レヴィンの手紙・1
「私は、その歳にしては随分と厭世的な子どもでした。それは勿論病のせいでもあったのでしょうが、それ以上に私の生まれ持った心の性質といったものが、深く関わっていたように感ぜられます。私は生きたくなかったのです。つまり、早く死にたかったのです。
私は裕福な家庭に生まれましたが、重い喘息と胸の病気とを患っていました。それで、口煩い
『幽霊の叫び声が聞こえるだろう』
雷の轟く夜には彼はきまってそう言い、私を脅かしました。
『あれはおまえを連れ去ろうとしてるのさ。それで、おまえに成り代わろうとしてる。おまえは痩せっぽちで弱っちいから、すぐに幽霊の爪で引き裂かれて、ばらばらにされちまうだろうね』
こんな風に、ナイジェルはわざと恐ろしい言葉で私を怯えさせるのがなによりの楽しみだったのです。そんなわけで、私はこのうつくしいロットフォードの思い出を愛すべき記憶として残しておくことがとうとうできませんでした。
私の——正しくは私の両親の——別荘は、湖に背を向けるようなかたちでひっそりと佇んでいました。壁は伝統的な平たい
とはいえ、ロットフォードの湖を眺めるということは言うほどに詰まらないものではありません。君にはぴんと来ないかもしれませんね。一年を通して霧がかかる湖水地方ですが、そのうっすらとしたもやの中に優雅に水面を滑るハイイロガンの群れが霞んでみえるさまは、私の心を慰めました。コクマルガラスが飛んできて私の覗く窓枠にとまり、ガラスをコツコツと叩いてみせることもありました。ときには私は部屋を出て、シダの生い茂った湖の畔に立ちました。夏でも痺れるほどにつめたく、澄みきった水面を用心しながら覗き込むと、一匹のホッキョクイワナがすいすいと背鰭を動かしていくのが見えるのでした。
春には湖の対岸にある木立の向こうに、すばらしい青紫の絨毯のようなブルーベルが群生しているのが見えましたし、私はそこに華奢な薄羽を生やした妖精が舞い遊ぶ姿を想像しました。その頃、私は妖精というものがまだ何処かに存在するとこっそり信じていたのです。ばあややナイジェルの目を盗んで木立の中に入ってゆくと、低木の入り混じった茂みには赤い宝石のような木いちごや酸っぱい丸スグリが身を結んでいましたし、初夏になれば石塀の此方側に植わったツルアジサイやジギタリスが私の目を楽しませました。
初めに『ロットフォードの自然に愛着を持つことができなかった』と書きましたが、こうして思い出しながら書き出してみると、私は存外ロットフォードの湖が好きだったのかもしれません。ただ、そのほかのこと——例えば、木いちごで口をいっぱいにしながら帰ったところをばあやに見つかってこっぴどく叱られたことや、そのあと三日間屋敷の外に出ることを禁じられたこと、漸くもう一度そこを訪れることができたときにはその秘密の場所をナイジェルに踏み荒らされていたことなど——があまりに私の繊細な心を痛めつけていたので、楽しかった記憶も真っ黒に塗り潰されてしまったのでしょう。
ある夜のことでした。
咳の発作のせいでなかなか寝付けなかった私は、喘ぎながら身を起こしました。そうすると、少しだけ調子がよくなることを経験的に知っていたからです。私はひゅうひゅうと息をして、発作がおさまるのを待ちました。ひどい気分でしたが、その間ばあやもナイジェルも部屋に駆けつけることはありませんでした。もう遅い時間でしたから、二人ともぐっすり眠っていたのでしょうね。私は震えながら枕元のランプを灯しました。部屋がほんのり明るくなって、気分が慰められたような気がしました。それから、涙で滲んだ目をなんとはなしに窓の外に向けました。いつも通りの湖を眺めて、もっと気持ちを落ち着けたかったのです。
湖畔に佇む一つの影に気づいたのは、まさにそのときでした。私はぎょっとして、苦しいのも忘れ窓へとにじり寄りました。影は、確かに人間のように見えました。
灯りがガラスに反射することにすぐ気づいたので、私はぎしぎしと音を立てて窓を少しだけ開けました。幽霊かとも思いましたが、恐怖を堪えて闇の中にじっと目を凝らすと、人影は丈の長い外套を羽織った男のようです。男は屋敷に背を向け、湖を見つめたままぽつりと立ち尽くしているようでしたが、ふと振り向くと此方に気づきました。暗闇の中で、ランプの光が目を惹いたのでしょう。
男は体ごと此方に向き直りました。それでも顔はよく見えませんでしたが、男が私に向かって手招きをしたのは分かりました。
途端に、私の心臓が早鐘のように打ち始めました。例の胸の発作かとも思いましたがどうやらそれとは違い、心臓が脈打つ度に私の全身をぞくぞくとした昂奮が駆け巡るのです。それは、まったく初めての体験でした。私は生唾を飲み込むと、自分一人がぎりぎり通れるくらいまで窓を開き、はだしの足を窓枠にかけました。そのとき足の裏に食い込んだ硬い木の感触を、長い年月が経った今でも生々しく覚えています。躊躇いや恐怖はありませんでした。そのときの私は後から思い返しても驚くほどに気が大きくなっていて、すぐそばにばあややナイジェルの気配がないか確認することさえしなかったのです。
私は勢いをつけて窓枠を乗り越え、寝巻きのまま部屋を抜け出しました。発作の息苦しさはもう余韻さえ残っていませんでした。外気は湿ってひえびえとしていましたが、けっして不快ではなく、冒険への心地よい昂りが全身に満ちていました。私がシダを踏み分けて駆けてゆく間、男はそこから動かずに待っていました。近づいてみてみると、男はやはり幽霊ではなく、ごく普通の人間のようでした。私は男の前で立ち止まると、両膝に手をついてぜいぜいと荒い息をしました。なにしろ、このように走るのは本当に久々のことで、肺と心臓とが張り裂けそうだったのです。男は私を見下ろすと、ただ一言、『一緒に乗らないかい』と言いました。そして、湖の方を指差しました。そこには古びた一艘のボートがあり、杭に繋がれて、岸辺から一フィートあるかないかの浅瀬に静かに浮いていました。私は思わず頬を紅潮させました。その存在にはずっと気付いていたものの、自分がそれに乗ってみることが出来るだなんて考えたこともありませんでした。私は黙って頷きました。
今にして思えば、どこの誰ともしれない怪しい大人とたった二人で夜の湖に出るなんて、正気の沙汰ではありません。しかし、まるで夢の中にいるような気持ちで、幼い私はそれを受け入れていたのです。そういうわけで、私は男の手を取ってボートに乗り込んだのでした。」
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