第15話
実己を堂の内へ通すや、
足の指の合間まで、丹念に拭きあげられた実己は、洲邇に急き立てられるがまま、奥の間へとあがり、乾いた衣に着せ替えられた。なされるがまま、黙ってどうにも寝間着らしい衣を鑑みていると今度は「連日の雨で、あとは、私たちが今着ている分しかないんですよ。まぁ、あなたのも随分とぼろだし、濡れてるし、着替えないよりはましでしょう」と苦々しげにまくし立てられる。
それ、と洲邇は不機嫌そうに、じろりと実己を睨んだ。
「髭、あたりませんか。正直、ひどいですよ、その姿。髪もすこし整えてさしあげますから」
一体この若者は急に何を言いだしたのか。しばらくしてようやく思い当たった実己は軽く首を捻ったのちに、かぶりを振った。
「いや、いい」
「いや、いい、じゃなくってですね!?」
「おい、洲邇。そうけんけん怒鳴るな」
からりと板戸を引き開き、呆れ顔を覗かせた
実己は、壁に立てかけていた刀を手に取る。莎邇が湯のみを並べ置き、黙したまま退出していったのを端に見ながら、実己は自身の前に刀を置き、潅茄邇に対座した。
対の湯呑みからは、ゆったりと湯気が立ち上がる。断続的に降る雨音が、飾り気のない質素な奥間にもかすかにこだました。
外掛けの衣に代わり、潅茄邇が身につけている上衣は黄土色で、やはり襟元から覗く濃紺が薄暗い部屋内に沈みこむためか、やけに黄味が鮮やかに浮きあがって見えた。なまじ、姿勢がよいのも相まって、存在感は否応にも増す。
外で出会った時と同じく、とくと実己の顔を眺めていた潅茄邇は、実己が置いた刀を一瞥し、「ふむ」と頷いた。
「で、お主は
「実己です」
そうか、と潅茄邇は静かに呼気を落とした。
「先に言っておく。お主の他には、誰もここに来ておらんよ」
「――はい」
「
「いえ」
「
「いえ」
「であろうな。谷津牙にも双日にも属さなぬこの国までうろついていた双日の兵も姿を見なくなって久しい。どうも双日の国主は急な病を得て床に伏したそうだ」
「双日の国主が、病に……」
「ああ。社での弔いの最中に、双日の兵が社に押し入ろうとしたのが扶間の
話を結んだ潅茄邇は肩をすくめ、湯のみを取った。ふぅ、と湯気を吹きやって、彼は考え込むように茶をすする。
雨足がまた増したようだった。響く水音が内まで届く。潅茄邇は手の内で、ゆるりと湯のみを回した。薄暗い部屋の中、それでも、蔀戸の隙間から差し込む明かりが、漂う塵を浮かびあがらせる。
やおら潅茄邇が湯のみから顔をあげたのを、実己は膝に拳を置いたまま微動だにせず、見ていた。
「
茶をすすり、言葉を区切った潅茄邇は、黒々とした刀を見つめた。板間に湯のみを置き、代わりに、眼前の刀に指を伸ばす。よいか、と潅茄邇は目だけで実己に同意をとって、刀を引き寄せ己が膝に載せた。
「この刀を覚えておけ、と。二年前にふらりとやって来て勝手に託していった。家紋以外には特別特徴もない刀なのにな、形も重みも手触りも、はっきりと焼き付いて、忘れることがない」
潅茄邇の指が、彫り込まれた二つの家紋をなぞった。泣きわめく子の背をあやすように、わずかにざらつきのある鞘の表面を潅茄邇は撫ぜさする。
「まぁ、奴なりに思うところがあったのだろう。
その通りになったな、と潅茄邇は笑った。
「なぁ、実己。お主の他には、どうにももうここには来そうにないか」
問いを帯びた口調と共に潅茄邇は、手にした刀を実己へ返した。
実己は差し出された刀を手にとって、今一度、一振りだけ残った刀を鑑みる。
もしも
双日が攻め入って来ると知らせが届いてから城が落ちるまで、文を送る暇もなかったはず。いつ取り付けたのか、と訝しんではいたが、二年も前とは思わなかった。
だが、ちょうど二年前。二人目の孫が生まれたとの知らせが届いて、一度だけ、同仁が郷国へ戻ったことがあった。
紅華が嫁いでやっと一年半過ぎたあたりの頃である。その時、既に同仁が何かを感じ取っていたのか、あるいは大した意味はなく、単に旧友に会うついでと言づけたのか、今となっては知れない。
ただ、垣間見た旧知の後ろ姿のようなものに、深い心地を覚えた。
実己は、すぅと息を吸う。背筋を伸ばし、見据えた先で、やはり潅茄邇は奥の見えぬ静謐な眼差しを相変わらずこちらへ向けていた。
「看取ったわけではありません」
「そうか」
「同仁は盾となって矢を受けながら、紅華様を逃し、連れて行けと私に言いました。これを――」
実己は袂から取り出したものを、潅茄邇の膝先へ滑らせた。
対面に座した堂主は、実己が差し出した薄紅の布の包みを手に取り、丁寧に広げ――包みだと思い込んでいたものこそが本体だと悟ったらしい。開ききったところで何も現さなかった布地を、改めて畳みなおし、潅茄邇は目をすがめた。
一目で、元は華やかであったと知れる紅の絹地は、色がまだらに抜け落ちている。緻密に縫いとられていた刺繍も、至るところにほつれが目立ち、今では見るも無残な端切れと化していた。
「これは」
「紅華様のものです」
実己は、言った。
それが何を意味するのか、堂主には、はっきりと伝わったのだろう。「紅華様が」と呟いたきり、しばらく硬く目を閉じた潅茄邇は、ついに諦念じみた息を吐いて、手にした端切れを膝に置いた。
「ご供養をお願いしたく、ここへ参りました。しかし、嘉隈様が扶間の社で弔われたというのなら……今すぐでなくとも構いません。人を介して、紅華様も扶間で弔っていただくことは可能でしょうか」
「可能か可能でないかと問われれば、可能ではあるがな」
答え、ゆったりと紅の端切れから顔を起こした潅茄邇を前に、実己は膝に置いた拳を握りしめ、居ずまいを正した。
それで、と堂主は息を継いで、対面に座す実己を見定める。
差配を待つ心地だった。
「これを手放したら、お主の荷は少しは降りるか」
まっすぐと向けられた問いに、実己は息を止めた。
波のない静かな眼差しに、非難の色は微塵もない。
もはや問うこともなく、茫洋と実己を見つめ返した息のない女の姿が蘇る。
よく感情を映して、一時も絶えることなく、ひらり、ひらり、と輝きを変える美しい目であったのに、思い起こされるのは、色濃い諦観と疲労で絶えた何も映さぬ茶眸であった。
――もう、歩けぬ、と首を振る。
繰り返し、繰り返し、虚ろに夢を見る。
水を吸った、冷たい、脱け殻の重みは、それから先どうなったのか。
不思議と記憶は抜け落ちが多く、おぼろであった。
ただ、紅華も――彼女を生かすために先へ進めと言った誰も彼もが、いなくなってしまったのだ、と。それだけが、今は、すとりと、身の内に落ちて、実己の中にある。
消せぬ事実を追いやるように、置いてきた少女の眼差しが自然と思い起こされ、重なった。透徹と澄み渡る少女の眼差しは、時に思いもよらぬものを映し込み続ける。
何もしゃべらぬ実己へ辛抱強く寄せられた潅茄邇のぎょろりとした目の内に、見知った少女と似たものを見てとって、実己は苦笑した。
潅茄邇は怪訝そうに眉間に縦皺を刻む。
「荷は降ろしてはならぬものだから」
「――そうか」
「夜が明けたら、すぐに発ちます。どうぞ、私の代わりに、紅華様と――皆を、嘉隈様の元へ」
実己に視点を留めたまま、鎮座していた潅茄邇は、ふいに重々しく首肯してみせると、薄紅の端切れを懐へしまった。
実己は、床へ拳をつき、深く深く頭を垂れた。
雨が絶え間なく降り続く。
水音がこだまするのを耳の奥に感じながら、実己は静かに瞑目した。
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