第8話
薬師黄太夫がぶらりと
忍者の足は一日四十里をよく走るといい、薬師黄太夫においてはさらに速いはずで――いちど、足手まといだとて任務前に帰らせた仲間を、自分は任務をすませてから追い抜いて、さきに飯賀に帰ってきたことさえあるくらいだから、彼にしてはずいぶんとゆっくりした帰還である。
もちろん、将軍と、それに織部半三までが討たれたことは、織部半三以下についていた中忍下忍のうち二、三人が命からがら帰ってきて、すでに報告されている。もちろん、出水城に潜入した匪土蘭丸らが帰らぬこともわかっているはずで……ということは、おそらく返り討ちにあったことも予測されているはずだった。
まさか薬師黄太夫が帰ってくるとは思われていないにせよ、飯賀の里全体が緊張して――ことに、
「桃じい。おるか」
かってにつけた変な綽名をよびつつ、黄太夫はのこのこ上がりこんできたのである。まだ、
「も、桃じいとはなんじゃ、誰のことをそうぬかす……」
文句を言いながらすっとんできた桃地丹羽は、そこでそんな黄太夫の姿をみとめ、とたんに通ってきた縁側から落っこちそうになった。
「こ、黄太夫!」
斜めになりながら叫んだ丹羽を、黄太夫は片腕ひっつかんで引き戻し、
「なにを驚く。そこから落ちて頭でも打って死なれては、せっかくの土産が無駄になるではないか」
「わしの命をとやかく申すなら、黄太夫! おまえ、どうして戻ってきた! おまえの姿を見れば、誰ぞ注進にまいるはず、それが来ぬとは……しかもここにいきなり顔を出すとは……わしは、そちらに驚いて、心の臓がとまるわ」
「驚かすために、刃隠れの警戒がきびしゅうなるころをみはからって、その見張りをだしぬいたのだから、当然だろう。もっとも、そこまで文句をならべられるほど元気ならば、残念ながらいまのところは大事なさそうだが。……ま、びっくり死になら、わしの土産を見てからでも遅うはない。さ、土産を見てくれ。そして、死ぬなら死ね」
帰還早々、とてつもなく無礼な台詞を吐きながら、さきに上がりこんでいた室に丹羽をひきずりこみ、黄太夫は例の桐箱をみせている。
「なにを――持ってまいった」
息をあらげて、丹羽。
「蓮姫をかどわかそうとした、身のほどしらず」
丹羽は、ぎくりとした顔になった。じつは、彼は薬師黄太夫が忍法で数日前の密談を聞いていたことは知らない。そもそも、薬師黄太夫の忍法の全貌も知らない。したがって、密談を「盗聴」された可能性があること自体、丹羽の想像の外であった。
それで、いま黄太夫がわざわざ討ち取った「敵」の首を見せにきたのではじめて、出水を裏切ったこと、ついでに薬師黄太夫とあとの四人を葬ろうとしたことが知れたのではないかと心配になり、では現在目の前にいる黄太夫はなんのためにもどってきたのか――よもや復讐でもたくらむものではないかと血の気をひいたのである。
が、そのあとで、彼はすうと笑顔になった。
「その箱の大きさでは、おまえのいう身のほどしらずの全身ははいるまいが、どこを持ってまいった? ま、尋常に首かと思うが……?」
「たしかに、首だが」
黄太夫の眉が、くもった。丹羽の反応が気にくわぬのだ。
「誰の首じゃ」
「さ、そういえば名は訊かなんだ――が、気色わるさは匪土蘭丸に似ていたような」
目上のはずの忍者を呼び捨てにして会話しつつ、彼は箱の蓋に手をかけた。
「どれ、見せてくれい」
と、丹羽。
「では」
不意に、黄太夫の両腕がはねあがった。右手では蓋を、左手では箱をしっかりおさえたまま、しかし箱に入っていたものは、ぽーんと放物線をえがいて、あぐらをかいているところから慌てて立ち上がりかけた丹羽の、まだ伸ばしきっていない膝のあたりにぶつかった。
「な、何をいたすか!」
狼狽のあまり、それこそ匪土蘭丸のような裏声で、丹羽は絶叫した。
「こうすれば、多少は驚きもしようかと思うたまでだ。どうじゃ、嫌か」
「こ、こ、この……よくも、こんなことを……」
「ふむ、しかし、それはすごいな。わしとて、そんなものにぶつかられては――いや、しがみつかれるのは、嫌じゃ」
不思議なことがある。丹羽の膝にぶつかった箱の中身、すなわち匪土蘭丸の首は、ぶつかったあとも落下せずに、まだそこにくっついていた。
ずずぐろい肌、まだらな白粉、ほねばった顔立ちに点々と血飛沫までも散って、それだけでも十分すさまじく、箱に入れるときですら手をつかうの嫌さに忍法を使ったくらいの蘭丸の首には、なんといまは、手足が生えていた!
かわりに、首の切断面はきれいにふさがって、もりあがっている。というより、もりあがったところに四つほど小さな突起ができていて、その先が五本の指となり――その、まだ皮膚もうすくてあかぐろいような「四肢」で、匪土蘭丸は、桃地丹羽にぶつかったそのままの位置にしがみついているのだった。
「ええい! はなせ、はなれよ、蘭丸!」
悲鳴のように命じる桃地丹羽は、しかし嫌悪してはいるものの、驚きは一瞬のことであったらしい。
「桃じい、その様子を見れば、これが、こやつの忍法か」
黄太夫が、まるきり対岸の火事というふうに落ち着きはらってたずねたが、
「ふぐう……ぬぬぬぬぬぅ……」
丹羽のほうは、膝から蘭丸をひっぺがすのに渾身の力をふりしぼっていて、とうていそれどころでは様子であった。しかも、
「あれ、あれ、あれ、痛い、痛うございまするぞ、丹羽さま。どうかお蘭をそんなに手荒に扱わないでくださいまし」
蘭丸が、まだ身体と呼べる部分がほとんどないせいか、風のようにかすかな声で訴える。
「黄太夫めが、わらわを狭苦しい箱に閉じこめおったのじゃ……丹羽さま、どうかお蘭を哀れとおぼしめして……」
「わかった、わかったから放せ!」
「放せとは、また情けなや――なぜにお蘭をさまで厭われますのか……」
なんとも、埒のあかぬ騒ぎである。
嘆息した黄太夫は、片掌を蘭丸に、もう片掌を外へむけた。
……熟しきった柿かなにかがつぶれるような音をたて、匪土蘭丸は一塊の肉柘榴となった。同時に、庭の大樹が突風をうけたようにざわざわと揺らいだ。
丹羽が、呆然と、緋牡丹がさいたような膝をみおろした。もっとも、彼自身には怪我ひとつないようだ。ただし、何の痛痒もない、というには全身をぼりぼり掻き毟っているが――これはいまの一幕で、じんましんができたものだろう。
「これは――何をいたした、黄太夫?」
これもまた、首を箱に入れるときにもつかった「
「吸息の旋風かまいたち……では、ない。べつに、口でもって息を吸ったのではないからな」
黄太夫はいって、にやりとした。丹羽に答えたようだが、答えにはなっていない。彼は、丹羽に「万象拿移」を説明するつもりは毛頭なかったから、そのためもある。
「しかし、これは……」
丹羽のつぶやきは、あまり意味をなしていない。無視して、黄太夫が訊いた。
「首だけになってもそこから身体が生えるならば……桃じい、こうなってもあるいは蘇るか、それとも……?」
「首から身体が生えるとか、死んでも蘇るとか……そういったものではない。黄太夫、何たることをいたした。こやつは――見よ!」
丹羽が見よといったのは、はじけた蘭丸の遺骸であった。いや、普通なら遺骸でしかありえないその肉塊は、このとき、命あるもののごとくぶるぶると震え、あまりに細かいものはいくつかでひとつにまとまり、やや大きいものはそのまま、飛び散った血飛沫すらも吸収しながら、徐々になめらかな形となった。
「…………」
さしもの黄太夫が、言葉もなくし、ただじっと見つめる先で、いまや五つばかりの肉団子になった蘭丸は、なお震えつつ、今度は次第にふくれてきた。それから、幼児ほどの大きさにまでなると、数箇所にくびれがはいり、それもだんだん深くなって、人間の丸くなった形のようにみえだした。胎児の形を知っているものならば、それが一番ちかいものとして浮かびそうな形でもある。
「……これが、匪土蘭丸」
桃地丹羽が、おごそかにいった。
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