『精神のなんとか』編

第1話 トマトのパスタ

 ゼロが目覚めたときすでに正午は回っていたし朝採りで届けられる丸トマトもすっかりゆるんでソースにするしかないぐらいになっていた。インフィニティは大股を開いて大いびきをかきながら丸出しのへそをボリボリかいていた。起こそうか迷ったが、下手に起こすともう1ラウンド始まってしまう気がしたし、昨夜3ラウンドのあとでは少々キツいのでそのまま寝かせてキッチンへ立った。


 鍋に水を入れコンロにかける。電子ライターを火口に寄せてガスを開き、火花を散らして着火する。ボフンと少し派手に火が回ってうようやくコンロに火が入る。不便であるが今使える家財道具ではこれしか方法がない。朝食のたびにライフルを発砲していたのではキッチンのタイルが穴だらけになってしまう。それはあまり楽しいライフスタイルではない。貯蔵庫を開けるともうタンパク源がまるでなかった。朝市で何か買うつもりだったのだが、寝坊していたのではままならない。


 湯が沸いたところでポットに少し汲み出してから、鍋にトマトを放り込んだ。軽く湯煎してボウルに取り出し皮を取り除きならマッシュ棒でつぶす。トマトの酸味と食感を残したいので少し雑めにつぶす。手抜きじゃない。ゼロはあえてそうしていた。トマトのあとのお湯をまた沸かして塩を投げ込む。パスタを茹でるのだ。水不足の昨今、一滴たりとも無駄にはできない。上の階で日照りがあれば、この中層階までは配水がないこともある。


 パンチェッタでもあればなと思うが、二人が暮らすこの部屋には、薄ハムの一枚も残ってはいなかった。干し肉、もないな。トマトだけパスタかー。残念なランチになってしまいそうだ。オニオンを刻んで載せて少し辛味を出すか。それでもやはり肉片無しではパンチが弱い。チーズ、もないか。そもそも乳製品は貴重品だった。タイマーがチンチン鳴り出して茹で上が時間を示す。ゼロはトングでパスタを掬ってフライパンへ移した。そこでボウルのトマトをドバッと流し込み、秘伝のスパイスなんかをちょっと加えて和える。ああ旨そうだ。ゼロはコンロの火を落として、フライパンを休ませる。その間に皿を二枚出して並べ、トマトパスタを盛り付けた。オニオンスライスを掴んでモソっと載っければできあがり。


「おはよ」

 インフィニティが下着のままフラフラと起き出してきた。ゼロは黙ってハンドサインで、服を着て、顔を洗うように指示をする。ゼロより頭半分ほど長身の相棒はゆらゆらしながら、ガタガタあちこちの調度に接触を繰り返しながら、陽光のあふれる洗面台へ流れていく。長身のインフィニティは深く腰を曲げて、洗面台に顔を寄せ、メタル製の三角ハンドルをひねって水を出す。ジャバーと勢いよくタイルを水流が打ち付ける。背後でゼロが「節水!」などと言っているが無駄に返事はしない。ザバザバザバと顔を漱いでパァッと息を吐く。フェースタオルをハンガーから引き抜いて、肌が撥する水滴を拭う。インフィニティは湿った前髪を整えながら、ダイニングに戻ってきた。

「おおっ、これは美味しそうすぎない?」

「まあ旨いとは思うんだが」

「不満そう。なんか足りない?」

「肉類がまるでなくて」

「んー? 大丈夫じゃない?」

 インフィニティはフォークを高速で回転させてひと巻きを皿から取って口に放り込んだ。

「んー! おいひい」

「そうかい」

「でも確かにもうひとパンチあってもいいってのはわかる」

「だろ」

 ゼロは肉類を切らせた自身のうかつさを呪いながら、諦めてテーブルについた。インフィニティも長い手足をバタつかせながら向かいの席に着く。

「ま、ないものはしょうがないじゃん。いただきまーす」

「はい、いただきます」

 ゼロはパスタをすすりながら、市場の休業中どうするかぼんやりと考えていた。掲示板に行けないと、仕事が見つからない。街場を流して拾ってもいいが、効率が悪すぎる。いっそ市場に合わせて休んだ方がマシかもしれない。


「ねね」

「ん?」

「コンビーフ」

「んん?」

「あったよね?」

 はて? ゼロはキッチンをざっと眺めてみたが、心当たりはない。床下の貯蔵庫にもなかった。リビングはもちろんベッドルームを思い浮かべたが、そんな希少食材がうちにあるわけがない。インフィニティの思い違いだろう。

「ないだろ」

「あるって。思い出したんだよ」

 インフィニティが悪戯をすり小娘のように目を輝かせながらニヤニヤしている。

「えー? どこにだよ」

「んふっふ。最近行ってないから忘れちゃったんだな」

「最近行ってない? どこだ? 五層は先月行ったしなあ。七層?」ここは六層だ。

 ブブー、とインフィニティが鼻を鳴らして不正解を告げる。

「このタワーじゃないよ」

「外?」

 ゼロはキッチンの窓から外を見る。少し霞がかかった遥か遠くに隣のタワーがうっすらと見える。もう少し天気がよければさらに向こう側のタワーだって見えるだろう。違うタワーには確かに滅多に行くことはないが、食料品を勝手に回収したら国際問題だ。かなりヤバい。

「他のタワーじゃダメだろ」

「まさかぁ。タワーじゃないって」

 じゃあ地上か? 地上はもっとマズい。生きて帰れない。3層あたりの重装歩兵師団だってタダでは済まないだろう。

「わからん。降参」

「おはかだよ。お、は、か」

「墓? ……あぁっ! 供物か」

「んふふ。もういいんじゃないかな?」

「確かにもう喪は明けてるし、いいな」

「でっしょう」

 移動式浮遊共同墓地。通称〈流浪の墓地〉。三年前に境界を失くした探し屋エド・ジャハリスの葬式のときに弔問客から供えられたコンビーフ缶がある。エドが引退するときに店を継いだゼロが喪主を務めたのだが、そのときのものが墓に納められたままになっていた。

「わかった。行ってこよう」

「えーあたしも行くって」

「なんで」

「ゼロじゃボウト寄せられないじゃん」

「んなことねえよ」

「気流読めないし」

「今日の天気なら大丈夫だろ」

「ダメ。あとあたしもエドに会いたいよ」

 仕方ないな。インフィニティ言い出したら聞かないことはわかっている。

「わかった。とりあえずどの辺にいるか調べてくるから、支度して待っててくれ」

「やった!」

「洗い物も頼む」

 めんどくさーいという悲鳴をあとに、特に後ろ髪を引かれることもなく、ゼロはジャケットを羽織って市場を目指した。市場は休みだが、〈追跡者〉は酒場にいるはずだ。昼間でも。

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