第4話 エーテルラインドリフト

 北から流れてくるエーテル流はタワーに近づくと表面滞流の影響で東西に別れていく。イーストポートから飛び出した〈キニア〉は、タワーの真北で、それまでエーテルボードを細かく切り替えしてのクローズドホールドで風上へと上がって来たのを一瞬ウィンドアビームに切り替え、うまく西側の下りエーテル流に乗り換えなければらない。ランニングに移行してしまえば、あとは壁面スキーと同じように進行方向と力学的作用ベクトルが一致するのだから、猿でも猫でも操縦はできる。ゼロでもできる。難しいのはウィンドアビームの瞬間だ。船体の真横からエーテルを受けるということは、リング内のエーテルボードに全くエーテルが当たらないとうことだから、無動力船が、さらに無動力である時間帯になる。ちょっとでもバランスを崩せば、簡単に失速して、あとはなすすべもなく一直線に惑星のコアに向かって突き進み、途中で海面か地面か、床面に阻まれて船体は大破。乗組員は全員死亡(即死)確実である。それがイヤならディンギーを捨ててイスごと飛び出すしかない。イスにはパラグライダーがついているから、風向き(エーテルではない)さえよければ、うまくタワーに接近できるかもしれない。風がなければ、そのままふわふわと高度を下げ、下の雷雲に突入し、運がよければサメのエサになって天寿を全うし、運が悪ければ避雷針として殉教者になる。いずれにしても、セーリングで失敗するのは、あまりよいことではないので、どうにかしてうまいこと乗り切らければならなかった。

 ターララララーっと軽快な鼻歌をのんきに唱えるインフィニティを文字通り尻目にゼロは北頂での切り返しのシミュレーションに余念がない。この年代の滑空船はレジャー用途であるため、自動操縦機能がオミットされているのが当たり前だ。バウンダリーロストで既存の価値観や経済観念がすべて崩壊し、仕事を失った人々は、とにかく寿命を終える前の時間をどう過ごすかにばかり注力していた。その中で、当時新発見された次元潮流(エーテル)を利用した、超軽量材にエーテルボードを並べた無動力での駆動装置を実現し、ホビーとした。元々は金持ちの道楽だったが、貨幣という概念がロストしていく中で経済は崩壊し、貧富のボーダーラインは失われ、誰でもどんな出自でもそんな人格でも、誰でも平等にあらゆるレジャーに興じられる時代が到来した。到来し、廃れた。この滑空船の遊びが廃れたわけではない。スポーツそのものから、人々の興味が遠のいたのだ。競ったり、がんばったり、情熱を注ぐなどといった、エモーショナルな人間活動がすべて、人々の興味の対象ではなくなったのである。

 ゼロにしてみれば、この船は単なる移動手段でしかないし、インフィニティにしたら、乗り物ですらない。ただのイスだ。

「まだ?」

「まだも何も、北頂にすらついてない」

「なんでこんなに遅いの?」

「滑空船ってのはこういうもんだろ。燃料使ってないんだし」

「雲しか見えないんだもん。ヒマ」

「精神の鍛錬が足りないからだ。いつもグウスカ寝てるから」

「遊んでよー」

「俺はヒマじゃないんだけどな」

「ちょっとでいいから」

「んじゃあ、精神のなんとかゲームでもするか?」

「なにそれ」

「説明しよう」

 精神のなんとかゲームとは、甲と乙の二人が、お互いにマインドを読んでメンタルを叩きあい、ソウルを賭けてスピリットでバトルする遊びである。まずはやってみよう。

「おれが甲、お前が乙な」

「なんで乙?」

「乙女だからいいじゃないか」

「そゆこと?」

「で、甲が先行」

「いいけど。どうするの」

「甲は乙の好きなものを思い浮かべる」

「うん」

「そして甲はそれの悪口を言う」

「え」

「乙はその悪口を聞いて、対象が何かを当てる」

「面白いの?」

「まあ不愉快だけど」

 前に酒場でやってるのを見たときは、3人ぐらい尻をブラスターで撃たれていたな。命に別状はなかったが、痛そうだった。痕は残ったことだろう。

「よし。思い浮かべた」

「当てるぞー。じゃ悪口ちょうだい」

「ええとね。チビで口うるさくてイビキがでかい」

「ゼロ?」

「おい。いきなり当てるな」

「簡単すぎる! でもやり方はわかった」

「ま、まあチュートリアルだから……じゃあ甲乙交代」

「よーし。何にしようかな」

「もうすぐ北頂だから、わかりやすいのにしてくれよ」

 集中を欠くと失敗するリスクも高まる。それを回避するのはリスクマネージメントの基本だ。

「決めたよ。乙の好きなもの」

「じゃあ甲は乙に、それの悪口を言え」

「大きくて、デカくて、邪魔」

「んー。お前?」

「ちょっと! あたし邪魔なの?」

「いや待て、邪魔じゃない。邪魔じゃないぞ。それは俺が思ったわけじゃないからな。あとデカいってのは単なる事実であって悪口とは言えないのでは?」

「どうだか」

 自分で言い出してプンプンするな。しかし、他になにがあるというのだろう。これは結構難しい問題なのではないか。ゼロが実際好きなものが答えではない。あくまでインフィニティがどう思っているか、それが問題の肝である。インフィニティが間髪入れずに俺を解答に指定してきたのは、これは結構照れるアンドちょっと自分で言っちゃうのは恥ずかしい事例なのではないか。これは、結構メンタルに来ちゃうな。やっば。どんどん恥ずかしくなってきた。ゼロは、インフィニティの出題を推理しながら、部屋の暮らしを思い浮かべていた。大きくて、デカくて。って同じ意味じゃないか。邪魔なもの。俺が好きなもので邪魔なもの。「わからん。ヒントくれ」

「ヒント? んー。ちょっと待ってね」

 なんだろう。ゼロは自分の好きなものを思い浮かべたが、どれもポケットに入るような小さなものばかりで、唯一大きなものといえばそれはインフィニティ本人だった。そこまで考えたところで、北頂接近のアラームが鳴った。

「ちょっとお預け。ドリフトするからしっかりつかまってて」

「わかった」


ゼロは〈キニア〉の進路を、エーテル流に対して角度をつけて、切り返しの回数を増やしていく。リング状の胴体の内側で小刻みにエーテルボードが動く。ゼロのペダル操作が頻繁になる。左右3本ずつのレバーもまとめて掴んで、ドリフトに備える。減速はできるだけしない。加速もさせない。それがコツだ。

「インフィニティ、歌を頼む」

「歌?」

「さっきの鼻歌がちょうどいいんだ。頼むよ」

「キュー出しして」

「キュー」

 インフィニティはイントロをボイパで再現しながら、その歌を歌いだした。ゼロはその旋律を媒体に集中力を高めていく。今や船体の隅々まで神経を張り巡らしている。燃える陽炎。

「ここだ!」

 そこの転調のタイミングがズバリ、転舵のベストタイミングだった。すべてのエーテルボードを同じ角度に固め、船体を平行に流して、一瞬の急加速から、東へ流れるエーテル流から飛び出し、すぐに凪の向こうにある西へ流れるエーテルを船体で拾う。後方を先にドリフトさせて、見えないエーテル流に引っ掛けるのが難しいのだが、ゼロは器用にやってのけた。


 イメージ通りに、西側へ流れて落ちていくエーテルラインに乗った。完全に追い風になるが、完全に平行にしてしまうと揚力を失って真下に落ちる。エーテルボードを細かく調整して、姿勢を保っておかねばならないのが下りラインの難しいところである。ちょうど昼どきで、タワーの真北あたりを滑空している。太陽はちょうどタワーの向こう側に隠れた。日差しがなくて過ごしやすいが、少し寒い。インフィニティの鼻歌が次の曲になった。

「あ、ありがとうもういいよ」

「歌わせてよ」

「あ、ごめん続けて」

 少し懐かしいメロディが心地よかったが、知らない曲だった。


 船を巡航させながら、ゼロは精神のなんとかゲームの続きを考えた。大きくて、デカくて、邪魔。大きくて、デカくて、邪魔。大きいのはインフィニティ。デカいのもインフィニティ。インフィニティは邪魔ではない。邪魔かな。いや、大きいと思ってるし、デカいとも思うが、邪魔と思ったことは一度たりともない。俺が好きだとインフィニティが思っているものは一体なんだ。そしてインフィニティから、それが邪魔に見えるもの。そう考えたもの。

 いや待てよ。インフィニティは正しくゲームのルールを理解しているのだろうか? そこでエラーがある可能性は否定できない。そもそも好きだとか嫌いだとか、それを正しく認識できているのか。今は生身だが、少し前まではAIだった。AIってどこまで感情が出来上がっているのか。生身になったら、AIじゃなくなるのか、AIのまま生身になっているのなら、それはAIのころと大差ないんではないか。

「わからん!」

「え! なになに? お墓の場所?」

「違うよ。さっきのゲーム」

「……ゲーム?」

「忘れるなよ。大きくてデカくて邪魔ってなんだ?」

「あ……」

 右前方に大型の飛行体が見えてきた。翼よあれが目的地だ。タワーから北北西にあると聞いていたが、思ったよりだいぶ北よりだった。

「着いたから、あとでまたな」

 ここから墓地まで船を寄せるのがまたひと苦労なのだ。

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