第9話
たしかに——たぶん形成されつつあるのは匪土蘭丸、とわかっていても、おごそかな気分にならざるをえない光景ではあった。蝉の脱皮とか、一体の下等生物が分裂して二体になるところのフィルムを高速度で再生したのを観る気持ちにちかいかもしれない。
下等生物といえば。
「五体をきりはなされるなどという程度であれば、蘭丸は、きられたところから肉をもりあげ、その肉で失った部分を再生させる。たとえば、さっきのように首をきられておって、箱の中に入れられなどしていなければ、首から下には完全な身体ができておったはずじゃ。また、身体のほうからも首が生えてくる。
奇怪は奇怪だが、世にありえないことではない。蟹の鋏はもがれてもまた生じ、とかげの尾はきられてもまたはえる。みみずは両断されてもふたたび原形に復帰し、――」
桃地丹羽の説明のごとく、蘭丸自体、それに近いものらしい。切ったら切った数にだけふえる、ヒドラのごとき生物――
「桃じい、自分のせりふのような顔をして、しらじらと『甲◯忍法帖』を音読するのはまずかろう」
「ばれたか――ま、しかしともかく。そういうわけだから、おまえが持ち帰ったほかにもう一体、蘭丸がおるはずじゃ。そろそろ、かえってくるのではないか……」
丹羽は首をかしげたが、彼は、庄兵衛らによって蘭丸が五つにも分断されたことは知らぬ。黄太夫も、おやという顔をしたくせ、真相は口にしなかった。
蘭丸の肉塊は、目鼻立ちもくっきりしてきた。それが、その大きさにふさわしく若々しいものであればまだよかったのだが、しっかり現在の顔立ちに近づいてゆく。……化粧がないぶん、まだましではあるが。
「――で、これをどうする」
肉塊が人間の顔かたちとなってくると、やや「生命の神秘」への想いは薄れるものか、常の調子にもどって、黄太夫がきいた。
「五つ、みんな使うか、桃じい」
「おまえ、さっきから桃じいとはなんじゃ」
幕間があったために、桃地丹羽の頭からは、黄太夫への警戒が少々とけてきているものとも思われる、彼は黄太夫を叱りつけようとしたが、折悪しく――
蘭丸たちが、眼を開いた。
蘭丸たち、とは妙な書きかただが、蘭丸にちがいない、そしてもはや形は人間にちがいないのが複数いるのだから、しかたない。
蘭丸たちは、眼を開けたのちも視覚があるようではなく、動き出してもしばらく身体の使い方がわからぬような……いや、形として人間に見える状態とはなったが、まだ内部に骨や筋、肉の区分がないのではないかという動きで、床の上をのたくっている。丹羽に近づこうとしているようでもある。
それらを、どうするか?――と訊かれたこともわすれて、丹羽は原始的な恐怖にじりじりとしりぞいた。
「ひゃっ!……こ、黄太夫!」
あまり大声をだすと、迫ってくる蘭丸たちを刺激するとでも考えたか、声をひそめて呼びつける。
「こや、こやつらを、ここまで増やしてくれて、なんとする? 蘭丸はこんなにいらん、さっきいったとおり、身体のほうも残っておるのなら、そちらの蘭丸がいずれ帰ってくるはずじゃ! ここの蘭丸どもは……ええ、七面倒じゃ、殺してしまえ!」
「いやじゃ、嫌でござりまするぞ……おおう、丹羽さま、何故このような惨い仕打ちをなされますのか!」
黄太夫はふたりのこの掛け合いに知らぬ顔で、
「それは、よろしいが」
淡々と、丹羽の言葉を諒解したような返辞をした。
「が?」
丹羽は部屋の隅においつめられて、直角な壁と壁に手足をつっぱって、上へのがれだしている。
「こやつら、始末したのちは、いっさい飯賀の者どもの命はうけぬ。今日は、それだけいいに帰ってきた。そちらが承知しようがしまいが、わしにとってはおなじことだが」
天井ちかくまで壁をはいのぼっていた丹羽が、そこで雷に打たれたように動きをとめた。
「……うぬは」
十も数えたころになって、やっとそれだけいったが、また、そこで喘いだ。
「飯賀を出ると――里を、離脱すると申すか」
「さて」
言ったほうは、平然たるものだ。
「大袈裟にいえば、まあ、そうともいえような」
「刃隠れに仇なすつもりか!」
桃地丹羽にとっては当然の思考として――そもそもこちらから命じて蓮姫の護衛に当たらせていたところを、前触れなくおなじ飯賀の忍者におそわれて、黄太夫がそんな凶念を抱いたものと考えたのだ。
それならば、今日もどってきたのも刃隠れの谷に血風たてんがため――それで、裏切られたことに対する憂さ晴らしをせんがため――に、相違ない。
ところが、
「仇なす――ほど、興味はないな」
返ってきた言葉は拍子ぬけするくらいあっけらかんと、また恬淡としていた。
「仇なすどころか、命令でさえなければ、そちらの頼みをひきうけてやってもよい。現にさっき、そこな蘭丸どもの始末はひきうけたが」
「では、何の故をもって左様なことをいいだすか!……おう、寄るな、しっ!」
最後は、ついに壁の上にまで這ってきた蘭丸をおっぱらったのだ。
「何の故をもって、というが、正直なところ、わしがずっと飯賀におっても困る――と考えておるのはそっちだろう。……が、それはおく。わしは、こたびの出水に対する飯賀の態度が気にくわぬ、護衛をつけた姫君を、こんどはかどわかしにかかるとは。しかも、その護衛を討つに『これもまた、里がため、一族がため。下忍には下忍なりのよろこびがある――死ぬやつらも本望であろう』なぞとぬかしおって」
「おおむねのことは不思議に知っておるらしいが――なぜそこにこっそり『風来忍◯帖』の風魔小太郎のせりふを混ぜ込む?」
「つまりこういうことであろう、我らこそ『よろこんで死に候え』――と」
「それでは『甲◯忍法帖』の半蔵どのではないか」
「『ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ、気がつかれたか』」
「『伊◯忍法帖』の果心居士じゃな」
「桃じい、存外詳しいな」
……いったい、なにがなんだか分からぬ会話である。
そんなバカなことをしている間に、
「ふぎゃっ!」
じりじり迫ってきていた三体ほどの蘭丸にしがみつかれ、桃地丹羽はついに壁から落下した。しがみつかれているがために受身もままならず、蘭丸たちの只中に、あおむけにひっくりかえる。
「出て来い、話ができぬ」
丹羽をおおいつくした蘭丸の上に、またも黄太夫は手をかざした。瞬きの間に、どさりと音がして、丹羽がもう一方の手の真下に出現した。
「――ためしにやってみたが、なるほど、覆いなどなくとも、意思さえあれば物はうつせる、ということか? ということは、あるいは手など用いずともこれは使えるのかもしれぬな……おもしろい」
「お……おもしろい? な、なにが?」
わけの分からぬまま床に放り出された桃地丹羽はたえだえな息の下で抗議の声を上げている。黄太夫の手出しがなければ、成人体型にまでなった蘭丸五体におしつぶされていたかもしれないところだったのだ。
「いや、何でもないわ。この技の面白み、可能性、それが頭のかたい爺いに解るとは思っておらぬ。――で、さっきの話だが、桃じい」
ひっくりかえったままの丹羽を見下ろして、黄太夫はいった。
「いいかえれば、わしはあくまで、最初の命をそのまま続行する気でおると、そう考えてもらってもよい」
「最初の……?」
蓮姫の護衛か、と思い当たって、逆に丹羽はきょとんとした。
「――まだその御用の中止はつたえられておらぬ、そして今後飯賀より命はうけぬ、といったのもそこだ。わかったか。むろん、姫をかどわかし、ましてや危害をくわえようなどと企むものがあれば、わしが一命かけても始末するつもりだから、心得ておいたがよかろう」
わかったが、わからない。飯賀に対する態度をみるかぎり、薬師黄太夫は忠義だの道徳だの、まったく念頭にない男なのである。それがどうして、突然、蓮姫の護衛だけにそうこだわりだし、出水への背信までも責めるのか?
「わからずとも、よいわ」
丹羽の困惑の内容をよんだがごとく、黄太夫ははきすてた。
「わしは、ただそういいに来ただけじゃ」
「………」
目をぱちくりさせる丹羽をよそに、黄太夫は蘭丸たちに向き合った。
さっき、殺到した丹羽が突然消えて、自分たちでおたがいにもつれ、転倒した蘭丸たちは、しかしもはやのたくってはいなかった。身体の中身もだいぶしっかりしてきたらしく、よろよろとしながらも立ち上がっているやつもいる。眼も、物をうつすようになったと思われて、声のしたほうへ向けられ、黄太夫をとらえると、かっとばかりに燃え上がった。
「おのれ……ようも、わらわを」
「ほほほ……わらわが殺せぬのはわかったかえ」
「とり殺してくれようぞ……」
たしかに、そう言ったのまでも、聞こえた。おそらくは、このときやっと意識らしい意識ができて、黄太夫に対してすべきこと――「このお蘭が地の果てまで追って、何人がかりとなってもとり殺してくれようぞ」などと言ったことを、思い出したようだ。
ところが、互いの声をきくや、彼らはくるりと黄太夫から向きをかえてしまったのである。
「おまえは誰じゃ」
「わらわは、お蘭」
「お蘭じゃと? 誰が?」
「お蘭はわらわじゃ」
「ぬかせ、おまえは偽者であろ」
口々にいいながら、互いをつかみあい、ひっかきあい、「匪土蘭丸」であることをめぐって、まだ動きのおぼつかぬ身体で死闘を繰り広げだしたのである。いや、死闘というより、これはおのれ同士の喧嘩、正真正銘の「私闘」というべきか?
が、そのうち噛みつきあいまでしだしたところをみれば、へたをするとまた肉片からもうひとりふたり、新しい匪土蘭丸ができかねない。舌打ちして、黄太夫はそちらへ数歩近づいた。
「うぬら、わしを討つのではなかったか?」
手には床からさっきの箱の蓋をひろっている。それで、間髪いれず、彼は蘭丸五人のあたまを端からひっぱたいた。
蘭丸たちは、棒立ちになった。
そして、つぎの瞬間、五人まったく同時に、木偶みたいに横倒しに倒れた。蓋での一撃は、そう力がこもっているとも見えず、頭蓋にめりこんでもおらぬのはもちろん、子どもを同じほどの力ではたいたとて、「あ痛」といって頭に手をやるか、気のよわい子なら涙ぐむくらいはしようが、ひっくりかえりまでするとは思われない。
なにが起こったか。
自己暗示というものがある。こと忍者においては、極限の場面で最大の力を発揮できるように、使うことがすくなくない。自己暗示ということを意識しているかどうかは別として、集中のぎりぎりまで高まったとき、その精神のもちようから、肉体までがふだんよりも活性化したり、あるいは逆に、常人なら耐え得ぬほどの時間・環境に、ひたすらじっと耐えることもできる。
さらには、敵にとらわれて秘密の吐露をせまられ、しかも自害しようにも武器がないばあい、思い込みによって死ぬことすら可能なのだ。
余の忍者の遠くおよばぬ技を多数あやつる薬師黄太夫が、それだからとてあまりに一般的で基礎的でさえあるこの自己暗示の技を知らぬわけではない。むしろ、集中力が尋常ならず、自己暗示の使いようが巧みであったゆえに、卓越した技を多数会得したのだともいえよう。
彼は、蘭丸に対してそれをつかった。
他人に自己暗示をかけるとは妙だが、彼の場合、「血網往来」というわざがあるし、その前段階として、物を媒介して他者と感覚・意思をやりとりするということもできる。ひっぱたいたのは、傍目にそれと見えただけのことで、実際にはその接触で流し込まれた暗示こそが蘭丸をひっくりかえしたのだ。
……おそらくは、暗示をかけるだけならほかの手段もあっただろうが、相手の数、間の距離、そのあたりからの判断と、かつあまり長引くやりかたを避けたかったのもあって、この方法をとったものだろう。
「……ほ」
あまりにあっけない決着に、桃地丹羽があきれたような声をだした。
「何をした?」
「感覚という感覚を、忘れさせた。つまり、こやつはもはや、生きていることを知らぬ。――死んでいると思い込ませようかとも考えたが、なにせまことには死ぬかどうかあやしいやつ、不確実な方法でやってまた面つきあわせたくはない」
「………」
「ためしに」
黄太夫は、髪を一本ぬいて、ひっくりかえっている蘭丸のひとりの腕にふきつけた。腕に落ちた髪は、そのまますうっと肉にしずんだ。粘土を糸でひっかけて切ったときのような切断面をみせて、蘭丸の腕のさきは完全に切り取られた。
が、さっき粉砕されたときでさえすぐさま再生のために動き出していたのに、今回は、いつまでたっても肉はもりあがってこない。まるで蘭丸以外の人間のもののごとく、切られた腕も、腕のない身体も、ひたすらしんとして、これだけはたぶん普通より少量の血をながすだけである。
「……このままほうっておけば、遠からず日干しになって、本当に死ぬだろう。もし、日干しになっても水をそそげばもとどおりとなるにしても、眼を醒ますことはない。
ここに置いておくのが目障りならば、枯井戸に放り込んでふたをするか、畑にでも埋めて肥やしにするか、犬のえさにでもくれてやるがよい。あまり美味そうではないから、犬も食わんかもしれぬが、な」
「それだけか」
丹羽がいったのは、もちろん、その先の始末はしてゆかぬのかということであったのだが、黄太夫は知らん顔をした。
「それだけだな。――ではさらば、涅槃ではまたぬ」
「それは書物でないほうの忍法帖ではないか?」
「細かいぞ、爺い。……しかし、考えてみればそもそもわしのほうが先に涅槃へゆく道理がない。いいなおそう、涅槃でまつ必要はないぞ」
あまりにも無礼な、しかしある意味この人物にしては当然の辞去の挨拶をのこして、彼はひらりと身をかえした。
……いれちがって、屋敷まわりの警護をしていた佐藤平蔵と石川五左衛門がとんできて、少し前に薬師黄太夫らしき者の姿を近くでみたむねを報告し――その途中、蘭丸の群れがそこに倒れているのにやっと気づいて、
「これは――」
と、丹羽の顔をうかがった。
「ど阿呆。おそいわ」
はじめて、丹羽は二人に反応して、
「黄太夫のしわざじゃ。きゃつ、蘭丸を持ちかえって……いや、それはともかく。――きゃつは、薬師黄太夫はもはや、飯賀をぬけた」
飯賀の三上忍の一たる威厳をとりもどし、叱咤した。
「皆に告知せい、今後、薬師黄太夫が飯賀に足をふみいれるのを許すな、とな。そして、万一これに出会えば、のちの憂いとならぬよう即刻うちはたせ、と――! 万里、長谷寺、千倉、社の四人も同様じゃ」
配下をあちこちに走らせたあとで、彼ははたと首をひねった。
「しかし、きゃつ、妙なことをいっておったが」
一言ひとこと、思い返して、ならべてみて、また考える。
「蓮姫の護衛はあくまでつづけると――しかも、命をかけると? 任務の中止命令はうけぬと?」
主旨は、そういうことだったはずだ。
「そりゃ、要するに」
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