レヴィンの手紙・7


「ひとりきりの朝食に、よく煮た薄いポリッジをほんの少し啜ったあとで、私はふらりと家を出ました。外の空気が吸いたくなったのです。汚れた外気はそれほど体にいいとは思えませんでしたが、なんだか人々の喧騒に身を晒したい気分でした。いい陽気でした。狭い路地にも黄味を帯びた夏の陽射しが燦燦と降り注ぎ、室内の薄暗さに慣れた私の網膜をじわじわ焼きました。

 私はこぢんまりしたコーヒー・ハウスに入ると、コーヒーを一杯頼み、給仕に言いつけて筆記用具を取り寄せました。他の客たちのように情報交換に熱心になったり、政治的議論を交わしたかったわけではありません。ただ、私は少し、ひとりになりたかったのだと思います。大勢の人がひしめき合う場所でこそ、私たちは本当にひとりになれる。君も、そう感じたことがないわけではないでしょう。私は漂ってくる煙草の煙に時折咳込みながら、書き物をはじめました。何を書こうとしていたかについては、重要なことではないだろうと思います。ここまでくれば、もう、考えるまでもないかもしれません。私は死と、それが遺すものがなにかということに、ずっと取り憑かれていたのですから。遺書です。あのとき、ロットフォードでとうとう書くことができなかった遺書の続き。死というものがなまなましい現実感を伴ってきた今なら、書ける気がしました。

 先の潰れかけたペン先をインク壺に浸していると、不意に、私に話しかけるものがありました。

 目を上げて、ぎょっとしました。それなりに身なりのいい若い女性でした。少女というには大人びて、婦人というには年若い。どうしてぎょっとしたかといえば、君、当時コーヒー・ハウスは女人禁制でしたので。今となってはそういった区切りはなくなりましたけれど、あの頃コーヒーは男の飲み物で、コーヒー・ハウスは男の場所だったのです。

 ぎょっとした理由にはもう一つあって、私は彼女の発した言葉が一切理解できなかったのです。彼女が口にしたのは、聞き慣れた英語ではありませんでした。

 すぐに給仕がやってきて、『困りますよ』と私を睨みました。

『女性を連れ込んでいただいては』

『僕の連れじゃない』

『さあ、お代を』

 私はろくに使っていない紙とペンとインクに5シリングずつ払い、彼女とともに店を出ました。私は溜息を吐きました。

『君の名前は』

 それから、『僕はレヴィン・アンドリューズ』と付け加えました。仮にもご婦人に名前を伺うのに、自分が名乗らないのはいくらなんでも失礼だと気付いたので。

『グレイス・オールストン』

 彼女は一言、微笑んでそう答えました。

 グレイス・オールストン!

 その声の響きのやわらかなこと。私は彼女を真正面から見て、はじめて、その容貌が非常に魅力的であることに気づきました。彼女の豊かな栗毛はきれいに編んであり、後ろでふんわりと纏められていました。優しげなはしばみ色の瞳に、かすかにそばかすの浮いた色白の顔。薔薇色の頬のグレイス・オールストン……。

『さっきのは……』

『さっきの?』

 彼女は首を傾げて少し考える素振りをし、私に分からない言葉でまたなにか言いました。私は困惑しました。彼女の喋った言語がゲール語であることは理解できましたが、それ以上のことは分かりませんでした。この時代、ゲール語は公的な場所での使用の禁止を受け、スコットランドでもすっかり衰退していたのです。実際のところ、彼女が私の生涯で初めて出会ったゲール語の話者でした。

『僕、ゲール語はあまり……』

『綺麗な発音だわ。どこから来たの』

 彼女はゲール語をすぐにやめ、スコットランド訛りの英語で喋りはじめました。私は面食らいながら答えました。

『ロンドンから……いいや、ロットフォードから』

『ロットフォード』と彼女は繰り返しました。

『素敵ね』

 どうして僕に声を、と尋ねようとして、僕は口を閉ざしました。単に同じ年頃の人間が他にいなかったからだろう、と思い至ったからです。そこで、僕は代わりに『どうしてコーヒー・ハウスに?』と尋ねました。

『一度入ってみたかったのよ。男の人が独り占めしてるんだもの。お父さまもいつもコーヒー・ハウスに』

『独り占め?』

『コーヒーも、政治の話題も。そうでしょう』

『君は、普段からゲール語を使うの?』

 グレイスはかぶりを振りました。

『家の人は嫌がるわ。お父さまも……だけど、分かる人には出来るかぎり。私、ゲール語が好きなの』

 そして、こう付け加えました。

『言葉は、使われなければ死んでしまうもの』

 その言葉が、なんだか妙に体に染み入るような心地がして、耳に残りました。

『教えてくれない?』

 気づいたときには、そう頼んでいました。

『僕に、ゲール語を』

 彼女は驚いた顔をして、すぐにふわりと笑いました。

『ティー・ハウスで』

 君、私は恋をしたのです。






 もう馴染み深い喘息の発作に襲われ、私は歩みを止めました。煤で全身を黒くした煙突掃除の小僧とちょうどすれ違うところで、彼はじろじろと不躾に私を見つめました。発作は幸い一分も経たないうちにおさまりましたので、私はコートのポケットに手を突っ込んで、また歩き出しました。クローゼットから出したばかりの薄手のコートです。ここ数日、頬を撫ぜる微風が急速に冷たくなってきたのを感じていました。おそらくは、秋が近づいたばかりでなく……。

 私は探していた人影を見つけると、思わず顔を綻ばせました。

 グレイス! 彼女が私の姿を捉えるや否や、私は戯けてフランス宮廷風のお辞儀をしてみせました。彼女が微笑み、私は彼女のほうへと歩み寄りました。彼女が笑うと、何故だか妙に誇らしい気持ちになりました。君が恋をしたことがあるかは分かりませんが……そういうものなのです。一種の病気のような……平常ではいられなくなるのです。彼女の仕草のひとつひとつが、私の心をかき乱しては、喜ばせたりひどく落ち込ませたりしました。つまり、私は喘息と心臓の病気に加えて、もうひとつ厄介な病気を抱え込んでしまったとも言えます。

  グレイスと私の奇妙な関係は、もう二月ばかり続いていました。

 クランペット——イースト発酵のミニホットケーキ——をつつきながら、私は彼女に微笑みかけました。

『君のお父さんは、君がこうしていることをよく思わないだろうね』

 グレイスがよいところの娘であることは、もう大体察しが付いていましたので。喋り方、身なり、こうしてティー・ハウスに頻繁に現れること。

『そうね』と彼女は一旦認めました。

『だけど、実際、お父さまは私のことにそれほど興味がないの。お母さまも。私、三人きょうだいの末っ子だから』

 期待されてないわ、とグレイス。

『姉さんはもう結婚してしまったし、兄さんは、近頃ずっとお父さまと話してばかり』

 女には分からない話なのだって。グレイスはテーブルに両肘をつき、身を乗り出しました。

『ねえ……あなたは今もコーヒー・ハウスに行っている?』

『最近は、あまり』

 この二月ほどは、遺書を書こうという気が起きていないということに、私は気がつきました。私は小さく咳込みながら言いました。

『紅茶のほうが、咳と憂鬱にいい』

『そういえば、よく咳をしているわね』

 不意に、グレイスの瞳が案ずるような翳りを帯びました。

『具合が悪いの?』

『少し、風邪を引いてしまったみたいで』

 私は失言に気付き、誤魔化すように言いました。

『すぐに良くなるよ』

 私は彼女に病気のことを隠していたのです。私の喘息と、心臓の病気。咳の発作もひどいものでしたが……実のところ心臓のほうはもっと深刻でした。この頃には、私の生まれつきの心奇形はアイゼンメンジャー症候群を引き起こすまでになっていたのです。この病態にその名前がついたのが、ちょうどその頃でした。十九世紀末。勿論当時は知りもしませんでしたが……あれはおそろしいものです。医療が目覚ましい進歩を遂げた今でさえ、手術に耐えられない病気なのだから、当時は尚のことでした。彼女の前で失神したり、座り込んでしまったりすることは幸運にも未だなかったものの——段々と、隠すのが難しくなってきていると、私は知っていました。

『こうして昼間会っているけれど……あなたは何の仕事をしてるの。こういう話をしたことがなかったのは、不思議ね』

 私は咄嗟に、『ノッカー・アップ』と答えました。仕事をしていないというのは不自然だと思ったからです。

『ノッカー・アップ?』

 グレイスが面白そうに聞き返しました。

『年配の人がやる仕事だと思ってたわ』

『若者もやるのさ。最近はね』

『じゃあ、私も一度頼んでいいかしら』

『いつの、何時に?』

『明後日の、十一時に』

『ほとんど昼間じゃないか。目覚ましなんて必要ないだろう?』

『違うわよ、夜の十一時』

 私は彼女をはっとして見つめました。彼女も私の瞳をじいと覗き込んでいました。やさしいはしばみ色の瞳。

『駄目?』と彼女はゲール語で聞きました。悪戯っぽく笑いながら。







『死ぬのはいい』

 葛粉をといた葡萄酒を啜りながら、私は弱々しく言いました。白鑞ピューターのカップに入ったそれは、リカードが私のために温めてくれたものでした。

『僕が死んで、誰からも忘れられて、僕という存在が消えて無くなってしまうことはおそろしい』

 ひどく喀血して、倒れこんでしまった晩のことでした。私はベッドの上で身を起こし、リカードは洋灯オイルランプの小さな灯りで本を読んでいました。私がリカードを殺そうとしてからも、彼は何ひとつ変わりませんでした。彼はその件について、どうでもいいと思っているふうにさえ思われました。もっとも、私のほうもその話題を一度も蒸し返したことはありませんでしたので、言えたことではないかもしれません。

『ねえ、リカード……』

 リカードはページをめくる手を止め、私のほうを見ました。琥珀の虹彩に、ランプの炎がちろちろと踊っていました。それが、奇妙なほどに私を安堵させました。唐突に、彼を殺さなくてよかったと思いました。

『僕が死んでしまっても、リカードは僕のことを覚えていてくれる?』

 リカードは少しの間黙り、右手の人差し指で左手の甲を軽く叩きました。そして、首肯しました。

『ああ』

『絶対に?』

『ああ』

『絶対だよ』

『永遠に』

 仰々しい言葉の響きとは裏腹に、リカードはあっさりとそう請け負いました。私が俯いていると、リカードはつと立ち上がり、キャビネットの上に載せていた懐中時計を掴みとりました。彼がいつも肌身離さず持っている懐中時計。そして、それを私に差し出しました。繊細な鎖がちゃりりと鳴って、私を困惑させました。リカードが静かに言いました。

『君にこれをあげる。約束のあかしとして』

 私は黙ってそれを受け取りました。礼も言いませんでした。」

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