第6話
蘭丸の狂乱を、蓮姫はきれいに無視した。
「黄太夫!」
と、こちらは凛とはった声をあげて、
「たわけたことを申すな」
最初屋根の上を睨んでいた眼を、途中で地上におろした。
叱りつけた相手が、そこで屋根から音もなく庭に跳び下りたせいだ。跳び下りたやつは、驚いたことに懐手をしたままで、着地の際にも直立の姿勢から微動だにせず、しかもこれだけのわざを見せたあとにもごく涼しい顔であった。
それが、蓮姫の機嫌うるわしからぬのが明らかなのに、てんで無頓着に笑う。
「こやつの始末に悩んでおる様子ゆえ、ちと助け舟をだしてやったのではないか」
――まさに、こいつは薬師黄太夫だが、上司を「こやつ」呼ばわりしたのはさておき……それすらもさておいたとして、一国一城の姫君に、微塵も敬意をはらっているようではない。
だが、余人はともかく、蓮姫は薬師黄太夫のその態度に、腹は立てつつもすでに慣れているようでもあった。
「よけいな世話じゃ」
と、彼女は唇をとがらせた。
「第一、考えてもみや、こやつをこのまま捨ておけば、さほどの時をおかずして正気をうしなおう……」
「されば、あっさり殺すよりもよほど、苦患をなめさせることもかなうというわけで」
「こやつが苦しむなら苦しむがよい、じゃが、それを見るこちらのことを、おまえ、考えたのかえ?」
「……」
黄太夫は、ただにやにやとした。
「――考えたのじゃな」
「ま、いささかは」
「考えておって勧めるとは、あきれた悪趣味じゃ」
「いかにも」
平然と認める相手に、蓮姫はしばし絶句したが、
「――ともかくじゃ、ただでさえ見苦しきやつ、それが目の前で息絶えるまでのたうちまわるとは……想像しただけでも、」
そこでぶるっと身をふるわせたのは、どうやら本当に想像してしまったらしい。
「き、キモっ」
「キモ?」
「気持ち悪いというのじゃ!」
しばらく、姫君は匪土蘭丸でないほうの忍者を睨んでいたが、やがて世にも美しい微笑をうかべた。
「そうじゃ。そこの死にぞこない、同郷のよしみでもっておまえが始末してやりゃ」
ほう――というような顔を、黄太夫はした。が、
「それは、断る」
あいかわらず、姫に対する忍者らしからぬ言葉遣いで、それだけにこれ以上ないほどはっきりと拒絶して、
「わしがわざわざ手をくだして、こやつごときを苦患からすくってやるいわれは、ない。また、さようなことをすれば、姫を裏切った飯賀の忍者に手をかすことにもなる。姫、姫はそれでよろしいのか」
「と、いうて、つまりおまえは……」
なにやら不機嫌そうな風情で蓮姫が言いかけたとき、遠くからいくつかの足音が伝わってきて、彼女は言葉をきった。
伝わってきたのも道理、相当さわがしい。足音も、姿がみえるより早く伝わってくるくらいだが、それにくわえて互いになにやら叫びあい、喚きあっているのである。
「あやつら、あれで忍者とは」
黄太夫が吐きすてた。
が、走ってきたのは、たしかに身分的にはまごうかたなき忍者四人――万里庄兵衛、長谷寺丈馬、千倉織之助と社甚左だ。庭に二人と匪土蘭丸を、縁側ごしに乙班の残骸を見て、四人はどどっ……と団子になってそこに停止した。
「………」
冷然と、ただ流し目をくれただけの薬師黄太夫に、彼らは一瞬不安げな表情となったが、とたんに、
「おそい!」
憤然たる蓮姫の一喝にあって、べたべたと手をつき、膝をついてしまった。薬師黄太夫はともかくとして、忍者たるもの、一国の姫にはかくもてなすべし――といいたいが、四人の反応はそんな主従間における礼儀作法を思い出してのものというにはやや過剰だ。
「……ふるえておるな」
と、蓮姫のいったとおり、彼らは震えているのである。
彼らはたしかに、甲班の忍者たちを屠って、ここへ来た。途中、太郎坊、次郎兵衛、三郎丸――すなわち甲乙両班とさらに別行動をとって将軍の奇襲を城内から手引きすべく動いていた三人さえも始末して。しかし、その四人がいま、蓮姫のまえにこんにゃくのごとく震えるばかりなのは、身分はさておいたところで、彼らのわざは蓮姫のそれに比すればまさに児戯にひとしいことを、彼ら自身承知しているからで。
もっとも、蓮姫にしても四人にしても、そのわざの出どころをいえばおなじ薬師黄太夫で、そこに片方がもう一方を畏怖するような上下の差ができたのは、やはり薬師黄太夫のしわざに違いないのである。いったい、これはいかなる忍法なのか――わざをゆずられ、駆使するほうにも詳しくは解らない。だが、とにかく、蓮姫が黄太夫から譲られたわざの数は、四人にはるかに勝っていた。もとが忍者であるか、気こそつよいが武芸はかたちばかりの姫君であるかなど、そうなればまったく関係ない。
「わたしが、おまえらを殺すとでも思うのか?」
なにを思いついたか、蓮姫はにこりとして、
「左様なつもりはない、どころか、ぜひとも頼みたいことがある」
「なんなりと、仰せのままに」
「あれを――」
と、指さした先を、四人に確認させる間をおく。
「あれを、殺しゃ」
すでに、「あの者」ですらないが……そして、指さしたくせにそちらに顔をむけてすらいないが、彼女が指しているのは匪土蘭丸であった。最初、蓮姫の不自然なポーズにいぶかしげな表情となった四人も、蘭丸の姿を見て得心した。
――まあ、婉曲ないいまわしでもって表現するならば、見て気持ちのよいものではない。直截にいえば、おぞましい。
「わたしは、おなじことを黄太夫にもたのんだ、だがあやつは、嫌だとぬかしおった」
黄太夫はいつの間にか土足で縁側から室にあがりこみ、乙班の死体を検分しているようだったが、蓮姫のそういって睨む眼を感じとったか、ふと顔をあげて、かすかに笑った。
「そんなものは、わしの技をふるう価値もない。こちらが、けがれる」
……どうも、さっき姫に対して言ったのとは違う。
「そちらが、本当の理由ではないか。さっきはぬけぬけともっともらしいことをぬかしおって、あやしいと思っておった」
呟いて、言われたほうは舌打ちし、
「……というて、わたしがあれを殺せば、あとから馬鹿にするであろう、――よくもあのような化物を姫君直々に手にかけたものだ、とかなんとか」
ふくれ面で反論した。
「さすがは姫君。御聡明なことだ」
黄太夫のほうは、もとよりさっきの自分の建前が建前と見抜かれたことは承知で、というか、そもそも隠す気もなかったようで、そんなそらっとぼけた賞賛をおくった。
ひっかかるものか、とばかり、蓮姫はあごを上げて、そして四人に命じた。
「と、いうわけだから、おまえたち、始末しや」
あまりといえばあまりな命じようではある。自分の手にかけるのは汚らわしいから、かわりにそれをやれ、とは。もっとも、どんな難題をふっかけられようと、拒むすべをもたぬ万里庄兵衛以下だ。
「……は」
と、歯切れのわるい応答をして、四人はそろそろと匪土蘭丸のほうを見、ぶるっと身震いした。
蘭丸の惨状は、すでに書いたとおりであるが――それからまたさらに半裸となり、首筋にまでぬりたくっていたらしい白粉がまだら模様に全身をいろどっている。汗もまた、白粉をとかして半透明にぬらつき、口から飛んだ泡がそこかしこに散っているのが、厭わしさを倍増させていた。
「うむむ……無惨のきわみとはこのこと」
小声で、社甚左がうめいた。無惨、というのが蘭丸の惨状にむけられた同情でないことは、次に続けた言葉でわかった。
「か、かような化物、人外の輩を、うるわしきこと天上の蓮華のごとき姫君が、その白玉の細工物もかなうまじき御手におかけあそばすとは!」
「それは――それは、いかん。断じて」
横から、長谷寺丈馬もうなずいた。
「考えただけで、おいたわしくて胸がいたむわ」
「では……やるか?」
ふらりと庄兵衛がまず立ち上がり、三人がそれに続いて、雲をふむような足取りでじりじりと匪土蘭丸ににじりよった。
――命じられたせいではなく、自分たちの意志でこの妖魅もどきを始末すると決めたものの、そしてその決意が姫君をある意味で救おうとするところからきているのに、彼ら自身陶酔にちかい思いにひたっているものの、やっぱり彼らはこの上司を畏怖しているのであった。考えてみれば、この半男半女、もしくは不男不女が、いったいどんな忍法の持ち主なのか、彼らは知らない――
が、そうやって近寄ってはじめてはっきり標的をみれば、それはまるで何かに粘りつかれてでもいるように、四肢を地から離すこともままならぬようであった。最初見たときも、まあたしかに奇妙な感じはせぬでもなかったが、近くでじっくり見ると、いよいよおかしい。
「忍法、憑影」
蓮姫が笑った。
……影? と、注目した四人は、最初たしかにそのように見た。が、蘭丸がおのれの影をひどく恐怖しながらも、その闇黒に引きこまれているかのように全身は影のほうに傾斜していくのを止めおおせぬらしいと見た瞬間、ふ……っと、蘭丸の影が濃くなり、わずかに脈打ってさえいるような感覚にとらわれたのである。
「――!」
息をひいて、半歩後ずさったのに、
「おまえたちが恐れるにはおよばぬ、影が憑くのは、その本体のみ……」
また、蓮姫が含み笑う。
ふたたび、四人はふらりと一歩を踏みだしかけ――
「おっと」
我にかえったように、千倉織之助が頭をふり、苦笑した。
「皆、こんなものを手でやる気か」
身をひるがえしていちど黄太夫のいる室内へ入り、忍び刀を四本、ひとまとめに抱えて戻ってくる。乙班の「遺品」だ。
彼は、それを無造作に仲間になげた。
「こりゃいい」
「なるほど」
「手でやるよりは」
受け取った三人が、口々にいいながら鞘をはらい、白刃をあらわす――それがはじいた月光のためか、蘭丸がはっと刀を見、彼らを見、のどを鳴らした。
最初、事態を測りかねたように無表情であったが、まだら模様の奥からしだいに激情がゆらめきだしたかとみえると、次の刹那、彼は猪首をのけぞらせてひびわれた高笑いを放っている。
「ほほほほほ、きょーっほっほっほ、うけけけけ……うく、くっ、げほっ、げほん………斬りや、斬るがよい! 刀は四本――うまくすれば、わらわを五人に――」
いいもはてさせず。
「ぎゃああああっ!」
「うぉおおおおっ!」
絶叫をあげて庄兵衛、丈馬、織之助、甚左は殺到し――人間ごと、おそろしい笑声をぶった斬った。黄太夫に技を授けられた以上、並やたいていの忍法者をおそれる彼らではないが、蘭丸の笑顔がいかなる強敵にもまさる恐惶をよんで、無我夢中のうちに刀を振り下ろしていたのだ。
「……五人?」
かすれ声で丈馬がいったのは、しばらくのちである。
「五つ、の間違いではないか?」
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