第5話


 一方、乙班である。

「飯賀、刃隠れの者どもか」

 そう声をかけられて、彼らはぎょっと凍りついた。ちょうど、蓮姫の寝所に忍び入り、ついたての陰、まさに姫の眠っているはずのところを窺った瞬間だったが、声はその彼らの後方からかけられたのだ。

 ふりむいて、

「は、は、……蓮姫!」

 べたりと平伏してしまったのは、そこにいた女人の高貴さにうたれた反射的な動作であったが、それから彼らの全身は冷たい汗にぬれた。

 どうして――という疑問が、冷たい炎と化して全身をあぶっているようでもある。

 どうして、蓮姫がここに――ついたての裡ではなく――おわすのか。どうして、この夜更けに絢爛たる姫君装束をまとっているのか。そしてまた――これが最大かつもっともおそるべき謎だが、どうして、自分たちは彼女に気付かなかったのか。

 忍者たちの困惑を知ってか知らずか……いや、そんなことはもとより興味の外といったふうで、蓮姫はさらにいった。

「わたしを将軍に差し出し、かわりに飯賀の一党は、幕府のあらんかぎりその隠密御用をひとりじめに勤めることとなり、しかも刃隠れ谷には自治までも許される――とか」

 平伏する乙班の忍者たちには答えようもない。彼らは、飯賀上層部と耶摩門将軍との密約については、何もしらなかった。

「裏切り者」

 瞋恚にふるえる声が飯賀者たちの上になげつけられ、当初の目的を思い出してようやく頭をあげようとしていた彼らは、思わず身を竦ませてふたたび這いつくばってしまった。

 が、そこに、甲高い笑い声がひびいた……割れ鐘のごとく。本来出るはずのない音域を、むりやり出そうとしたせいである。

「何をしておる――皆の者、かかりゃ! 蓮姫のお口をふさぎたてまつる法はいくらでもある、まずは捉えるのじゃ」

 声の主はいわずとしれた匪土蘭丸で、彼は乙班とともに室内に侵入はせず、外との境の簾を片手に巻き上げて立っていた。

 本来、姫は万里庄兵衛らを始末した甲班に任せるはずであったのだが、いま彼女がここに出現し、かつ薬師黄太夫の姿は見えぬからには、見逃すべきゆえはなし、と判断したらしい。

 蓮姫からは、その位置は背後にあたる。彼女はぱっとふりかえり――警戒のためより、怒りのために睨みつけようとしたのだが、目線をあわせるよりはやく、嫌悪の表情でそっぽを向いてしまった。

 その一瞬の動揺を隙と見たか、あるいは蘭丸の叱咤にうたれたか、

「………」

 声なき気合一下、乙班の忍者たちはいっせいに蓮姫に飛びかかっている。

 しかるに、伸ばされた手はことごとく空をつかんだ。

「おお……っ?」

 自失の叫びをもらしたその連中に、

「たわけめが」

 頭上から、そう声がかかった。あおぎみて、また複数の唇からうめきがもれる。

「か、滑車輪かっしゃわ――」

 掴みかかる無数の手を躱すのに、蓮姫は真上に跳びあがっていた。そこで半回転して頭を下に、足を上に――そして天井板に触れたはだしの足で、彼女はそこに「立って」しまったのである。

 じつのところ、乙班の面々にできないわざではない。

 ただし、鎮座して九字をきり、真言をとなえて精神統一ののち、壁の一面にまず足をつき、徐々に天井までのぼっていくならば、だ。なんの前触れもなく、いきなり天井に舞いあがってそこに「直立」してしまうなど、彼らには前代未聞にして未見である。

「さよう、忍法、滑車輪」

 天井に立つ蓮姫の、それこそ白蓮の花のごとき貌は、ちょうど床に立ちつくす者たちの正面にある。つまり両者は、たがいに上下ぴったり一八〇度反転した顔をつきあわせているのだ。

 満足げに忍法の名を口にした蓮姫は、にっと笑った。

「『かっしゃわ』とは、『甲子夜話かっしやわ』とやらいう書物に記されておる忍法ゆえ、そう名づけられたそうじゃが……それも、この世の書物ではない、そうな。おまえたち、知っておるかえ?」

「………」

 ――もちろん、彼らは、『甲子夜話』の忍者蝋燭屋宗助の話など知らなかった。彼らの世ならぬ、こちらの世界の諸氏も、たぶん某忍法小説の大家の某短篇でも読んでいない限り、ご存知ないかと思われる。

 ……というわけで「生霊逆ながれ」もろともその某大家ネタでした、すいません。


 と、それはともかく。

 さかさまになっているにも拘らず、どうしたわけか、蓮姫の顔は血がのぼって赤くふくれあがる様子もない。笑顔は比類なく美しく、愛らしく、万人の眼をひきつけずにはおくまいと思われた。……が。

 乙班の者たちの眼はことごとく、顔よりもっと上――蓮姫の身体の方向にあわせるのなら下――に、吸い寄せられている。さっき蓮姫が訊いたことも、知っているか否かという以前に、半ば耳に入っていないような、呆然というか陶然というか……そんな表情だ。

「なんじゃ」

 質問を無視に等しく聞き流され、しかも目線すらあらぬかたへ向けられて、蓮姫はむっとむくれた。

「姫君」

 と、これには一人がこたえた。なんとなくぼんやりしたままで、相手が本来いろんな意味で言葉をかわすべきでない人物なのは、すっかり念頭から去っているとみえる。

「お裾が……というのはつまり、えへへ、おみ足が……」

「?」

 一瞬、蓮姫はその言葉を理解できぬかのように眼をみはって、首をかしげた。たしかにわかりやすい台詞ではない、というより文として成り立ってさえいないが、自分の身体の向きを自覚していれば予測のつきそうなものである。が、結局、

「……うひひ、その、――まるだし、で」

 そいつに最後まで言われてはじめて、彼女は気づいた。

 もちろん、天井に逆さまに立つ彼女の装束の裾はめくれあがって――それとも「さがって」?――胸の前までたれている。絢爛たる布地は、それに比例して厚みもあったためやや嵩張って、ためにきわどいところで脚の付根までは見えていないが、

「あっ」

 蓮姫は狼狽の声をあげて両手で裾をおさえた。

 ただ、なにぶん上下が常とは逆である。おさえる端からふたたびめくれて、たやすく収拾がつかない。しばらく、彼女は乙班そっちのけで裾と格闘していたが、やがてきっと頭上の床をにらんだ。

 高貴なまなざしに乙班がたじろいだ、その真ん中に、彼女はとびおりたのだ――なんのために天井に逃れたやらわからない。

 と、おもいきや。

 とらえるべき姫が文字通りの目と鼻のさきに戻ってきたというのに、満足そうに装束を整えなおす彼女に、乙班は一指も触れることはなかった。それどころではなくなったのである。

 彼らの目に、蓮姫は依然として逆さまに映っていた。彼女が踏みしめる床も、さらには彼ら自身さえも、逆さまに感覚された。

 ぐうっ……と天井に落下してゆく力に、彼らは必死で抗った。床板に指をつきたて、生爪はがれるのも構わずしがみつき、足からも草鞋をぬぎすてて、全身をつかって床にはりつこうとしたのである。

 蓮姫は、ただくすくすと笑っている。が、

「ええい、何をしていやる!」

 蘭丸の絶叫に、さすがに精鋭、何人かが床を――彼らにしてみれば天井を――這いつつ、彼女ににじりより、手を伸ばした……その手があとわずかなところで宙に停止したのは、突っ立ったまま事態を予測していたかのように動かなかった様子を見るかぎり、これまた彼女の仕業にちがいない。

 宙に手をひきとめられた連中は、彼らの常人以上の視力をもってすら目視できぬ、糸のごとき感覚をつたえてくるものに絡まれたのである。なお床から落ちぬように用心したまま、彼らはそれを払おうと手をふった。――まさか、その瞬間、見えぬ糸がぎりぎりと肉にくいこみ、彼らの互いの腕を二、三本ひとつに束ねてしまおうとは予想だにしない。

 しかも、

「おおっ」

 あがった絶叫は、驚愕ではなく、恐怖をにじませたものである。

 もがけばもがくほど喰い込み、締め上げて、たがいをひとつに引き縛ろうとする不可視の糸――それに気を取られて、あるいは結びあわせられた仲間にひきずられて、床にしがみついた手が緩めば、身体はたちまち天井に落下せんとする。そのことに彼らは絶叫したのだ。

 しかしこれは、思ってみればおかしな話で、ふだん、彼らは平屋の屋根はおろか、その二倍、三倍の高さから跳び下りて、平然としている。足を踏み外して落ちた場合にせよ、空中で猫のように身をまるめて体勢をたてなおし、音もなく着地することなど朝飯前だ。それが、たかだか床と天井の距離を落下するのを恐れるとは?

 ひとつには、向きが通常と逆、つまり落ちてゆく先が天井であるということが、彼らの平常心を奪ったのかもしれない。またあるいは、彼らが床にあって天井に引き寄せられる力は、通常、天井にあって床に引き寄せられる力の何倍も強く感覚されたのかもしれない。

 ただ、彼らもさるもの、床にしがみつくのがもはや不可能と判断すると、いさぎよく四肢すべてを床からはなし、空中でくるりと身を返して天井に「着地」しようとする。そして、頭は床に、足先は天井にむけたまま――

 ――彼らは、床に落下した。

 どうも、蓮姫のおかげでくるったのは実際の重力の方向ではなく、彼らの感覚のみであったらしい。かくて、天井に落ちると感じながら床に落下した連中は、そこで硬質な、また鈍い音とともに首を不可思議なかっこうに折り曲げて、それきり動かなくなった。

 一方で、叱責されてもなお手足を床からはなしえなかった連中も、やはり見えない糸を感覚して、それから逃れようとしていた。見えないだけにどう動けば緩むものか、それ以前にどこにどう絡まっているのか、分からないから始末がわるい。そのうえ、糸は、もがけばもがくほど締まっていくようであった。

「それはな、忍法『しがらみの糸』という……」

 首をかしげて、蓮姫は解説した。声にかさなる忍者たちの呻き、絶叫、そればかりか、すさまじい力で引き寄せられたその身体と身体が互いを圧迫したために、あちこちから骨がはずれたか折れたかという音があるのに、眉一つ動かさない。

 かえって、

「ほほほほ……」

 場違いな笑声のひびいたときに、その柳眉ははねあがった。

「姫君におかれましては、ずいぶんと、忍びの技を精進なされた御様子……」

 笑声に続いてかけられた言葉に、彼女はきっとなって叫んだ。

「その方の翻心、いま報いてやろう!」

 蓮姫はやはり蘭丸に視線をあわせようとしない。だから睨みつけられたわけでもないのに、蘭丸が一瞬たじろいだのは、まさに直前、蓮姫が乙班相手にふるった忍法の凄まじさに、表面では皮肉に笑ってみたものの心中の怯えまではぬぐえなかったのである。

「こわいか」

 蘭丸の反応は見なかったはずなのに、その心底まで掌にあるがごとく、間髪いれずに蓮姫はいった。

「おそろしいか? わたしの忍法が――」

 まさにこのとき、ひときわ大きく骨の折れる音、筋かなにかの切れる音がひびいて、断末魔の絶叫をあげ、乙班は最後のひとりまで息絶えた。もっとも、死してなおいくつかの手指足指はぴく、ぴく、と痙攣しており、それに反応して「しがらみの糸」はさらに屍をしめあげる。

 すでに一塊の血泥とよりほかに見分けがつかなくなったところから、大小の骨のきしみと、ときには液体が大量にあふれだす音までが際限なくつづいていた。そのおそるべきBGMをしょって、

「おまえはどうやらこやつらの頭――こやつらほどあっさりと片付けてつかわすのは癪じゃ」

 蓮姫の声が陰陰とながれる――声色は変わっておらず、響きだけは天井の楽のごとき声なのに、聞くものの心のありかたゆえか、それは鉄の板を爪でひっかいた音にもまして蘭丸の肌に粟と脂汗を生じさせた。

「蓮姫、それはつまり、わらわを殺すと――そう、おおせかえ?」

 やっとのことで、蘭丸はあえいだ。

 この間、蓮姫はゆるゆると縁側のほうへ移動していた。それはなかば乙班の残骸からあふれだす血とその他もろもろの体液がかからぬようにするためであったろうが、一歩、また一歩と近づかれて、匪土蘭丸は知らずしらず後ずさり、ついに庭へおりた。

「どうやって殺す気じゃ――」

 喘鳴のごとき蘭丸の声に、こちらは縁側まで出てきた蓮姫が、立ちどまって虚空をみつめ、かすかに眉をよせた。

「そういえば、考えておらなんだな」

「な、なっ、なんと」

 ……なんとも、拍子抜けな返答だ。いや、律儀に返答があったのがすでに蘭丸にとっては予想外にはちがいない。

 さっきまで流しつづけた冷汗・脂汗のために不気味なまだら模様になっている彼の顔が二倍の長さとなったのは、あまりのことに口がぽかんと開きっぱなしになったのである。ついで、間抜けな音とともに顎がはずれた――が、さすがは忍者、即座に両手ではめなおした。

 蓮姫は、この一幕にもなんの感銘も受けたようではない。見なかったのだから当然かもしれないが、見たところで、どうして相手がこうも呆れたものか、理解しなかったかもしれぬと思われた。

「――まあ、あとで考えよう」

 淡々と、彼女はいった。

「あとで――?」

 紅にふちどられた蘭丸の唇の両端がつりあがった。蓮姫のあやつる忍法は、たしかにおそろしい。なんとなれば、それは薬師黄太夫を連想させるからだ。しかし、こちらを殺す意思があり、しかもそれを実現させるぎりぎりのところまで追い詰めておきながら、最後の一手を決めておらぬとは。

 ……これは、黄太夫には絶対にない甘さであり、隙であった。蘭丸がおもわず笑みをうかべたのも、むべなるかな。

「あとが、あるとお思うてか」

 蘭丸の言葉は、おさえきれぬ笑いをふくんでいる。が、

「ある」

 意外にも、そう答えた蓮姫はにんまり笑って、蘭丸のほうを見た。見たのはたしかに蘭丸の方角だが、見つめているのは、彼のごくわずか背後である。……まるで、そこに誰かがいるかのように。

 三転、匪土蘭丸はすっと身のうちが冷えるのを感じた。さきほどから幾度も、浮き足だっては気をとりなおすのをつづけている。それ自体、忍者としてはありうべからざる心理状況だが、それを彼は自覚しない。

 自覚せぬままに――大木もゆさぶられつづけると折れるがごとく、鉄も力をくりかえし加えられると脆くなるがごとく――彼の心はしだいに恐怖に過敏になり、虚勢すらもはりがたく萎縮していったのである。

 あるのは、ただ怯え……それも、畏怖にちかいおののきばかり。

 背後に、人がいるのか? 蓮姫の、たわけた言葉にすら絶対の自信をあたえるような――そのうしろだてとなるような者が?

 蓮姫は、「そいつ」をじっと見つめたいる。

「おまえはもはや動けぬわ。見てみるがよかろう。おまえをとらえるものを。それ、背後にひたとはりついておるではないか」

 いわれたとたん、蘭丸は背筋に――まさに皮膚に密着したところに、なにものかがたしかに息づいて、蠢いているのを感じた。振り向こうとしたが、蓮姫のいったとおり、すでに身体の自由がきかぬ。

 動こうとしたとたん、彼は何倍もの力でひきもどされて、ずでんどう、と、どこかでよくきく擬音語とともに、忍者らしからぬしりもちをついた。

「忍法、憑影つきかげ

 蓮姫の声が、玲瓏とひびいた。

「おまえをとらえるのは、影じゃ。おまえ自身のな――けっして、のがれられぬ」

 匪土蘭丸は、ようやく首をねじまげて、彼を捉えるものを見た。……これが、影か? たしかに、それの位置、形をみれ見れば、影に違いない。

 しかし、あたかも蓮姫の意思に応えるがごとく、見ればみるほど影はくろぐろと凝り固まり、重みすらもって、蘭丸の動きを封じていた。

「あとの時間はたっぷりとある。おまえの始末が、ゆっくり考えられるわけじゃ」

 いいおわると、言葉どおり、思案しだしたらしい。こころもち、眉をひそめて、月下の庭をながめている。

「お……おのれ、化生!」

 度を失った蘭丸があまりに無礼な罵詈雑言を叫ぶのに対しては、ふんと鼻を鳴らして、

「それは、おまえ自身であろ」

 たしかに! というほかはないせりふを返したが。

「それにしても、黄太夫の申すとおりじゃな。刃隠れの者どもとは頼むに甲斐なきやつら……」

「……!」

 もがく蘭丸は髪をみだし、着物をみだし、化粧はずるむけて、もはや見られたものではない。

 が、無益とわかったところで、もがかずにはいられないのだ。彼の目に、地上の影は闇黒のそこなし沼のごとく、自身の身体におちた影はそこから這いのぼってきておのれを呑み、融かして一体にしようとする魔界の生命のごとくうつった。

 それは言葉による暗示をきっかけにした一種の催眠術でもあっただろう。

 圧倒的な技倆を見せつけられて萎縮した意識に、暗示は忍び入ったのだ。悪夢に似た畏怖が彼に幻覚を見せつつも、意識はあくまで醒めてそこにあるがゆえに、覚束なくなった身体感覚がいっそう怖れを募らせる――その無限ループに匪土蘭丸は虜となり、おのれの影の上に這いつくばったまま、立つもならぬ始末となっているのだ。


「このまま放っておけばどうなるか――試してみるのも一興」

 不意に、冷ややかな声がして、蓮姫はそちらを振り返った。

 蓮姫のみか、言葉も失って口のはたから泡を噴くばかり、正気も去りかかっているような蘭丸さえ、びくりと身を震わせた。わななきつつ、左右に首をふって、焦点のあわぬ視線をめぐらせる。その口から、うわごとのようにひとつの名をもらしながら。

「……黄太夫……薬師、黄太夫……!」

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