彼はどこに行ったのか 或いはエチュード10第3番ホ長調

「みんな」

 先生が出て行ったあとのカンファレンスルームで、僕は三人に呼びかけた。退院してから三日目の朝のことだ。僕は一日遅れで皮膚科の実習に参加しはじめたところだった。

「これ、一人二ダースずつ」

 僕はコンビニ袋をどっかりと机に置いた。今朝、僕の病棟用鞄が妙に膨らんでいたのはこのためだ。袋の中身を覗き込み、進藤が目を剥いた。

「なにこれ」

「見て分かるだろ」

 僕がそっけなく言うと、進藤はぽかんとした表情を崩さず、僕に視線を移した。

「俺は、どうして佐々山が大量のヤクルトをここに置いたのかについて聞いてるんだけど」

「散々お見舞いに来てくれた」

 僕は自分用に買ってきた緑茶のペットボトルを開けながら言った。別に僕まで同じものを飲む必要はない。

「だからってわけじゃないけど。こんな安いものじゃあお返しにはあれだし」

 ヤクルトのパックをひとつ取り出しながら、青山が噴き出す一歩手前のような妙な顔をした。

「なんでヤクルトなんだよ」

「胃腸にいい」

「胃腸?」

「ジョアのほうがよかったか? でも、あれは味が色々あるからな」

 青山が声を上げて笑い出した。

「お前、ほんと、変」

 袋から出した一本を開封しようとしたところで、突然カンファレンスルームの扉が開いた。青山がぎょっとしてヤクルトをポケットに入れた。顔を出したのは一番若手の山岡先生で、机の上のコンビニ袋に目を留めると、「カンファ室は飲食禁止」と咎めた。

「言うの忘れてたけど、学生は九時半に手術室。入ってきたのが俺でよかったね」

「済みません」

 謝る間宮の横で、僕はヤクルトを一本手に取った。同期からの「何をするんだ」という視線を感じながら、僕はそれを先生に差し出した。

「あの、もしよかったら」

 山岡先生が思わずといったように破顔した。彼はヤクルトを受け取ると、「リフレッシュ・ルームで飲めよ」と言い置いて立ち去った。

 僕は肩を竦め、鞄を持ち上げた。青山が僕の肩を叩いた。青山は笑っていた。


 佐々山くん、と間宮に呼び止められ、進藤に続いて更衣室に入ろうとした僕は緩やかに立ち止まった。間宮がなにやら真面目な顔をしていた。何を言うかと思えば、単に飲み会の誘いなのだった。

「あのさ、近々お酒を持ち寄って、進藤くんの家で鍋をやろうかって話になったの」

「そうなんだ」

 そうなんだじゃないよ、と間宮が呆れ顔になった。

「今度こそ来てよ」

「なんでわざわざ君が声をかける?」

「二人が私から言えって。女子から誘われたほうが行く気になる確率が高いとかなんとか。また断られるのが怖いだけなくせに」

「僕に言っちゃまずいなそれは」

 僕は笑った。

「で、どうなの」

「眼科の補習があって、今週はちょっと立て込んでる」

 そう言ってから、僕は少し考えて付け加えた。

「来週の金曜なら」

 間宮がぱっと笑顔になった。

「よかった。じゃあ、またあとで」

 女子更衣室のほうへ歩いていく間宮の後ろ姿をなんとはなしに見つめ、僕は「間宮」と呼びかけた。間宮が振り向いた。

「ありがとう」

 ありがとうという言葉を口に出したのは、久しぶりのような気がした。目を瞠った間宮の返事を聞かずに、僕は更衣室に入った。途端に、着替えている途中の二人と目が合い、思わず苦笑してしまった。






 この日、広々としたロビーの何処にもリカードの姿はなかった。

 僕は三十分たっぷりロビーをうろうろし、更に三十分をかけてコーヒーを二杯飲んだが、彼は現れなかった。僕は逡巡してから、とうとうフロントに話しかけた。フロント係は接客用の笑顔を浮かべながらも、僕を胡乱げに見た。

「518号室に宿泊している……その……」

 ここに至ってようやく、僕はリカードのファミリー・ネームを知らなかったことに気付いた。考えてみれば、一度も名乗らなかった。彼は。

「とにかく、518号室に宿泊しているかたを呼び出したいのですが、内線電話をお借りしても構いませんか」

 僕は駄目元で言った。フロント係が台帳をチェックしはじめた。

「518号室ですか?」

「はい、確か……駄目でしたら、また、出直しますので……」

「本日518号室に宿泊されるお客様はいらっしゃいません」

 僕は後頭部をがつんと殴られたような衝撃を受けた。彼はいなくなってしまったのか。僕に何も言わずに?

「518号室? 本当に? あの……外国の人で……」

 狼狽えている僕を見て、ふとフロント係が目を瞬いた。

「お名前を頂戴してもよろしいですか」

「僕の、ですか? 佐々山譲です」

 戸惑いながら僕が返答すると、フロント係が得心したように微笑んだ。

「佐々山譲様ですね。アンドリューズ様よりお手紙をお預かりしております」

「手紙?」

「今日、チェックアウトの際に。いらっしゃるはずだと」

 フロント係が分厚い封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。封筒は質の良い白のコットンペーパーで、時代錯誤なブロンズ色の封蝋で閉じられていた。仰々しく現代から奇妙に浮いたような、けれども品のあるその封筒は、彼のイメージにしっくりきていた。僕はその手紙を受け取り、フロント係に礼を言うと、ホテルを飛び出し閉店間際の喫茶店に駆け込んだ。かつてリカードと入った喫茶店。

 ラストオーダーは七時ですと説明する店員に構わず、僕は奥の席に着席し、飲みたくもないコーヒーを注文した。コーヒーが運ばれてくるのを待たず、封筒を取り出す。薄暗い店内で、僕は目を凝らした。封筒には、受取人である僕の名前と、もう一つ見慣れない名前が記してあった。逸る気持ちを抑えて僕は封蝋をきれいに剥がしとり、ぱらぱらと便箋の束を捲ってみて、微かに目を瞠った。

「これは私のささやかな回顧録であって──」黒々としたインクの、流れるような筆記体がそう語り出した。僕は彼のしたためた言葉を聞き取ろうと、注意深く耳をそばだて、目を眇めた。


「これは私のささやかな回顧録であって、それと同時に君への手紙でもあります。随分長い手紙だ、と君は笑うかもしれない。けれど、こうして懇意にしてくれた君の前から何の説明も無く去ることを、私のほんの僅かばかりの良心が好しとしなかったのです。

 いいや、本当はそんなことは単なる理由付けかもしれません。私は単に、分かっていてほしかったのでしょう。私がここを去る前に。君に知っておいてほしいと思ったのでしょう。

 私のことを。

 あの男のことを。

 リカードのことを。」


 そんな風に手紙は始まっていた。それは明らかに、彼の独白であった。

 僕は長い時間をかけてそれを読んだ。

 読んでいるうちに、退店を促すような「別れの曲」が流れはじめた。ショパンの作曲した、生涯の内で最も美しいエチュード。

 僕は手紙の全てを読み終えると、その束を丁寧に封筒へと押し込んだ。喫茶店には、既に僕以外の客は残っていなかった。僕は急いで会計を済ませ、喫茶店を出た。

 手紙を読んでいる間に少し雨が降ったらしかった。行き交う車のヘッドライトが、湿ったアスファルトを舐めていく。水溜りにタイヤを濡らした自転車が僕の前を通り過ぎ、店の軒下に轍を作った。

 僕は茫然と立ち尽くした。

 夕暮れの街のどこにも彼のシルエットは見つからなかった。僕の頭の中で流れ続ける「別れの曲」は、力強く激情的な中間部を過ぎ、甘く感動的なクライマックスに差し掛かろうとしていた。帰途につく人たちは、道の真ん中に佇む僕を迷惑そうに避けて歩いた。

 上着のポケットの中で、僕のスマートフォンが鳴り始めた。サイレントモードに設定するのを忘れていたことを、僕は今思い出した。暫くの間、黒電話を模した着信音は「別れの歌」に呼応するように流れ続けた。長い呼び出し音が途切れたあと、暫く経って、スマートフォンは一回だけ短く震え、無機質な電子音を発した。それで、メールを受信したとわかった。僕はのろのろとポケットに手を突っ込み、画面を確認した。母からのメールだった。いつものようにそれを削除しようとして僕はふと指を止めた。特に理由はなかった。

 僕はキーパッドを呼び出し、よく知る電話番号をプッシュした。

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