AIによって優れた小説が簡単に生成できる今の時代、人間が機械に勝てることがあるとすれば、【愚行と情熱】である。
この愚行と情熱は、作家にとって最も必要なものだ。
まったく誰からも読まれていないに等しい小説を、地の底の底で大勢の人が莫迦のように来る日も来る日も書いているのは、書き手の胸にAIにはないこれがあるからだ。
「卑しい小説なんか一冊も読まなくても手軽に書いた作品が常にランキングの上位です」と悪気なく自慢できる恵まれた人たちにはまったく理解できぬ愚行であろうし、「もっと賢く立ち回ればいいのに」高みから思い切り嘲り嗤われるような非効率さだ。
躓きや失敗を含んだ、ケモノ道。
まったくもって合理的な成功からは、ほど遠い。
合理的に巧くやった者たちがタワマンで豪遊しているその真下で、ごみ拾いをしているのだ。なんという惨めな虫けらだろう。
ではなぜ、そんな非効率的な惨めさが「小説を書くにあたっては必要」なのかといえば、この非スマートさが人間の泥臭い人生そのものだからだ。
流行の人気要素を散りばめておけばリワードが稼げて笑いが止まらない、そんな器用さや、プラスチックの玩具のような花まる大正解の作品は善良な方々が幾らでも生み出してくれるが、人の胸をえぐるような作品は合理的なマニュアルでは生み出されてこない。
意外かもしれないが、万人から大絶賛を受けることもあまりない。
もやもやとしたまま、胸の中に突き刺さって持ち重りするし、不快感さえ残すことがある。
何しろ、愚行と情熱によって書かれているのだ。
すっきり明快な読後感といかないのは当然だろう。
たとえすかっとした夏空のような爽やかな作品であっても、その作品に吹き抜ける風にはただの風ではない、「あの風」の重みを残す。
慟哭を抱えた泥くさい作品は、刺さる人の胸には竹串となってぐさぐさ刺さる。
どうやら天川さんは際立って刺さりやすいようで、登場人物が躓いている鈍くさい作品を人一倍、受け止める感性があるようなのだ。
負け犬びいきとも云えるこの衝動は実に人間らしい。
勝率が低いとみても、贔屓の馬に賭けてしまう衝動は人間らしい。
落ち目のボクサーの地方のドサ回りに付き合うファンは、その選手を愛し、その姿にうまくいかない自分の人生を重ねている。
小説は人間を書くものだ。
その人間を描写する書き手が、愚かしい人間であることを止めてはいけない。
辛さや哀しみを手放してはいけない。
心にぎざぎざと引っかかってこない小説など、幼児むけの道徳的な紙芝居か絵本があれば十分、その代替品になる。
たとえ超売れっ子であっても、常に底にいて、届かぬものに向かって必死で手を伸ばし、五里霧中の挫折感の中に沈むことをしなければ、その作品は磨かれはしない。
たとえ清く正しいよい子であっても、その内面にノワールがなければ、吐き出そうとする衝動がそもそも生まれない。
天国と地獄を行き来するギャンブラーのように、自分を信じ、疑い、また信じる、そんな不安定の中に書き手は身をおいている。
創作者が病んでいたり、世間ではうまく生きていけない人が圧倒的多数なのは、当たり前のことなのだ。
天川さんは、天川さんの個人的なアンテナに引っかかった作品に対して情熱をこめて読書感想文を書くのだが、その燃料は、書き手がもがきながら生み出した作品の奥に密かに燃えている黒い石だ。燃える石から吐き出される黒い煤は吸着力をもって、天川さんを惹きつける。
そんな作品には合理化はない。
近道もない。
こうすればあなたも作家になれるというノウハウもない。
日蔭で俯いてきた人たちが文字を使ってようやく辿り着く夜明けの気配は、明るい世界の明るい作品しか見えない人には黙殺されても、同じような夜をくぐってきた人にはひどく沁みる。
作品から受けた感銘を惜しみない語彙力を駆使して自由度高く語る時、天川さんの心にもノワールが燃えている。