醒之忍法帖
楊生みくず
第1話
これはそも、何時か、何処か――知るは知り、知らぬは知らぬ、古き日本の平行世界。
「丹羽さま、お呼びによりまして、お蘭がこれへ参りましてございまする」
野太い声も、骨張った身体も、やたらしなしなくねくねとしているが……それでも、匪土蘭丸は男なのである。それも、肌は常人よりやや黒みがかり、多少
桃地丹羽が、思わずその白粉塗りたくった顔から目を背けたのも、無理はない。
「こやつを、十の年に女に化けさせて
これまた思わず、丹羽はつぶやいた。
――というのも、目の前の蘭丸の女装癖が、じつに「そのとき」を境に現れたものだからで。……いや、しかしそれでも当時は、浅黒い肌のはりつめた、可憐ながらも溌剌たる野生味を感じさせる美少女に化けおおせていたのだ。
……こんな、想像するだに身の毛のよだつ怪物ではなく。
「丹羽さま、如何様なご用事でございましょうか」
蘭丸が小首を傾げたのが丹羽には分かったが、彼は敢えてそちらを見ようとはしなかった。見ぬままに、
「おまえ、
いってから、また言いなおした。
「いや、最初に行くのは
「わらわ一人でよろしゅうございますのか?」
「いや、この先の話を聞いて、必要と思うやつをいくらでも連れてゆけ」
「とはまた、豪気な」
「理由が、ある。……よいか。皆本さまがなにゆえ左様な場所に潜んでいらっしゃるか……」
「ほほ、おおかた、奇襲の企てでございましょう。向かう先は、出水ではございますまいか」
「いかにも。めぼしい者を集めて、すぐにも向かえ。今晩、おまえたちと合流してすぐ、進発との仰せじゃ。――ただし、先にも申したようにわずかな軍勢、そこでおまえたちの出番じゃが」
「……」
「おそらくこれは明晩となろうが、皆本さまの軍勢が出水城を奇襲する、その混乱に紛れて城中へ忍びこみ、出水公が娘、
「……はて」
蘭丸は少し考える様子で、
「しかし、蓮姫には」
「それよ。蓮姫の護衛もまた、
「それ使って姫を盗むは、かないますかの」
「それは、ならぬ。……姫をあくまで殺めたてまつらず掠いたてまつれと申したにも、理由がある。すなわち、皆本さまは蓮姫をその御正室となされるおつもりでおわすのじゃ。――さすれば、奇襲にて落とされた出水の民の怨みもいくらか薄らごうゆえな。
もちろん反抗をふせぐための、もっと実際的な人質という意味もあろうが……というのはわしの勝手な予測ながら、十中八九このとおりであろう。されば、蓮姫を髪一筋傷つけたてまつることはならんぞ、蘭丸――
と、それはともかく、蓮姫がかくして生き残れば、飯賀が出水にも耶摩門にも技を売ったことが知れるではないか。だからそれは、あってはならぬ。護衛の者どもを使っては、な。皆本さまに蓮姫が告げ口しては、飯賀忍者は耶摩門の働き口を失う、損も大損じゃ」
「では」
蘭丸は、妖しい笑みをうかべた……つもりらしい。白塗りの骨張った顔が不気味に歪んだ。
「姫をさらいたてまつるついで、護衛の者どもは討ち果たしましょうぞ……姫も、それを見ればまさか飯賀が耶摩門と出水の双方についておるとは思いますまい、飯賀とは敵対する忍びの者のしわざと思いましょう」
「もとより、おまえにはそうしてもらうつもりでおる」
と、丹羽はいった。
つまり彼は、味方に味方を討たせようというのだ。いや、同じ里に生まれ育った忍者どうし、単なる味方どころではない。平時にあってはともに技を磨き、戦時においては命を相託した――一心同体の同志を!……ただ、雇い主からの信用を失わぬために。
しかも、彼はなおいった。
「これもまた、里がため、一族がため。死ぬやつらも本望であろう」
「して、護衛の者どもの姓名は」
蘭丸が訊いた。
「それよ、問題は」
「手練でもつけられたのでございますか」
「……近い。が、それだけではない」
「とは?」
「飯賀のために死ね、と申しても、絶対に肯んぜぬやつ」
「ほほ、どのみちあの者どもは敵同士をよそおって倒すのでございましょう、話すひまなどございますまい。誰にせよ、斬って捨てるのみにございます」
桃地丹羽は深々と息を吸い、吐いた。
「……それが、
匪土蘭丸の化け物じみた顔が、凍りついた。
***
薬師黄太夫。
この飯賀の里の、もっとも恐るべき忍法の使い手はと訊かれれば、桃地丹羽は迷わずこの名を答えたろう。いや、丹羽のみに限らず、丹羽と同列に「飯賀
そしてまた、これも三者同様の見解だが、薬師黄太夫ほどの扱いづらい忍者もいない。三人のうち誰かが、
「ああ、あれが上忍の血筋に生まれてさえおれば、飯賀はこの乱世の覇者たることすら望めたものを……天下をすら、盗るが夢ではなかったものを!」
などといったが、まさにそのとおり、黄太夫は忍の技のみならず、その神機としかいいようのない知略、一度号令すれば周りの者たちを従わせずにはおかぬ将器……というか、カリスマ性とでもいうべき資質がある――
最後のは、あるいは単に傲岸不遜なふるまいよう、かつ従わざればたちどころに命をとる非情さを周りが察し、敢えて逆らう者のないのが形を変えてそう見えるのかもしれないが。
……が、いずれにしても。実際には彼は
だいたいに、忍者の世界は、外界以上に厳然たる掟と身分制度が支配していて、これがもし外界同様に力で成り上がることをゆるす世界なら、彼らはとうに、同士討ちや外部からの圧力で世の中から姿を消していたろう。したがって、いかに優秀であれ、薬師黄太夫の身分がその才能ゆえにあがることはない。
黄太夫自身は、それをどう考えているのか――いつか、こんなことがあった。
幕府の大名のひとり、
黄太夫は最初、三枝隼人の命ずるがまま、なまあくびしながら動いていたが、あるとき、突如として消え失せた。
命じられていたこともそのままであるからして、みな愕然とするあまり、本来の任務もなげだしてその行方をさぐったが――半日ほどして、彼は姿を消したときと同様、突然、ふらりと戻ってきた。
「何をしておる」
と言ったのは隼人にあらず、黄太夫のほうで、彼はさらに、あまりに平然とした口調でつづけた。
「美芳の謀反の事実はそのとおり、証拠は家臣
いって、懐から一枚の書状をひらりと放りだした。
「……ぽうとぐる鉄砲三十丁用意つかまつること、
このころ鉄砲は希少であり、しかも性能のすぐれた“ぽうとぐる鉄砲”といえば、将軍家ですら五十丁を所持するのみである。それを三十丁とは、一大名が所持するにはいかにも多すぎる。戦の準備、と考えるのが相応だ。最初の一文を読んだだけで、隼人は愕然とし、眼を黄太夫にもどして睨みつけている。
「これを……お、おまえはどうして」
「こちらが話しておるのを遮っておいて、それを訊くとは」
さも呆れたように黄太夫は答え、
「第一、隠してあった場所からこれをさらってきたのだ、隠し場所に盗りに入ったに決まっておろう」
「し、しかし竹永の城は」
美芳の家臣という身分ながら、竹永大忠は城を――それも国ざかいの、砦ともよぶべき山城を持っていた。美芳家当主たる
「あの守りようはどう見ても尋常ではない。中に何か隠しておるといいふらしておるも同然じゃ。まあ、あれしきの古賀者をあつめて安心しておるのは笑止だが……だから、入った」
「………」
絶句し、言葉もない隼人らに向けてというより、独り言のような調子でさらにいう。
「美芳の謀反は事実といま言ったが、自ら謀反をたくらみ、家臣の竹永の城をそれに利用しているというよりは、竹永のほうが主体で、美芳は脅されて言いなりになっておるのだな。あれは、そのうち主家を乗っとる気だろう」
――それが事実かどうかは、この際問題ではなかった。隼人は界にとんで、黄太夫が盗んできた書状の内容が事実か否かをこそ、下忍連中にさぐらせた。もっとも、黄太夫だけは、
「わしの調べたことに信をおかぬからこそ、かような真似をしておるのだろう。ならばこのうえ、わしが何を探ってこようと役にはたつまい」
怒った様子ではなく、むしろ憐れむように言って、ひとり飯賀に帰ってしまったが。
……そして結局、黄太夫が盗ってきた書状は本物にちがいなく、したがって報告も事実であることが判明した。桃地丹羽に「ようやった」とねぎらわれる三枝隼人を、薬師黄太夫は完全にばかにした眼でながめていたが、それに気付いても、隼人はなにか言うどころではなかった。
が、たぶんこれは、まともなほうの例である。
べつの折には――
そのときの仕事の差配、つまり下忍のまとめ役としてついていた中忍は
あるいは単に見えなかったのかもしれないが、あとからともにその任務にかかわった別の下忍に聞いたところによると、両人のあいだに一瞬、殺気の陽炎がたったかと見えたときには、すでに羽鳥恭助の頸は血を噴いていたという。それ以上のことは、近くにいたそいつにも分からなかった。
対決の原因はといえば、任務を遂行するにあたって薬師黄太夫が羽鳥恭助の指図を鼻で嗤ったということだが、恭助にしてみれば、羽鳥家の家格も高く、また忍者としての実力――ことに、一対一で闘う場合のそれも、三枝隼人などにくらべて彼が格段に上であったから、これまで逆らう者のなかったところへ冷笑をむけられてかっとなったのもさることながら、おそらくは黄太夫を押さえこめる自信もあったものだろう。
それを、ごく簡単に返り討ちにして、薬師黄太夫は、朋輩どもに「この御用はわしひとりで十分だ。足手まといゆえ、うぬらは飯賀へ帰っておれ」と言い放ち、たしかに任務は完璧にはたして、しかも先に帰したはずの朋輩よりはやく飯賀へもどってきた。そうして、任務の首尾はおろか、羽鳥恭助を殺したことすら委細もらさず報告したのである。
その際、
「どうぞ、仕置きは御存分に」
などと言ったが――それはこちらの、すなわち飯賀の上層部の、この一件に下した判決にあまんじて従おうなどという殊勝な態度ではなく、
(こちらのやりかたに異議を唱えたければ唱えるがいい、いつでも相手になってやる)
という含みすらもった危険な挑発であることを、美しい、不敵な眼差しから、そのとき対応した――当の殺された恭助の縁戚ですらある織部半三は感じ取って、何も言えなくなってしまった。冗談でなく、彼は黄太夫から殺気すらも感じとったのだ。
よく解らぬのは、これだけ上を上とも思わぬ所業をなしておきながら、黄太夫が飯賀を捨てぬことだ。任務にはむしろ嬉々としてのぞむことだ。
ひょっとすると、こやつ、忍法をふるうことが心底好きなのかもしれぬ……と上忍たちが気づいたのは、つい最近だ。それからは、その「発見」にもとづいて黄太夫をあつかっている。つまり、最低限、雇い主に挨拶をするだけの礼儀をしこんだ中忍をつけておいて、あとはひとりで好きにやらせる。
もちろん中忍には、「させておけ」と伝えてあるのだ。先方からすでに具体的な要求が伝えられていて、あらためてお目通りの必要がなければ、その中忍すらはぶくことがある。
ただ、それでも黄太夫の心のうちがしかとはせぬ以上、絶対の信頼が必要なことがらに関しては、たとえ現場がどれほどその才能を必要としていようと、飯賀のゆくすえを考えれば薬師黄太夫をさしむけることは不可能だった。ゆえに、上忍たちは彼をもてあまし、扱いに悩んで、絶望的な局面に投入してみたことも少なからずあった。もちろん、悩みのタネが運よく絶たれてくれるかもしれぬというはかない希望を抱いてのことだが、毎度、黄太夫はすずしい顔でもどってくる。
一度、そのあとで、
「わしを殺したかったか。うまくゆかなんだのが、さぞ残念であろうな」
面とむかって藤森永門にいったことはあったが、ぎくりと凍りついた三上忍のひとりに、彼は珍しくまっとうな――冷笑や嘲笑ではない笑みをうかべた。いかにも楽しげなその笑顔で、薬師黄太夫はいった。
「やってみろ」
それで、彼らはやった。
……今回、彼を出水の蓮姫の護衛にやったのもまさにそれで、雇い主たる出水城城主・
しかし――蓮姫を狙う者が将軍であり、その将軍が飯賀に出水攻めの手引きと蓮姫をさらうことを依頼してきたとなると、飯賀としては、出水城城主と幕府の将軍の力を天秤にかけて、そして将軍を選ばざるをえない。出水の姫に護衛として薬師黄太夫をつけてしまったのは、こうなっては呪うよりない運命の皮肉であった。
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