NeST
波野發作
終わらない物語
『天使のたまご』編
第1話 境界線崩壊
あの「
我が
相棒のインフィニティは元はロボットだが、今は人間の女である。わたしの気まぐれのせいでそんなことになってしまった。ロボットの頃は働き者だったらしいが、人間になってからはひどく怠け者で、ゼロが仕事で出かけていてもこいつは家で寝てばかりいる。しかも寝相がわるい。ただでさえベッドからはみ出しそうな長身なのに、長い髪と長い四肢を振り回して一晩中ぐるぐる回るものだから枕元のいろいろなものをなぎ倒して、部屋の中はしっちゃかめっちゃかになっていた。陽が昇って彼女が三回回ったところで、ゼロが鍵束をがちゃがちゃいわせて玄関のドアを開けた。
2DKのアジトはゼロの管轄する整頓されたエリアと、インフィニティが無秩序に荒らすエリアとが一進一退を繰り返していた。今日のところは若干ゼロの優勢といったところで、キッチンからダイニングまでは片付いていた。リビングは少々荒れている。本来は共有スペースであるベッドルームはすでに諦めた。あっちはインフィニティの本拠地だ。片付けるのには骨が折れる。「仕事場が欲しいなあ」というのはゼロの口癖だが、こうも不景気が長いと、簡単に引っ越しもできない。この世界の通貨不足は深刻だ。ミルクをコップに二杯注ぎ、残りを冷蔵庫に収めた。パンは切ったが、焼かない。昨日トースターが壊れたからだ。
「おい、起きろデカブツ」
「うっさいな。うっさいな。うっさいな」
インフィニティは顔を毛布にうずめて抵抗した。ゼロは強引に毛布を引きはがした。うぉーんとうなるインフィニティを無視して、毛布をベランダに干した。今日は久しぶりに日が射しているので、ダニ退治のチャンスだ。
「オマエ、さっさと起きないと朝飯抜きだぞ」
「朝ご飯はいらない……」
「ふざけんなさっさと食え」ゼロはベッドにだらしなく転がるインフィニティの腕を引っ張った。
「ぬーん」
インフィニティはぐいっと腕を引き戻して、ゼロを後ろから抱えるようにして絡み付いた。
「おいばかこら」
「ワタシノネムリヲサマタゲルノハダレダ」
首と足をぐいぐいと締め付けてくるので、抵抗をしてみるがすでに関節を決められていて、ゼロはもはや身動きができない。太ももをパンパンと叩きながら、
「やめろって。今日は仕事がないんだから部屋の片付けをするんだよ」
「ワタシノムネノマサグルノハダレダ」
「んなことしてねえよ。とにかく放してくれ」
「エッチしないの?」
耳元に吐息がかかる。ゼロは一瞬迷ったが、今日はそんな場合ではない。それに、
「うるさいうるさい。そんなこと言ってどうせ乗ったところでジョークジョークで恥かかせようってだけだろバーロー」
「ニヒヒ。だんだんわかってきたね、少年」インフィニティが頭の上で囁く。
「もう少年じゃねえって言ってんだろ」
インフィニティはゼロをはねのけてベッドの端まで後ずさると、口を隠しながら
「イ、嫌ァ……」と怯えてみせた。
「ド阿呆」
ゼロはいつまでもふざけるインフィニティをベッドに残しリビングに戻った。
百年前に起こった
しかし、ある朝誰もが気づいた。それらはすべて思い込みに過ぎないと。最初に彼と彼女の境界線が崩壊して一つに混ざり合った。AさんとBさんも区別がつかなくなった。君と僕とが曖昧になったあたりで、誰もが諦めた。そして、虚構と現実の区別もつかなくなった。リアルの物語は、フィクションと融合し、新たな物語に移り変わった。君の物語と、僕の物語と、彼の物語と、彼女の物語の境界がなくなった。すべての存在は自由に行き来をして、語りあい、愛し合った。ヘブンというものがあるとすれば、それはこの世界のことだったし、ヘルというものがあるとしても、それはこの世界のことだ。
ゼロはわたしが創造したが、インフィニティはわたしが創造した存在ではない。創造主に放り出されて迷子になっていたロボットをゼロが拾ってきたものだ。無機質な機械の体を生身の設定の変更して、新たな外観を与えた。ロボット時代はよく仕事をしたようだが、今はご覧の通りのグータラ女だ。大失敗だ。
ゼロはわたしを知覚していない。インフィニティはなんとなくわかっているようで、たまにわたしに目配せなどをすることがある。しかし、おそらく彼女は自分の創造主を知覚できていない。ゼロがわたしを見ることができないようにだ。ただこのルールを元に考えると、わたしもまた誰かの創造物なのかもしれない。わたしには創造主が知覚できないのだから。
ゼロがリビングの掃除を終えた頃、ようやくインフィニティが起きてきた。どっかりとダイニングテーブルの椅子に座ると、ほおづえをついてゼロを見つめた。ゼロはしばらく無視をして本棚の整理を続けていたが、遂には諦めてキッチンに入り、朝食の支度をはじめた。ゼロの後ろ姿を見ていたインフィニティが言った。
「たまごは?」
「あ? あるけど」
「シュガーは?」
「あるな。まだある」
「シロップ」
「ないな」
「バター」
「ない。マーガリンならある」
ゼロは背中を向けたままパンを切っている。
「ねえ」
「……」
「ねえねえねえ」
「……………」
「ねえってばぁ」
ゼロが動きを止めた。しばらく止まった後、諦めたように下からボウルとフライパンを取り出した。ご所望のフレンチトーストを作るのだ。
「やった♪」
「まったく」
ぶつぶつ言いながら、たまごを割って砂糖とミルクを混ぜた。
ゼロは、拾ってきた女神に頭が上がらないのだ。
続く
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