第2話 アフタヌーン酒場
第⑥階層に酒場はいくつもあるが、ただ〈酒場〉と言った場合、それは市場正門向かいのこの酒場を指す。入り口の上に一応屋号らしきホーローの看板が掲げられてはいるのだが、ひどく薄汚れていて全く読めない。だがわざわざ遠くからこの店を探してくる客はいないし、この店との差別化は他の店が勝手にやればいいことだから、看板なんかが読めなくても誰も気にしていない。ここが〈酒場〉であり、酒場といえば誰にとってもここが〈酒場〉なのだ。そのせいかどうかは知らないが、第⑥階層にある酒場は、「イーストダイナー」「ウェスタンバル」「ナンナンザイバー」「ザ・ノース」などと方角にちなんだ店名が多い。その命名の起点になっているのはそこの巨大市場だということになってはいるが、実のところはこの〈酒場〉からの方角を示しているのである。決まったのは遥か昔のことであるから、今となっては誰も答えを知らないのだが、事実はそうである。昨年の春に引退した図書館員が最後の情報を持ったまま境界を失ったところで、もはやそれらの差別は過去のものであり、この名もなき〈酒場〉が唯一の酒場であり、他の店はそれぞれがそれぞれのオリジナルとなったのだった。
鎧戸をギギと開いてゼロが店内に足を踏み入れると、バーの電灯が光を取り戻した。朝まで飲んだくれていた客がまだ隅に転がっていたが、それはほんの日常であり、すでに会計済みで無一文であるから誰の気にも止まらない。統計局の役人だけがカウンター①を手に、本日の泥酔者をカウントして回っているが、この店にはまだ来ていないし、ゼロのコンビーフにも関係がない。ゼロは入り口からまっすぐにカウンター②に向かい、足が届かないカウンター②チェアに飛び乗りながらグラスを拭いているマスター(今月④人目)に注文した。
「ストロングゼロ、アルコール抜きで」
「キリンレモンならそとの自販機につめた〜いのがある」
「じゃあそれで」
「営業時間外だ。自分で買ってくれ。なんの用だい? 今日は市場は休みだろう」
「休みだね。墓参りに行こうと思うんだが、いまどっちにある?」
「墓参り? お彼岸でもないのに珍しいな」
「お彼岸には行きそびれたから。天気もいいし。たぶん風もいいよな」
「あー。確かにいい風だな。日差しもいいぞ」
マスター④は目を細めて、先週死んだマスター③の面影をまぶたの裏に呼び出した。あなたのツケはかならず回収します。
「先週の葬式で、あんた先代の骨を持ち込んだだろ。そんときは南南西?」
「いや、真南だったよ。月齢からすると、たぶん今日は北北西だと思う」
「ありがとう。イーストポートから飛べるかな?」
「北風だからなあ。どうだろう。カッター以下ならたぶんいいが、あんたのディンギーだとビル風で落とされちまうんじゃないか?」
「ビル風はなれてるから大丈夫。南回り? 北回り?」
マスター④はちょっと待ってくれと言って、一心不乱に拭き続けていたショットグラスをカウンター②に置いた。役人がカウンター①を一心不乱に叩き続ける音が聞こえる。店内にそんなに泥酔者はいない。水増し統計だ。保健所はまた、泥酔者増を発表し、酒税増税を第⑥層の政府に指導するにちがいない。
「南のほうが簡単だが②日はかかるな」コンソールを慣れた手付きで操作していたマスター④は、顔をあげて常連客ゼロに答えた。ツケを払えという目線を与えるが、ゼロは気づかないふりをする。気づいたら負けだ。
「北から回ろう。向かい風を使って上昇して、回り込みながら下れば問題ないかと思う」
「イーストポートは南に下る方角にしかカタパルトがないぞ」
「北に飛ぶにはブースターを使うしかないか。いくらだっけ?」
「5000カレント+税」
「お安くないなあ」
「あんたなら1日で稼げるだろ」
「仕事があればね」
マスターはそんな金があるからツケを払えという目線を送っているが、ゼロはそれには一向に答えず、あくまでも貧乏人アピールを続けた。ゼロのツケは都合33000カレント。大半はインフィニティのツケだから本来はゼロに支払い義務はないが、インフィニティが払うわけはないのでゼロに請求するしかない。こいつの方がまだ交渉しやすいとマスター③から聞いていたからだ。マスター③はマスター②から聞いたし、マスター②はマスター①から聞いた。マスター①は先月の最後のマスターから聞いた情報だ。金額は増えていない。
マスター④がツケの支払いについての見解をゼロに問おうとしたときにゼロが切り出した。
「お土産はコンビーフ缶でいいかい?」
のどまで出した言葉を飲み込んで、マスターは切り替えした。
「コンビーフ缶ならケースで頼むよ」
「了解。情報料ね」
1ケースもあれば、ツケを相殺してもお釣りがくる。マスターに取っても悪い取引ではなかった。マスター⑤が来たら引き継ぎしておこう。
「マイクロバーストには気をつけてな、ゼロ」
「わかってるよ」
店から出ると役人が何もないところでカチカチとカウンター①を叩いていた。ゼロはすたすたと近寄ると横から手を伸ばして、リセットボタンを押してやった。役人はギョッとしてゼロを見たが、とくに苦情を述べるでもなく、手前のメモ紙に適当な数字を書き込んで、1からカウントを再開した。彼に必要なのは、求められる数字と、カウントしたという事実であって、その2つが結ばれている必要はないのだった。
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