紅の薄様
いうら ゆう
一、暮れ惑う闇に見入る
第1話
走り続けなければならなかった。だから、彼はひたすら足を動かしていただけにすぎない。
地を蹴る足は
身体に宿る熱は冷を求めて口を開く。けれども、最早息を吸うことさえ難しくなってきた。喘ぐ口から入った空気は彼の胸へ冷たさと同時に痛みをももたらす。息を吸うことが息苦しさをもたらし、それでも、喘ぎ求めて開く口は、悪循環を繰り返す。
だが、実己は前へと進まねばならなかった。
下草に足を掬われ、鋭い枝葉を弾く度に血が滲む。
近くで河のせせらぎが彼らを誘う。こすれ合う木の葉は、彼らをさやさやと嘲笑った。
力を失い、かくりと折れそうになる膝を押して、他方の足を前にやる。
とめどなく噴き出しては流れ落ちる汗が目に染みろうとも、実己は歩を止める訳にはいかなかった。
逃げなければならなかった。彼は何としてでも彼女を逃さなければならなかった。
「
引いていたはずの手が、逆に強く引かれて実己は後ろを振り返った。
支えのない側の手を地に付き、打ち伏した女は眼前に立つ実己を見上げ、ふるふると首を振った。
口が開かれるも、掠れ切った彼女の声は響かなかった。憔悴しきった彼女の口から洩れるのはひゅうひゅうと吹き荒ぶ吐息だけ。
しかし、響かぬ声は確かに空気を震わせ実己の元へと届いていた。
――もう走れぬ、と。
苦渋に満ちた茶の瞳には最早絶望しか映ってはいなかった。
*
逃亡の道行は、
たった一月足らずの合間に全てはあまりにも変わってしまった。
小国、谷津牙はやはり大国、
一瞬のうちに火に取り囲まれ呑み込まれた谷津牙の城。
崩れ、灰に変わり果てたのだろう城の行く末さえ、彼らは目にする暇も無かった。
ただ唯一の存在を逃す為に実己は消えゆく城を後にした。
纏う衣は割かれ、ぼうぼうと伸びた髭は顔半分を覆い隠すほど。
十余人いたはずの従者は、実己ただ一人を残すのみ。
馬は疾うに捨て置いた。怪我を負った馬は使えない。血臭はすぐに追手を寄越す。
彼らは敵を惑わす為にも、道なき道を行くことを選び山に入った。
幼き頃より仕えし姫君、紅華。彼女が嫁ぐも実己の主は変わらなかった。
紅華妃の夫君は良い方であった。
谷津牙の城主、
しかれど、彼には上に立つ者として必要不可欠な非情さが圧倒的に欠けていた。
長年、家臣として忍び込んでいた双日の国の密偵。正体が明らかとなった輩さえ嘉隈は斬り捨てることができなかった。泣き叫び、命を乞うた不忠の臣を嘉隈は追放するのみに留めたのだ。
たかが一人。されどこの一人の為に谷津牙の国は呆気ない程簡単に落ちた。
内情の知れた城。大国、双日にとって谷津牙を攻め落とすことなど片手間以外の何ものでもなかったのであろう。
長年続いていた平安の世。双日の君主はただ飽いていたのだ。何も起こらぬ平穏な日々に。
だからこそ久方ぶりに帰ってきた密偵の話を面白いと思った。退屈な日常に気まぐれに風を起こした。
ただそれだけのこと。
それだけのことで、穏やかだった日々は終わりを告げた。
*
紅華は再度首を振った。
虚ろな目を地面へと落とす。やるせなさは柔らかに降り積もった腐葉の土をえぐる。爪には土が入り込み、じわりと血が滲んでいた。
「紅華様っ!」
実己の呼び掛けに、紅華はふるふる、ふるふるとひたすら首を振り続ける。
月の光を宿していたはずの
二つの朱の髪紐はほどけかけるも、乱れた漆黒に絡まり留まる。
夕日が辺りを染めるように、ほんのりと色づいていたはずの頬は、随分と前からすっかり色を潜めてしまった。
見目鮮やかだった上の紅衣は破れ、千切れて、中衣の白さが覗く。
意志を宿していた茶の瞳も、絹糸のように流れていた幾千の漆黒の髪も、白花よりも柔らかであった木目細かな肌も、今の紅華に見出すことは不可能であった。
かつての面影を失くし、すっかり様変わりしてしまった亡国の妃。
流す涙も枯れ果て、ただぼんやりと暗い地を見つめ、紅華は首を振り続ける。
それでも、実己にとって、やはり紅華は紅華であった。護るべき主は彼女であって他に代わりなどいなかったのだ。
紅華の郷国の長に、そして、紅華の嫁国の長に、実己は紅華を任されたのだ。必ず助け、護るようにと。必ず護り、逃すようにと。
「紅華様、御無礼を」
実己は紅華を肩に抱え上げた。
面やつれて、やせ細った体。
だが、軽々しく持ち上げるには、実己もまた弱りきっていた。ぐったりと力を失くした彼女の重みはそのまま実己の肩にのしかかる。
己以外に新たに増えた重みを抱えて、実己は地面を踏み締めた。
立ち止まるわけにはいかない。
追っ手はすぐ傍まで迫っていた。
耳を澄まさなくとも、幾頭もの馬の蹄の音が確かに聞こえ始めていた。太い怒声と掛け合う声が薄闇の山に響く。
ぽつぽつと灯り出した、闇に映える朱光。
実己は歩みを速めた。音を立てぬようにと秘かに柴の間を駆ける。
雲に隠れた月は見えない。ただ、それだけが救いであった。
歓声が上がり、弓が引かれてきりりと軋む。
ただ河だけが静かにさやさやと流れていたのだ。
*****
わさわさと近くで何かが揺れてさざめく。
耳元で聞こえるのは、時折ごぽりと音を立てて流れて行く河の為す奏。
実己はうっすらと目を開いた。薄ぼんやりとした景色は昨夜とどこも変わらない。
だが、次第に目に入る光量は増していった。
澄んだ高い秋の空が見える。その中を薄雲がゆったりと流れていた。
実己の意識はふわふわと揺れていた。空を行く雲と同じ様に、まどろみに任せて実己はたゆたう。
ふわふわ、ふわふわ、と。
しかし、急に引っ張られた髭の痛みに実己は一瞬で覚醒した。
飛び込んできたのは黒い人影。日を背にした顔は翳って見えない。
実己は背筋を凍らせた。
刀を抜きさし、ひたと目の前の首筋にあてがう。
刃毀れし、既に人を斬ることは叶わぬ刀。それでも叩き、へし折る威力はまだ存分にある。河に落ちても、なお、実己が手放さなかったものの一つ。
「誰だ」
乾き掠れた声は、唸り声に近かった。
「やっぱり音がする人は喋った」
明るく高い声の主は、けたけたと笑った。
刀を突き付けられているにも関わらず、両手を口にあてがい、身を震わせて笑う。
「恐ろしくないのか?」
呆気にとられた実己は、思わず眼前の人物に問いかけた。
「どうして?」と人影が首を傾げた拍子に、刃が当たりそうになり、実己は慌てて刀身を逸らす。
実己は訝しさに眉を寄せ、じっと目の前の人物を見据えた。
次第に日の光に慣れていく目。
翳った顔の中、丸い茶の双眸に捉われた実己は驚きに目を見開いていた。
彼の背を再び巡った強い寒気は先程の比ではなかった。
漆黒の髪は縮れて無造作に跳ね、黄ばんだ麻の衣を纏った少女は八つをちょうど超えたくらいか。年相応に笑う少女は一目見ただけなら、愛らしいと言えただろう。
けれど、そこには何も映ってはいなかったのだ。彼女の茶の瞳は透明でしかなかった。
虚無の瞳で、幼き少女は笑い続ける。
実己はぞっとした。
小さな彼女を心底恐ろしいと思った。
「目が……見え、ていないの、か?」
実己が聞くと、少女は笑うのを止めた。虚空を見つめたまま、彼女は「分からない」と答える。
「みんなは“見えない”と言う。だけど、私は“見えない”が分からない。だってずっとこうだもの」
実己は口を噤んだ。思わず問い掛けてしまったものの、早くこの二つの瞳から逃れたかった。何も映してはいないはずの目。けれど、全てを見透かし、突き通すかのようにも見える茶の瞳。少女は瞬きすらせずに、暗く深い澱みの瞳を実己に向けていた。
いつの間にか取り落としていたらしい、刀が実己の手にちりと触れた。毀れ欠けた刃はそれでも小さな傷を彼に与える。
「――っ、紅華様!」
針の先程の痛みでも、実己が我を取り戻すには充分だった。彼は頭を巡らせ、辺りを素早く見渡す。
それほど離れてはいない同じ河原の水辺に打ち伏した紅の塊。水に攫われた中衣の白は、水面をたゆたっていた。
残る力を足に込め、実己はぐっと石ころで溢れた地を蹴った。「だめ」と淡々とした声が彼の背を追い駆ける。
「音がしない人、きっともう動かない。母さんと同じ」
実己は駆け寄った。壊れそうな細い肩を力の限り揺する。
「紅華様っ、紅華様っ、紅華様っ……!」
反応は何もない。彼女の腹も肺も膨れてはいない。水を呑み込んではいないはずなのに、紅華は動かなくなっていた。
黒髪の張り付いた肌は獣脂の蝋よりも白く青く、紅の衣は水にさらされ薄紅と化した。
空を仰ぐ虚ろな茶の双眸は見開かれて底なしの闇を宿す。しかし、同時にどこまでも澄んだ茶の瞳に、実己は息を呑んだ。
主の名を呼び、起こすことさえ忘れて、実己はくぐもった嗚咽を漏らした。
落ち延びたのはただ一人。それは彼自身であってはならなかったのだ。落ち延ばす存在を差し置いて、実己はのうのうと生き残ってしまった。
「やっぱり、音がしない人は動かない?」
実己はすぐ隣に座り込んだ小さな存在に驚愕して、目を瞠った。
決して白いとは言えない手。荒れた小さな手が紅華の衣をぺたぺたと触った。何度も何度も触れながら、少女はふと笑い声を零す。
「ね、これすごいの。でこぼこがいっぱい。たくさんいろんな形があるの。すごい。おもしろい」
彼女が触れる紅の衣。そこには確かに花や鳥といった様々な刺繍が施されていた。布と同じ紅糸で縫いとられ、浮き上がっている紋様を、彼女は一つ一つ指でなぞる。
じっと彼女の様子を眺めていた実己は、口を開いてぽつりと零した。
「欲しいのか?」
水に落ちてもなお、滑らかな肌触りを失わなかった紅の上衣。それでも、千切れ、破れ、美しさを失くした紅の上衣。
彼女はそれを撫で続けながら、こくりと頷いた。
「うん。欲しいな。欲しい」
「……そうか」
少女は嬉しそうに身を竦めて笑う。実己は高く吹きすさぶ天を仰いだ。
光を灯さぬ二つの瞳。
実己は紅華を支えていた帯を外して、紅の上衣を剥いだ。
「おいで」
実己は彼女に手を差し出す。少女はきょとんとして微動だにしなかった。彼女には実己が差し出した手が見えないのだ。そのことに思い当った実己は手を伸ばして、彼女の手を取り、引き寄せた。
小さな肩に紅衣を掛ける。
彼は女帯の結び方など知らなかった。だから、帯は捨て置き、紅の衣自身を彼女の前部で結びつける。元々裂けていた紅の上衣は、河に流されるうちにさらに裂けてしまったらしかった。短くなった丈は、幼き彼女が纏っても気になるほどのものではない。
絡まる彼女の黒髪を、荒れた無骨な手で梳きとかし、苦心の末になんとか朱の髪留めで一つに結わえる。
実己が少女を目の前に立たせると、彼女は嬉しそうに笑い、自分のものになった布の感触を確かめ始めた。
「俺の名は実己という」
「実己?」
彼女は手を止め、首を傾げた。
彼女の瞳に自身の姿は映らない。どこまでも澄んだ、虚無の瞳。
実己はそれを心底美しいと思った。
まるで夢のようだ。
実己は紅を纏った少女をうっとりと眺めた。
そこには、確かに紅華がいた。
彼の仕えるべき主の姿があった。
少なくとも実己にとっては、そう見えた。
彼女は確かにいつもと同じ澄んだ響きで、『実己』と彼の名を呼んだのだから。
茶の瞳に漆黒の髪。
それは、この周辺の国に生きる者なら誰もが持つ特徴だった。
けれど、実己はあえてこの少女に彼の主の面影を重ねた。
それは、ただ、彼女もやはり彼の主と同じ茶の瞳と漆黒の髪を持ち合わせていたからにすぎない。
そして、何よりも似ていたのだ。彼女の虚空だけを映す茶の瞳は。
実己の腕に冷たくのしかかるかつての主。開かれた透き通って濁る茶の瞳は、目の前にある空虚な瞳と何一つ違うところなど持ち得はしなかった。
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