レヴィンの手紙・2
「ボートは、黒く光沢を放つ水面を滑るように進んでいきます。男の漕ぎ方といったらまったく静かで、ほとんど波音が立たないのでした。男と私はボートの中で向かい合ったまま、暫く沈黙を保ちました。
こうして真正面から観察してみると、男は非常に端正で涼やかな顔をしているのでした。きめの細かい肌は透き通るようで、白磁を思わせるなめらかさ。鼻梁は高く顔の中心をすんなりと通り、形のよい眉は緩やかな曲線を描いていました。やや癖のある黒髪は額にさらさらとかかり、私はできるならばその髪に触ってみたいと思いました——夜というものに手触りがあるとしたら、きっとこんなだろうと思ったのです。そして何よりもうつくしく私の目を惹いたのは、彼のアンバーの瞳でした。その黄金色にも見える瞳は瞬きの度に月明かりを反射しては、そのあえかな煌めきを闇の中に散らすのです。
幼い少年であった私の目にも、暗がりに浮かび上がる彼の顔立ちはまだ若々しく見えました。ナイジェルよりも上で、父親よりはずっと下。当時私はそのくらいの歳ごろの大人と喋ったことがなかったので、時間が経つにつれて次第に気分が縮こまっていくのを感じました。それまでは昂奮状態で気にもならなかったのですが、私は生来引っ込み思案な子どもだったので。
男はそのきれいな瞳で私をじっと見つめると、湖面に差し入れていた二本のオールを持ち上げました。何をするのかと思えば、彼はそれを私に手渡そうとするのです。
『漕いでみたらいい』
やってみたいと思っていたことは確かなので、私は恐る恐るオールを受け取り、彼がやっていたように湖の中にそれを差し込みました。腕に力を籠めると、ボートはゆっくりと反対方向に動き出した——と思うや否や、ぐらりと大きく傾いて波音を立てました。私は焦って水を掻こうとしましたが、オールは水面にぺたんと浮き上がってしまいます。またボートが酷く揺れ、私は悲鳴を上げました。目を丸くした男が、慌てて私からオールを取り上げ、舟を安定させました。あっという間のことでした。途方に暮れたような情けない顔の私を見て、男は声を上げて笑いました。くつくつと心地よい笑い声が、そっと水面を撫ぜ、円弧を描いてやわらかく広がっていくのが分かりました。
『ちゃんと漕げるようになるまでには時間が掛かりそうだ』
そう呟くと男はまた、黙ってゆっくりと漕ぎ出しました。
湖の中程にまで辿り着いたところで、男はふと手を止めました。それから暫くの間、ボートは音もなく揺蕩っていました。男は静寂を楽しむように、ひたりひたりと微かにボートを揺らす波紋を見つめていました。
鏡面のように凪いだ湖には星空が映り込み、私たちはまるで静謐な銀河を漂う一艘の舟の、二人きりの乗組員のようでした。私は、この空と湖との間に、ただ彼と私だけがぽつりと取り残されてしまったように感じました。
その頃には私は少し緊張が解けて、舌が動くようになっていたので、そっと口を開きました。
『あなたは、誰?』
囁くような小さな声で。誰かに聞かれることを恐れるように。
『どうしてこんな夜更けに、屋敷の裏に立っていたの。この近くに住んでいるの。それとも、旅行者?』
男は微笑んで、『質問はひとつきりだ』と言いました。そうして微笑むと、男のアンバーの瞳はやわらかく細まり、三日月のようになるのでした。そうして、私の名前はリカードだ、と答えました。
『私が君の質問に答えたのだから、君も名乗るべきだよ。私たちは常に公平でなくては』
リカードは不思議な言い回しをしましたが、その口振りには妙な説得力がありました。
『レヴィン。レヴィン・アンドリューズ』
レヴィン、とリカードは響きを楽しむように繰り返した。
『レヴィン、私たちは友だちになろう』
『友だちなんて、できたことない』
『そう』
気を悪くしたようすもなく、リカードは頷きました。
『知っている』
『どうして?』
『私はなんでも知っているんだ』
『そんなはずないよ。だって僕の名前を聞いたじゃないか』
それを聞いたリカードは、また笑い声を上げました。そして、腕に力を入れてオールを動かし、岸の方へと漕ぎ始めました。私は少し残念な気持ちになりました——まだまだボートに乗っていたかったのです。男は岸に上がり、私のこともボートから降ろすと、『また会おう、レヴィン』と言いました。私は躊躇いながら頷きました。リカードが背を向けたので、私は素直に元の通りシダの茂みを踏みしめて戻り、窓をよじ登って部屋の中に入りました。窓を閉める前にもう一度暗闇の向こうに目を凝らしてみましたが、リカードの影はもう見えませんでした。彼も家に帰ったのかもしれない、と私は納得しました。私は足の裏がすっかり汚れてしまっていることに気がついて、新しいタオルを一枚引っ張り出してよく拭いました。汚れたタオルは、悩んだ末丸めてヘッドボードと壁との間に押し込んで隠しました。それから漸く私はベッドに入り、夢も見ずに朝まで眠りこみました。」
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