レヴィンの手紙・終


「グレイスには病気のことをひた隠しにしていましたので、彼女と交際するためには不自由なことが沢山ありました。私は、彼女とは必ず夜に会うことを決めました。それは病人特有の真っ青な顔色を誤魔化すためや、歩き回って覚束ない足取りに気付かれることを防ぐためでもありましたが、単にもう日中に長時間出歩くのが難しくなっていたためでもありました。私は、日中は殆どベッドに横たわり、少量のポリッジを口に含んで、毎日をやり過ごしました。より頻回になった重い喘息発作と、もう後戻りしようもなくひどく進行した肺高血圧症が、私を急速に衰えさせていたのです。

 私の身体は死に近付きつつありました。




 喘息発作の気配のない夜、私はときどきベッドを抜け出しました。そのときだけは、ほんの少しだけ元気になるのです。限られた時間しかないのだという思いが、かえって私に活力を与えました。私は、少しでもグレイスといたかった。彼女と会って得たものが、私の身体とともにはかなく失われてしまうものだとしても。

 私は本物のノッカー・アップがそうするように、彼女の部屋の窓に豆や小石を投げては、彼女が降りてくるのを待ちました。そうでした、彼女は見た目よりずっとお転婆な女性でした。夜の闇の中で、大通りから漏れてくるガス灯のあかりにぼんやりと照らし出された彼女の顔は、朧げではありましたが、私には春の陽射しのように輝いて見えました。こんなにも長い時間が経った今でさえ、彼女の息遣いや、そのやさしくも力強い眼差しは、昨日のもののように思い出せるのです。グレイスは、例えるなら鹿のような娘でした。毛並みをしっとりと朝露に濡らした、若く健康で、賢い鹿。

 私とグレイスは、夜ごとに会っては取り留めもない話をしました。この頃には、私はゲール語を拙いながらも操れるようになっていましたので、ときには私たちは私たちにしか分からない秘密のやり取りをすることもできました。

 秘密の中の秘密。

 それは二人の距離を縮め、特別なものとしました。私にとっても──そしておそらく、グレイスにとっても。ときどきグレイスは、私のことを『私の秘密の人』と呼び、微笑みかけました。甘やかなその響きは私を心地よく酔わせ、病の苦しみをひととき忘れさせました。

 勿論、そんなことも長くは続きませんでした。グレイスは、賢い娘でした。本当は、ずっと気づいていたのでしょう。ある夜、とうとう彼女はこう呟きました。

『もう、昼間は会ってくれないのね』

 心臓が厭な跳ね方をしました。

『昼間は別の仕事があるんだ』

『別の仕事?』

 グレイスはそう繰り返しましたが、それが何かを尋ねることはしませんでした。私が押し黙っているのを見て、グレイスは僅か躊躇う素振りを見せました。その様子から、私は彼女が口を開く前に、彼女が何を言おうとしているかを知りました。

『ねえ、レヴィン。あなた、病気なんでしょう』

『僕?』

『分かるわ。暗くたって……』

 白くやわらかな手を差し伸べ、グレイスは私の頬に触れました。そして、労わりに満ちた声音で囁きました。

『悪いの?』

 その瞬間、私は、彼女に全てを打ち明けてしまいたいという烈しい衝動に襲われました。私はもう永くないのだと。何もかもを置いて、君の前からも、どこからも、いなくなってしまうのだと。私は渇望にも似た強烈な欲求を抑えこみ、彼女に向かって微笑しました。

『風邪が治らないんだ』



 彼女と別れたあと、私は私とリカードの家に戻りました。夕刻仕事へ出かけたリカードはまだ帰宅していないようで、家の中は無人でした。私はよろめきながら自分のベッドに歩み寄り、そこに突っ伏しました。喉がひゅうひゅう言い、大きく咳き込むと、喀血の赤がシーツを汚しました。私は死の恐怖に襲われていました。ロットフォードの、あのつめたい湖に沈んだあの夜と同じ恐怖でした。あの日、幼い私が持て余したまま心の小箱に押し込めてしまったその感情は、今私の中で何倍にも膨れ上がり、私を飲み込もうとしていました。

 ベッドに顔を埋めたまま、私は啜り泣きました。私はとうとう、こう言いました。

『死にたくない』

 口に出した瞬間に、私は悟りました。私は死にたくなかったのだと。私は、きっと、ずっと、死にたくなかったのでした。生きたかったのでした。そのことに気づかずにいただけなのでした。

 いつまにか、背後に気配がありました。振り向かずともわかるその馴染み深い気配は、リカードのものでした。彼は、しずかに言いました。

『君は、死にたいと言ったよ』

 淋しげな、月の光のような声でした。

『早く死にたいと、君は言った』

『死にたくない』

 私は繰り返して絞り出しました。

『死にたくないんだ……』

 彼は、私の肩をそっと掴み、振り向かせました。彼はほほえんでいました。彼はアンバーの目を伏せると、私に何かを握らせました。よく磨かれた、うつくしい銀のナイフでした。

『君の願いを叶えよう』




 私の父親は、私の眼の前で無惨に殺された。頭を割られて死んだのだ。

 母親は、首を裂かれて死んだ。返り血が扉の方まで飛び散ったのを覚えている。

 強盗が私の集落を襲ったのだ。私は無力な子どもで、ただ彼らがすることを見ていた。幼い、まだ口もきけない妹を背に庇いながら。そんな私に、男の一人が目を付けた。残忍な目をした男だった。彼は、怯える私たちをそのままにして、彼とその仲間が蹂躙しつくした私の家の暖炉に火を入れた。彼は自分のナイフを炎でゆっくりと炙りながら、私と妹とを呼び寄せた。彼は私の髪を鷲掴みにすると、背中に真っ赤に焼けたナイフを押し付けた。

『首を絞めろ』

 男は絶叫する私を抑えつけ、のしかかるようにしながら、私の耳元で囁いた。声には残酷な興奮の色があった。

『おまえの妹の首を絞めるんだ。強く』

 彼は何度も私の背にナイフを押し当て、その度に生きた皮膚と肉とが焼ける厭な音がした。

『そうしたら助けてやる』

 私は妹の首を絞めた。強く、強く。無力な、小さな妹の首を。

 私は生きたかった。生きたかったのだ。

 なあ、君、それは罪だろうか。きっと、罪だったのだろう。だから、罰が下されたのだ。

 そのとき私は呪われた。悪魔が宿った。すぐにわかった。私の身体が別物に作り変えられていくのが。妹を手にかけた私は、最早元のままの私ではなかった。なにもかもを喪ったような心地があり、なにもかもを得たような奇妙な心地があった。ただ、生きなくてはならないという意志だけが、星の光のように、私の体の中に昏い輝きを放っていた。

 男は約束を守った。

 私は強盗の一団に拾われ、奴隷のように扱われた。常に彼らを満たしている暴力的な欲求の捌け口にされ、慰み者にされることもあった。私は、ときには忠実な子分のように振る舞い、ときには娼婦のように媚びて、彼らの信頼を勝ち取った。

 そして、隙をみて酒にヒヨスを混ぜた。毒を盛るのに、酒は最適なんだ。

 全員死んだよ。醜い死に顔だった。




『その悪魔を、僕の中に棲まわせようというのか』

 私は声を震わせました。

『ずっと……そのつもりだったのか』

『そうかもしれない』とリカードがこたえた。

『私は意地の悪い男だから、このときをずっと待っていたのかもしれない。どうしようもない死にたがりの、昏い目をした君のことが好ましかったんだろう。きっと……』

 そう言って、リカードは微笑を浮かべた。

『私はもう十分だ。十分だと思うまでに、これ程の時間がかかった。誰も彼も、夜空を燃え墜ちる流星のように、水面に湧き上がる泡沫のようにはかなく、瞬きの間に私の前から消え去ってしまう。この世界は私にとってあまりに綺麗すぎ、そして息苦しい。私の棲むここは、蜉蝣の家だ。四方を鬱蒼とした森に囲まれた、檻のような、籠のような——うつくしい家。私は、自分がそこに囚われたただ一人の人間のように思われる。レヴィン……』

 彼は私の名前を呼びました。

『君だ。君が私を覚えていてくれ』

『永久に……』

『そうだ。私の望みを、君が……』

 そのとき、おぞましいほどの彼の孤独が部屋を満たしつくし、私の全身を取り巻きました。絡みつくようなその闇はぞっとするほどつめたく、夜の湖の、黒インキに似た昏い水のように、私の内部まで染み透りました。リカードはもうほほえんではいませんでした。彼は床に座り込み、懇願しました。

『殺してくれ。どうか私を殺してくれ。きっと、そのために私はいるんだろう』



 こうしてレヴィン・アンドリューズという青年は死に、私はリカードとなりました。

 そのあかしとして、私の瞳は、ヘーゼルブラウンから透き通るアンバーの瞳へと変容し、その夜以降元に戻ることはありませんでした。まるで、虹彩に彼の色が焼きついてしまったように。

 それから、私はずっと、記憶の中のリカードという男を演じて生きてきたような気がします。

 その数年後、私はグレイスと婚約しましたが、彼女はまもなく流行病に罹ってこの世を去りました。たった七年の結婚生活でした。彼女は、最期まで私の秘密を知ることはありませんでした。

 彼の語った過去や、呪いの話が本当だったのかは分かりません。分かりませんが、事実、私が今日までこうして生きていることが何よりの証明でしょう。あのときから私は、リカードの年齢より先には一切進めなくなってしまったのです。時が止まってしまったかのように。


 譲、私はきっと、彼のことが好きだったのだろうと思います。淋しい目をした、あの男のことが。彼の言葉はまさしく呪いでした。今でも彼の最期の言葉が、私の頭の中にこびりついて離れないのです。私はリカードが語ったことを聞いたけれど、実を言えばどうしても分からなかった。どうして彼が自殺もせずにこんなにも永い間生きつづけ、その挙句に私による死を選んだのか、結局ずっとわかりませんでした。今なら、少しだけ分かるような気がするのです。

 孤独がそうさせたのだと。

 生きるのは淋しいことです。しかし、それと同時に、淋しさゆえに人は生きていくことができる。生きていかなくてはならない。

 私はいつか、自らの手で、あるいは誰かの手によって死ぬでしょう。

 それが君の手であったらとも考えたのは事実です。

 しかし、そうはしません。


 勿論君はこの話を信じても、信じなくてもいい。

 この手紙は遺書代わりです。いつ死ぬかも分からない私の遺書。

 譲、淋しさを慰めてくれた君に。

 今日を限りに、私たちが会うことは二度とないでしょう。

 君の人生が、君にとって満たされたものであることを、心より祈っています。」



 了

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蜉蝣の家 識島果 @breakact

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