。

 黄や紅、茶とすっかり色づいていた彩りの木々は、ひらひらとその身を散らし始めていた。

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