第5話 老婆と老人

 すべての事象の境目が曖昧になる終末的現象、境界線崩壊バウンダリーロストが始まったのは百年前のことだが、現時点でもそれが終わったわけではない。自他の境界が無くなるところから始まった境界線崩壊バウンダリーロストは、徐々にいろいろなものの境目を破壊してきた。最も大きな変化をもたらした崩壊は、現実と虚構の境界が崩れ去ったときではあったが、それでもまだ多くの人々が正気を保っていた。何を正気と呼ぶべきかは、今となってはどうでもいいことではあるが。


 あと、どれほどの境界線が残っているのかはわからないが、生き残っている学者と死に損ないの博士たちによって、最後に訪れるのは有と無との境界線崩壊バウンダリーロストだと言われている。


 過去に済んだもののうち、生と死の境界線崩壊バウンダリーロストはとくに注目されていたが、実際には大したことは起こらなかった。生きているんだか、死んでいるんだかよくわからないような連中が世界には多すぎたからだ。ただ、猫の箱は無意味になった。


 ゼロが橋を渡りヴェニスンに入ると、とたんに周囲が賑やかになった。ここは世界の中でもとびきり栄えた街だ。境界線崩壊バウンダリーロストで世界のほとんどのものは価値を失ったが、ここにあるものはまだまだ人々に求められた。全てを忘れ、誰からも忘れられて消え去るその日まで、人々は死ぬほどヒマだからだ。


 ヴェニスンには物語の語り部が多く集まって、新たな物語と交換したり、時には売買なども行った。語り部の上演は複製にはあたらないので、上演したからといって、忘れることはない。複製は、語り部がその物語を他の語り部に譲り渡すときに行われる儀式である。大通りでは今日も多くの演者達が、語り部の言葉に合わせて芝居を演じていた。


 メイド服でチラシを配る少女に赤いワニ戦車を見たことがないか聞いたが、なかなかわかる少女に出会えなかった。彼女らはあまり路地裏には入らないらしい。ゼロは、十人までメイド服に聞いたところであきらめて、案内所に行くことにした。案内所は有料だからあまり使いたくないないのだが、仕方がない。


「知らん」

 案内所の元メイド服の老婆は、赤いワニ戦車を知らなかった。知らなくても知っていても、料金は発生する。泣く泣くたまごを一つ渡して、案内所を出ようとしたところで、老婆が言った。

「赤いワニ戦車は知らないが、他のことは知っているかもしれないぞ」

 それはそうかもしれないが、これ以上たまごを使うわけにもいかない。インフィニティに食べさせる分がなくなってしまう。

「たまごはもう渡せないけど」

「使い方を教えなよ、兄さん」

「知らんのかい、婆さん」

「婆さん言うな。孫はおらん」

「そうかい、姐さん」

「そうさ。わしらは料理などせんからの」

 メイド服はみんなだいたいそうだ。少し考えて、ゼロはレシピを一つ譲り渡すことにした。ポーチド・エッグでいいだろう。あれはインフィニティがあまり喜ばなかったから、もう作らない。


「たまご料理の方法を一つ教えよう。それでいいかい?」

「いいともさ」

「天使のたまごは知ってるかい?」

「知らん」

「何も知らんのかババァ」

「まあ待て。天使のたまごは知らないが、天使のたまごを探しているやつのことならわかるぞ」

 ゼロは出ていこうとした足を止めた。


「どうせ、老女だろ。知ってるよ、俺の依頼人だ」

「老女? 違うぞ少年。男の老人だ。十字架みたいな武器を背負ってる」

「なんだって?」

 元メイドの老婆は、手をヒラヒラさせて、ポーチド・エッグのレシピを要求した。ゼロはレシピと引き換えに、天使のたまごを探しているという老人の手掛かりを得た。


 ヴェニスンの路地裏はいろいろと難しいことになっているというのは、広く知られていることだが、過去と現在の境界線が崩壊してからは、一層複雑なことになってしまった。今後さらに現在と未来、過去と未来の境界線もなくなってくると、さらに混沌カオスが悪化することは想像に難くない。


 メイド老婆の指定した路地に、言われたとおりの手順で入ると、デカい十字架の老人はすぐに見つかった。老人は、

「すまないが……、天使のたまごは探していない」

と言った。ゼロはあんのババァと思ったが、「知らない」とは言わなかったことに気づいた。

「探していないとはどういうことだ」

「ああ。そうだ探してはいない」

「探す必要がないのか?」

「探す必要がない」

「たまごを持っているからか?」

 老人は、しばらく黙っていたが、それからゆっくりと言った。


「壊してしまったのだ」

「どういうことだ?」

「わしは天使のたまごの中身を知ろうとして、それで壊してしまった」

「たまごはかえらなかったのか」

「わからない。わしはもう待つことができなかったのだ」

「中身はなんだったんだ?」

 老人は答えなかった。何も答えずに立ち去ろうとした。

「帰らないのか?」

「もうかえらない」

 老人が自分について言ったのか、たまごについて言ったのか、ゼロにはわからなかった。

 老人はもう振り返りもせず、戦車に乗り込んで去っていった。彼のワニ戦車は薄汚れて真っ黒になっていた。なるほど、赤で探しても見つからないわけだ。


 ゼロは、エアステンスのところに戻って、老人のことを話した。エアステンスはゼロに礼を言い、代金としてパン・プディングのレシピを教えた。

 エアステンスは、いずれまた掲示板にメモを出すのだろう。迷子文献のこの二人が生き続けるために必要なことは、お互いに探し探され続けることしかない。再会し、物語が終焉を迎えるとき、二人は誰に知られることもなくきれいさっぱり消えてなくなるのだ。ゼロが彼女らを覚えていてあげることはできないのだから。


 ゼロが家に着く頃、ちょうど街灯が点灯した。リビングは暗いままで、夜の帳に飲み込まれようとしていた。明かりを点けて、たまごを冷蔵庫にしまったところで、寝室からインフィニティが下着姿でずるりと起き出してきた。


「いってらっしゃい。今日は早いんだね」

「もう夕方だぞ」

 インフィニティはえ? と時計を見て外を見たが、とぼけて

「ご冗談を」とおどけた。

「冗談じゃない。腹に聞いてみな」

 あー、確かに。とつぶやいて、そのままソファにぼふんと沈み込んだ。


「ゼロぉ、おなかすいた」

「知ってる」

「パンとたまごあるの?」

「ある」

「砂糖は?」

「ある」

「シロップは?」

「ないが、いらないぞ」

「そうなの?」

 ゼロはフライパンの代わりにミルクパンを取り出した。インフィニティはだまってゼロを見守ることにした。今日は新しい食べ物に巡り会えそうな予感がしたからだ。


「わらわはまんぞくじゃ」

 ミルクパンにいっぱいのパン・プディングを平らげて、インフィニティは満足げに腹をぽんぽんと叩いた。

「さようでございますか姫様。ようございましたね」

 ゼロは棒読みで応えた。


「ゼロぉ」

「なんだよ」

「好きよ」

「知ってる」

 ゼロは、とりあえず今日のところは黒字ということにしておいた。

 まあまあ、いい日だったからだ。


つづく

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る