二、連吟は彩りを乞い謡う
第2話
紅い衣を翻し、盲目の少女は石ころが敷き詰められた河原をひょいひょいと跳ねて行く。
河原に座した大きな岩。それさえも、彼女は難なく避けた。そのことに、実己は少なからず驚く。
「本当は見えているんじゃないのか?」
少女は首を傾げた。
「そこに岩があっただろう」
「岩? 固いもののこと?」
少女の問いに、実己は少し逡巡した後「多分そうだ」と頷いた。
「固いものがあることは知ってる。だって、何度もぶつかったもの」
だから、もう覚えたの、と彼女は笑む。
「固いものは岩って言うんだね」
「そう、岩だ。それが、名」
「じゃあ、これも岩だね」
少女は足元に敷き詰められている石ころを一つ拾いあげた。
「いや、それは石」
「石?」
「そう、石」
少女は石を握りしめて、眉を寄せる。
「難しい」
「そうか? 簡単だろう」
実己は笑って、小さな体を抱き上げた。
「実己のこれ、おもしろい」
「やめろ、痛い」
「だってもしゃもしゃしてるの、楽しい。裏に生えてる雑草みたい」
「雑草? 岩と石は分からないのに雑草は分かるのか」
「うん。だって教えてもらった。雑草はいらない草。私は好きだけど、野菜が枯れちゃうから抜かなくちゃいけない」
「なら、これは髭だ」
「髭?」
彼女は実己の言葉を繰り返した。
「そう、髭。引っ張られると痛い。髪の毛と同じみたいなものだ」
「髭。髪の毛と……同じ。引っ張ると実己は痛い」
少女は教えられた単語と意味を紡いで咀嚼する。
「だけど、母さんの顎には髭は無かったよ?」
「そりゃあ無いだろう」
実己は不思議そうな色を浮かべる彼女に呆れた目を向けた。
「父さんにはあったんじゃないか?」
「父さん? 何それ」
少女はきょとんとした顔で、聞き返した。
実己は一度押し黙った後「分からないなら別にいい」と彼女の頭を撫でてやった。けれど、決して朱の髪紐だけは落ちないように、実己はそっと彼女の黒髪を撫でる。
「俺は実己。このもしゃもしゃは髭。なら、お前の名は?」
「お前?」
少女は聞き返す。実己は人差し指で彼女の胸の真ん中を押し指した。
「私?」
「そう。お前の名だ」
「私、名前無い」
「けど母さんがいたんだろう?」
「うん。ついこないだまではいたよ。だけど、母さんは音がしなくなって、冷たくなった。動かなくなったから、家に来た村の人が土の中に埋めちゃった。あの人と同じ」
実己は「そうか」と答えて、透き通る虚ろを見た。すでに遥か背後となった場所に盛られた石の塚。申し訳程度に添えられている野の花が心細げにその身を風に揺らした。
「母さんは私を呼ばなかったよ。でも、他のみんななら私を妖女って呼ぶ」
「妖女? 幼女の間違いだろう」
「どう違うの?」
「幼き女子という意味の方の幼女だ」
「実己は可笑しいことを言う」
少女は口に両手を当てて、くすくすと笑った。
「
笑い声はぴたりと止んだ。
「それは何?」
「お前の名だ」
「私の名?」
実己は静かに頷いた。だが、彼女には見えるはずもない。彼女は黙したまま次の言葉を待っていた。
「そう、それがお前の名。名が無いのなら、俺は紅と呼ぶことにした。紅と名付ける」
ちらりと見やるも、丸い茶の瞳からは感情は窺えない。窺えるはずもない。彼女の目は何も映さないのだから。
「紅は独りか?」
「うん、独り」
少女はためらいもせずに頷いた。
「実己は? 実己も独り?」
「いや、俺は独りじゃない」
「ふうん。同じじゃないのは、ちょっと残念だね」
「残念ではない。同じだからな」
「同じなの? どうして?」
「俺は紅の傍につく。せっかく名があるのだ。紅と呼ぶものがいなくては困るだろう」
「困る、かな?」
紅は幾分か考えてみているらしかった。口を閉ざしたまま、ぼんやりとしてぴくりとも動かない紅に実己は微笑する。
「紅は
紅は少しばかり興味を引かれたようだ。けれど、実己の言葉が意味するところは半分も分かっていないらしい。
だからだろう。彼女は「
「そうだな……」と、実己は頭を巡らせ動かした。紅に示す為の紅あかを探す為に。
見つかった
「例えば、紅の頬も
紅は実己に頬を拭われてくすぐったそうに身をよじった。けたけたと笑い、逸れた小さな片方の手は実己の肩へと当たった。
紅の手が触れた場所。肩口に走った痛みに、実己は顔を歪めた。
「なんだか土の匂いがする」
紅は濡れた自身の手を鼻に近付けて嗅いだ。
「それも
実己は真紅に色塗られた小さな手を見て言った。
「血の色も
何故河に落ちたのか、実己は全てを思い出した。射かけられた矢を避けようとして、崖から落ちたのだ。どうやら鏃やじり は肩口を掠っていたらしい。気が付いた途端今更のようにじくじくとした熱が襲ってきた。
「血は知ってる。痛い時に流れるの。でも舐めておけば治る」
紅はそう言うと、血の付いた自分の手に口を寄せた。それを見ていた実己は顔を顰めて、彼女の腕を引き、止める。
「やめろ。毒が入っているかもしれない。大体、怪我しているのは紅ではないのだから意味が無いだろう」
「毒?」
「悪いものだ。口にすると死ぬ」
「死ぬ?」
「音がしなくなって、動かなくなると言えば分かるか?」
「嘘!」
「本当だ」
驚きを隠せないでいる紅を尻目に、実己は血濡れた紅の手を自身の衣で拭いとった。
もしも矢に毒が仕込まれていたとしても、大半はもう既に河の水と共に流れてしまってはいるだろう。事実、実己が己の足で立っていることこそが何よりもの証であった。毒に依る気だるさも感じられはしない。もっとも、疲労によって感じられないのだと言われればそれまでではあったのだが。
実己は固まっている紅を見やって笑むと、話を元に戻すことにした。
「他にも
「……火も知ってる。熱いもの。危ないから触ってはいけないと言われた」
紅は眉を寄せた。
「
がっかりしたように言う紅が可笑しくて、実己は笑った。
「そんなことはない。
「でも、それは私には分からないもの」
「それなら、紅が纏っているこの衣も
紅は「これも?」と嬉しそうな声で聞き返した。だから、実己は「そうだ」と答えを返す。
水に流され薄くなった紅の衣。千切れ汚れた紅の衣を紅は手で擦った。
「うん、実己の言う通りだね。
首を竦めて笑んだ紅を眺めながら、実己もまた目を細めた。
「でも、私は実己が傍にいてくれるなら嬉しいと思ってたよ。だって、独りはとてもつまらなかったから。
でもね、呼ばれなくて困るかどうかは分からないけれど、実己に紅って呼ばれたら嬉しいかもしれない」
「そうか」
実己は紅の黒髪を撫でた。紅も両の手を実己の顔に伸ばす。それは、どこか触手を思わせたが、実己は黙して、紅の好きなようにさせることにした。
紅はひたひたと実己の顔を触る。
「実己の目は細長いね、鼻も母さんより大きい。なんだかちょっとかくかくしてる」
紅の手は実己の眉、目、鼻、頬へと順に触れた。そこで、紅はふふと笑い声を洩らす。
「でも、やっぱり髭が面白い」
「だから、引っ張るな。痛いだろう?」
「なら、触るのはいい?」
「触るのはいい」
紅が触ると、長く伸び過ぎてしまった髭はわさわさと鳴った。実己は目を覚ました時に鳴っていたのはこの音だったのかと知る。
「実己は私と一緒にいるんだよね?」
「そうだ」
「いなくなったりしない?」
「しない。いなくならない」
紅は至極満足そうな表情を浮かべると、「よかった」と実己の首に抱きついた。
「それなら、実己は私と一緒に家に帰ろう」
「そうだな。もう、そろそろ家に帰ろうか」
もう、ここには用は無いのだ。実己は紅が向かっていた方向に目を向けた。
「家はあっちか?」
尋ねた実己に、紅は「分からない」と首を左右に振った。
「さっきまで、どんどん進んでいたじゃないか」
「うん、だから分からない。降りないと分からないの。だから、離して」
実己は紅に言われた通りに彼女を離した。実己の手を離れて地に降りたった紅は、足を踏みしめて場所を確かめる。
「分かった、こっち」
それだけ言うと、紅は先程と同じようにひょいひょいと跳ねるように河原を進みだした。
それを見た実己は慌てて、紅の手を捕まえる。
「そんなに早く行くと紅がどこにいるのか分からなくなるだろう?」
「それは、とても困るね」
「ああ、とても困る」
紅は自分とは違う声の降ってくる方を見上げた。それは、やはり、実己の顔とは重ならない。遮るもののない場所には空しか映らない。実己は茶色の中の透明な空を覗き込んで言った。
「だからゆっくり行こう。別に急ぐ必要はないから」
「うん、ゆっくり。ゆっくりね」
そう言いながらも、紅の様子はどこか落ち着かず、そわそわとしたものだった。片方の手をあてがって、彼女は嬉しそうにくすくすと笑う。
次第に早くなっていく紅の歩調に、実己は合わせた。今にも駆けだしそうな紅を見やって実己は笑う。
繋がれた手は、きちんと握り返されたのだ。
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