四、入相の様を望む
第4話
「――ひぃっ……!」
腰が抜けてしまったのだ。腰どころか骨まで抜けてしまったような心地さえした。早くこの場から逃れなければと足に力を込めてみるのだが、空回りするばかりである。だから、せめてもと、立たぬ両の足の代わりに、両腕を使っては乾いた土床の上を這い、ずりずりと後ずさった。わずかながらも砂塵が立つ。こすれる土の音に被せるように、ぺちゃり、ぺちゃりと粘り気の混じった水音が鳴った。いつまでも耳に残りそうな程に気味の悪い音だ。掌の下にある土がひんやりと冷たいのは、今見ているものが沁み込んでいるからなのではないかとまで考えてしまった。
引き戸の合間から漏れる陽光がきらりと茶の双眸を照らす。どこまでも澄み渡った茶の玉は底が計り知れない。人間のものではない澄んだ双眸とかち合いそうになったところで、圭亮は慌てて目を逸らした。
合ってしまえば最期。妖女に魂を抜き取られてしまう。同村の者は誰もがそう口々に語っていた。
「それならば、見事帰って来てみせよう」と圭亮は遊び仲間と肝試しを企んだのだ。奥山の入口に位置するという妖女の家。一人ずつ行って見て帰ってくるだけである。何とも容易いことだ。第一に
だが、蓋を開けてみればどうだろう。圭亮は腰を抜かしてへたり込んでいた。抜かすだけなら良い、ここから無事逃げおおせるかどうか分からないのである。薄く光る一対の瞳を目にしてしまった瞬間、噂されていたことが真であったのだと唐突に悟った。しかし、もう遅すぎたのだ。
「あのね」
妖女の声は突然圭亮の方へと向けられた。彼はもう充分に冷えていただろう肝をさらに冷やすこととなった。けれども、今回は悲鳴さえ口を突いたりはしなかった。代わりに冷や汗がぶわりと吹き出した。歯が奥でがちがちと震えだす。妖女の姿はまるで少女そのものであったのに、圭亮にはその姿が恐ろしくてたまらなかった。
「音が聞こえなくなったの」
どうして? と妖女は首をこてんと傾げた。
彼女の手はどちらもが鈍色の赤に染まっていた。打ち伏したまま、ぴくりとも動かない女の傍にしゃがみ込んで、妖女は女の腹へと赤黒い手を伸ばす。
倒れていたのは、圭亮も見知っている女であった。時折ではあるが、村にやって来ては入用のものを買い込んで行くのだ。その女が今、目の前で床に横たわっている。口から血を吐いたのだろうか。女の口の淵には血がついていた。周りの土床も黒々と色を変えている。すでに事切れているのだろう。息づかいはなく、胸も上下する様子を見せなかった。
この世を映すことをやめた茶色の瞳は濡れていた。眦から流れた涙は頬へと跡を残していた。
妖女は赤黒く濡れた手でゆさりと女の腹をまさぐる。同時に女の腹が血色に染まった。
それから、ぺちゃり、と妖女は己の掌を舐めゆく。ちろりと垣間見えた彼女の舌が圭亮の恐怖を決定づけた。
妖女は女の
圭亮は這いずりながら、無理矢理足を立たせ、あばら屋から飛び出した。命からがら抜け出した。彼の顔は蒼白を通り越し、真白であった。途中、何度も足を絡めては転倒しながらも、圭亮は脇目もふらず仲間が待っている場所まで駆けた。
足を走らせながら、圭亮は祭りの日に開けられる神殿の壁に描かれた絵を思い出していた。
後ろを振り返ってはならない。さすれば全ては終わってしまう。得体のしれない何かがじりじりと後を追いかけてきているのではないかと、圭亮は気が気ではなかったのだった。
*****
「いたっ」というその声は、粗末なあばら家の内において、存外朗々と響き渡った。
へたりと土間敷きの床に倒れてへばりついている紅は動かないかに見える。だが、鼻の頭に泥を付けながらも、紅が顔を上げたので、実己は彼女の脇に手を差し入れ、ひょいと抱え上げて少女を立たせてやった。
「大丈夫か、紅」
尋ねつつも、実己の口は自然とほころぶ。いたるところに泥をつけた幼子の姿は、なんとも奇妙で可笑しかった。はたはたと紅の上衣についた土を払いやり、顔についている汚れを己が掌で拭い去ってやる。
目のすぐ真下をぐいとこすられた紅は思わず、目をつむり、ようやく離れた手に「どうして」と問うた。
「どうしてこんな所に、椅子があるの?」
「どうしてって言われてもなぁ。いつもあるだろう」
この家には板張りの床など、ましてや畳などといった値の張るものは存在しない。簡単に述べてしまえば、ただの地面の上に辛うじて風雨を避ける為の壁と屋根がついているだけなのである。その代りと言っては何だが、台と言っても差支えない程の素朴な椅子と卓があった。寝台があった。紅はその椅子の一脚にけつまずいたのである。
「無いよ。だって、前、ここに椅子なんてなかった」
紅は実己を睨んだ。いや、睨んだと言うのはおかしいだろう。透明の茶の瞳しか持たない紅が掴むことができるのは空虚ばかり。そこに、実己を掴むことなど彼女にはやはり不可能であった。
「こんなこと今までなかったのに」
紅は不機嫌を示すべく、険も顕わに恨み事を述べた。
「だって、こんなこと今まで一度も無かった」
「紅?」
実己は虚ろな紅の双眸を覗き込む。透明な茶には、己の顔が二つ映っていた。実己がまじまじと眺めやっている前で、少女の表情はじわじわと歪められていった。今にも泣き出しそうな顔であった。
彼女は、己の体を支えている実己の腕を叩いた。ぱしりと高く乾いた音がたつ。叩いてみても実己の手を払いのける程の威力は無かった。だが、実己は驚きに目を瞠った。結果、彼は少女の意図通り手を離すこととなった。
「きらい」
ごちた幼子の手が今度は実己の両頬を挟みこむようにぺしと叩きいった。
「実己、きらい」
言って、少女は実己の合間をすり抜けて駆け出した。
薄紅の衣は翻る。裾まで全てを呑みこんだ戸はぴしゃりと大げさな音を立てて閉められた。
実己はその様子を言葉も忘れて呆然と見送った。しゃがみ込んだまま呆気にとられていた。一体どうしたのだろうと。こちらこそ、こんなことは今まで一度も起こったことがなかった。起こっていたのかもしれない。けれども、それらは実己の預かり知らぬところで起こっていたのであろう。
だが、とりあえず膝に手を付いて立ち上がり、椅子を元の場所へとなおすことにする。元あった場所。当初からあった場所だ。
実己は部屋の中をぐるりと見渡した。ここと
彼は、表へ繋がる戸を除けば、唯一のものである戸を引き開いて厨へも向かった。鍋に盥、樽、壺と、こちらも一つずつ見ていく。
一通りの確認を終えた後、実己は黒塗りの甕の蓋を開けた。入っているのは塩である。上等ではない塩は純白にはほど遠い。粒の大きさもてんでばらばらで見るからに荒い。口に含んでみれば、苦味が抜かれていないのがよく分かる。粗悪さが瞭然の塩であった。
それでも、塩であることには変わりはない。欠かすことのできぬ必需のものだ。
実己は己が手に塩を掬い取った。これから訪れる冬に備えてのものだろう。あらためて見てみた甕の内には、思った以上にたっぷりとした塩がつめられていた。塩は保存食をつくるのに役に立つ。何よりも、雪に道が閉ざされた場合のことを考えてのことに違いない。
実己は、親指の腹で塩を撫でた。手の上でざらざらと動く粒を黙したまま眺めやる。
しばらくしてから、彼はようやく塩を甕の中へと落として戻し入れた。元あったように甕をきちんと蓋で覆う。
「――塩が足りないな……」
独り確認するように吐かれた言葉を聞く者は無かった。
しかし、彼は見咎められることを避けるかの如く、黒塗りの甕には目もくれず、心もち足早に厨から立ち去った。
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