第18話

 気がついたら己の家の前に立っていた。加地は戸口に立ち尽くしたまま、道具箱を抱えなおす。

 ずいぶん落ち着きは取り戻したものの、まだ様子のあやしいあの子を、なんとかなだめ、寝かしつけたのは覚えている。それから、山の入り口にあるあのあばら屋を出て、ここまで帰ってきたはずだ。

 とにかくしきりに考えを巡らせていたような気もするし、ただただ呆けてばかりだったような気もする。そんな状態でも意外としっかり帰ってこれるものだなぁ、と加地は妙な感心を得た。

 閉じた己の家の木戸の前に立ちつくす。見慣れた木目だ。見慣れた傷だ。踏みしめた地面のその先にのびているはずの地続きの日常が、ひどく懐かしく、同時にどこか他人事のように感じた。

 いかんいかん、と加地は首を振るう。

「何をしているの」

 突然投げかけられた声に、加地はびくりと肩を弾ませた。

 振り返れば、声の響きと同様に鋭い目つきの妻が立っていた。何か夕飯前のおやつでも買ってきたのか、手にしている包みからはほこほこと湯気が立っている。

「なんだ、お前か」

「そんなとこに立っていられると邪魔だよ」

「……その言い種はないだろう」

 急に己の側に戻ってきた感覚に加地はじろじろと妻を眺めた。

「何」

「いや」

 じろりと睨みあげられ、加地は首を振るった。手の内に血がめぐる。

 思わず相好を崩した加地を、妻は不審そうに眺めやる。諦念か、ひとつ溜息をついた後、加地の二の腕に手をあてた彼女は「いいから」と、老夫を押しやった。

 ――早く、中へ。

 声を潜めて言われ、加地は目を見張る。その時には既にふいと顔をそらしていた妻は、夫の腕を掴んだまま、ほこほとと湯気たつ包みを抱えた指先で、木戸を開けた。

「加地さん!」

 家に入るなり必死の形相で名を呼ばれ、加地はたじろんだ。

 膝が痛むのか、上がり間に腰かけたまま老女は動けないでいる。

 加地が動けないでいる間に、妻は後ろ手に戸を閉めると老女の隣へ腰かけた。

「さ、この包みを抱いて。温かいものに触ってると、気持ちも落ち着きますからね」

 患って痛む膝元にあてがうよう、妻は老女の膝に包みを置き、骨の浮く曲がった老いた背をさすった。

 加地さん、加地さん、と老女は上目で加地を見上げ、懇願する。その姿が、ついの間、先に見た幼女に重なった。

「助けて。あの子を助けておくれ」

 あとはもう声になっていなかった。くしゃくしゃと崩れた顔にともない、声がひどくしわがれ潰れていく。わめくでもなく、泣くでもなく、ただ息苦しげに老女は包みを抱え込んだ。

 妻は老女の背を擦ってやりながら、夫を見あげる。

「さっき村のもんが大勢あの子の家に向かったんだ。きっと何か悪いことがおきる」

 加地はどこか絵空事を無理に聞かされているような心地で、じっと妻を見つめた。

「早く行ってやって。まだそう時間はたっていない。あの子に知られていない私たちじゃ、逃がしてやろうにもうまくはいきっこないから。逃がしてやれるとしたら、あんただけだ」

 早く、と再び妻に急かされるより早く、加地は家を飛び出した。

 ――あぁ、くそ、と心内こころうちで加地は己をなじった。つい持ってきてしまった道具箱が走るには邪魔で、投げ捨てる。

 さっきまであの場にいたのに、なぜその時ではなかった。どうして戻ってきてしまったのか。あの子の怪我の具合を大事をとってもう少し見てやるべきだった。

 まだ走り出てそう時もたっていないのに前へ押しやろうとする足は早くも悲鳴をあげはじめた。もはや駆けているのか、ただばたつきもがきながら進んでいるだけなのか、わからなくなってくる。

 歳なんかとるもんじゃない。そもそもこんなこと年老いてやることじゃない。

 舌打ちをしようにもそのような余裕などなく、ぜっ、ぜぇっと明らかに異常な律動で鳴る息を無視して加地は駆ける。

 だから、早く雪なんか降り積もってしまえばよかったんだ。初冬のきんと張り詰め美しいばかりの青空に恨み言を吐きながら、加地はついの間戻ってきたばかりの道をとって返した。



 紅はざらつく敷布の感触に、目を覚ました。

 一瞬、どこにいるのかわからなくて、額を触ると、いつもよりもあつい気がした。ひたりと額に寄せた掌が汗ばむ肌に気持ちがよい。

 首を巡らせるとちかちかと光があたった。長く寝ていた気がしたが、この光の具合だとすぐに起きたらしかった。

 頭が重いばかりでぼんやりとする。それでも喉が渇いていることだけはわかって、少女は寝台から滑り降りた。

 続き間の厨に水を汲みに向かう。けれども、水甕に差し入れた柄杓ひしゃくの先が、こんと底にいきあたって、紅ははたと動きを止めた。柄杓の先でつつけば、そこがこんこんと鳴る。水の抵抗は感じなかった。柄杓の代わりに手を差し入れて確かめると、底は水の気配すらなく、すっかり乾ききっている。

 水甕の中に水がない。いつも眠る前に水を捨てて、起きてすぐに水場から汲んできていれるはずなのに。おかしい、と少女は眉根に皺を寄せてすぐ、あぁ、そうだ、と思い至った。

 そういえば、今朝はどうしても河の水に触れたくなって、河の音が聞きたくて、あの場所に行きたくなって、仕事を後回しにしてしまったのだ。

 ならばもしかして、とかまどに近寄ってみると案の定熱くない。火を入れ忘れてしまっている。あついけど、寒かったのは、そのせいだった。

 火打ち石を探そうとして、やめた。かつん、ききんっ、かつん、と。響くその石を、このところ扱って火を起こしていたのは、実己だった。

 紅はまたひとしきり泣いて、うずくまる。そのうち喉の乾きが耐えきれなくなって、紅は掌で涙を拭い、よたよたと立ちあがった。

 水桶を手に、紅は庭にある水場へ向かう。時折、思い出したように喉がひくりとひきつれた。足元では、実己が出て行く少し前に一緒に種をまいたスラの葉が足を繰り出すごと衣の裾に擦れて、ざらざらと鳴る。半月も経った今、食べごろまであとわずかだ。土からのぞく太くまるいこの根菜の表面をつるりと掌で撫でては、育ちぶりを確かめるのが好きであったが、今はとても気がのらなかった。

 紅は痛む喉を手で押さえて、庭の中心で溢れ続ける水を受けとめては零していく水場の受け皿に顔ごと口をつけた。山からずっと流れてきていると実己が明かした水場の水は、少し前に雨が降ったせいかまだ土臭い。何度目かに飲むことに失敗し、一人咳き込んだ。こほこほと、水を吐き出し、紅は息をつく。

 持ってきた水桶を水場近くに寄せ、少女は母に言われた通りに受け皿と桶を繋ぐよう柄杓を渡らせる。「なるほど、こういう仕組みか」と実己が零したのはいつだったろう。受け皿から流れ出た水が、柄杓の柄を伝って自然、桶の中に落ちていく。

 紅は水桶に手を差し入れ、充分に水が溜まったのを確かめ、厨に戻った。

 汲んできた水を水甕に流し入れようとしてやめる。今日のうちは、手桶分だけでも事足りるだろう。

 地べたに座り込んだ彼女は、水甕に寄りかかり目を閉じる。熱を帯びた身体に、水の甕の冷たさが心地よかった。うつら、と引きずられるように、また眠りに落ちそうになった少女は、かつ、という、普段とは異なる音に意識を呼び戻された。

 聞き違いではない。首をもたげれば、確かにまた、かつん、と何かが跳ね返る音が耳に届く。

 紅は床に手をつき、のそりと立ち上がる。音は続き間の表のほうからしているようだった。

 向かう間にも音は絶えず鳴り続ける。時折、家の外壁にぶつかっているのか、一層強く鳴った音に、紅は恐怖で立ち竦んだ。

「何?」

 がつん、がつ、がつんと、間もなく音は続けざまに聞こえはじめる。

「何。いやだ。こわい」

 たすけて、と喉の奥で掠れた声が鳴る。紅は、ぎゅっと紅の衣の裾を握りしめ後ずさった。

 何かが壁にあたるたびに家が軋む。音が過ぎ行くのを震えながら待つ。

 がつん、と、一際高く音がなった瞬間、遠くで人の歓声が起こった。その声の主が村人らであると紅が認識するよりも早く、じわじわと異臭が漂ってきて、紅は鼻を袖で覆った。

 竈で木をくべすぎた時と、鍋の底を焦がした時と、同じ臭いがする。臭いのするほうへ寄り、表の戸をわずかばかり開けると、足元が昼間とは異なる光で辺り一面覆い尽くされていた。ぱちぱちと耳障りな音が届く。

 風に押されて熱気が立ち押されて熱気が立ちおこる。あまりの熱さに、紅は急いで足先を引いて戸を閉じた。

「どうして」

 信じられなくとも違えようがない。

 火だと、閃くように理解した。

 戸の、壁の、あらゆる隙間を通じて、煙が流れ込んでくるを感じる。

「いやっ、熱い!」

 少女は半狂乱になって泣き叫んだ。何が起こっているのか、まるで状況が掴めない。続く厨に取って返す。息がうまく吸えなかった。吸った分だけ、焦げ臭さが戻ってきて、紅は走りながら、腰を折って咳き込む。

 足がひっかかって、紅はもんどりを打って倒れ込んだ。身体中が水で濡れて、水桶をひっくり返してしまったのだと気づく。

「あ。……う、」

 手当てをしてもらったばかりの腕の傷がじくりと痛む。震えながら顔をあげれば、水が額を伝って目に入った。涙が溢れて、嗚咽が止まらなくなる。

「実己、実己。こわい、助けて」

 表で火の爆ぜる音がする。葉を落とした冬木が耐えきれずに大きな音を立てて割れる。外から吹き込む風は熱を孕んできた。

 助けて、助けて、と少女は言い募る。辺りに顔を巡らせて、手で探っても、もはや自分がどこにいるのかすら、わからなくなってしまった。庭に続く厨の戸を開け放したままにしてきたはずだった。それが今では、どれが外に続くものかわからない。辺りがどれも明滅して、判別がつかない。

 恐ろしさで足に力が入らなかった。

 喉を迸る自らの泣き声にすら怯えてしまう。紅は助けを求めて衣を握り締めた。

 爪を衣に立てた途端、ぐらり、と身体が傾いだ。

 ぐっ、と息を呑み込んで、土間に倒れ込む。胸をしたたかに打って、紅は苦しさにひとしきり泣いた。

 広がりはじめた炎にまじって、ざらりざらりと寒風に揺られた木々が鳴っている。

 少女はうすらと瞼を開く。明滅する光の中で、一方向に暗闇が唐突に浮かびあがった。嗚咽の間に、浅い息を繰り返し、少女は暗がりに手を伸ばす。ひっかかりに指先をかけて、横たわる己の身体を闇に向かって引きずる。

 暗い空洞には、ざらりとした灰があった。竈だと気づく。中に入ると、ひやりとした冷たさが肌を鎮めていく。わずかばかり清廉な空気が残っていて、彼女は奥の壁に背をもたせて、痛むばかりの瞼をとじた。もう動けそうになくて、紅は抱えた膝に額をのせる。

「たすけて、たすけて」

 引き連れた声で、繰り返し、繰り返し、乞う。

 足の音が近づいてくる。あれほど見つけられなかったはずの厨の戸がある方向から乱れた足の音か入ってくる。

 紅は全身の肌を粟立たせた。ひっ、と喉の奥で悲鳴が音なく引きつれる。心の臓の音が痛いくらいに頭に響いた。耳を塞いで縮こまる。

 ――いやっ、こわい。もう。いやだ。

 伸ばされた手に、紅は悲鳴をあげた。

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