書くことの意味について問うこと

かつて、明治という時代においては文学というものもひとつの国家プロジェクトであった。
当時の文学は、近代的国家を成立させる一連の運動とともにあったので、それは伝奇といわれる中世の文芸のカウンターを目指すことになる。
私小説というものも、そうした一連の運動の中で試みられたひとつの形態と、とらえられるだろう。
つまり、近代的自我を描くという試み。
それは島尾 敏雄の「死の棘」においてひとつの終着点をみたように思える。
共同体からこぼれ落ちていくどこへもたどりつけないような、ひとつの自我。
それを描くことは今日において、アクチュアルな問題と向き合っているとはいいいがたい。

だから、どうだというのか。

そもそも書く意味なぞ問うな。
もし、書くことに意味があるとすれば、ドゥルーズがかつて語ったようなあの言葉。
「自分にとってよく判らないこと以外に、何を書く必要があるのか」
書いた着地点が、自身にとって未知であるのならそれは私小説としてとても重要なことかもしれない。

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