彼と僕の孤独
「気胸体型だよね」
ディスプレイから此方に視線を寄越し、内科医が言った。それでも電子カルテに打ち込む手は止まっていない。
「背高くて瘦せ型でさ。羨ましいよ。ほら、見てここ」
内科医が、画面上に映し出されたX線画像の一部を指し示した。
「肺がこんな縮んでる。今息苦しくない?」
「ドレナージですか」
「手術してもいいけどね。再発したら考えればいいんじゃないかな」
けっこう再発するからね、と内科医が呟く。
「入院期間は」
「大体一週間くらいかな。ポリクリで回ったとき見なかった?」
「自然気胸の患者さんはいらっしゃらなかったので」
僕はカレンダーに目を遣った。来週回る予定の眼科は補習になるな、とぼんやり思った。
大体こんな風にして僕は入院することになった。先日の電話のこともあってか、この短い入院の間じゅう、母親から連絡が来ることはなかった。七日もの間あの母親から電話が掛かってこないというのはちょっと異常事態だったが、正直なところ僕にとってはちょうどよかった。
ろくろく友だちのいない僕だったが、班の三人は病室にときどき顔を出した。それぞれついている先生が違うせいか、彼らがまとまってやってくることはなかったが、それでも時間を作って律儀に様子を見に来る。そして、彼らは何度断っても、必ずささやかな見舞い品を携えてくるのだった。コンビニで売っているプリンやペットボトルのジュース、カットされた果物など。
「ありがたいけど、こんなには要らないよ」
僕は無表情のまま言った。というのも、どんな顔をしていいか分からなかったからだ。
「昨日進藤がヤクルトを一ダース置いていったところなんだ。あいつ、僕がそんなに胃腸を気にしていると思っているのかな」
青山が噴き出しかけて、すぐに暗い顔になった。
「なあ」と青山が小さな声で言った。「怒ってる?」
「何が」
治療経過には問題がない筈なのに、胸の息苦しさはまだじんわりと続いていた。僕はテーブルの上に置いてある「こころ」に視線を移した。家からこれだけは持ってきたのだ。青山が緊張した声音で言った。
「俺のせいだよな。こうなったの」
僕は青山を見た。青山は自信なさげな顔をしていた。僕はなんだか腹が立って、そっけなく言った。
「君のせいなわけないだろ」
「呼吸器のテキストに、ストレスでも発症するって」
「見ろ、僕は気胸体型なんだ」
僕が言い放つと、青山が呆気に取られたような顔をした。僕がにこりともしていないのを見て、青山は今度こそ破顔した。
「確かに」
そのとき、カーテンがしゃらりと開いて間宮が顔を出した。
「あ、青山くん来てたんだ」
手にヤクルトとヨーグルトの入ったコンビニ袋をぶら下げていた。僕は肩を竦め、青山は笑いを堪えた奇妙な表情になった。
「退院する頃には鋼鉄の胃腸になるな」
「どうだか」
午後一番の手術があるらしい青山は間宮と入れ替わりに出ていき、僕は彼を無言で見送った。間宮は青山の持ってきたカルピスの隣にコンビニ袋を置き、ベッド横の椅子に掛けた。
「調子は?」
「普通だよ」
「食欲は? 昨日はよく眠れた?」
「それ、今日のカルテにでも書くのか?」
間宮が少し笑い、僕の「こころ」をなんとはなしにぱらぱらとめくった。そしてぽつりと呟いた。
「私のせいかな。私がきついこと言ったからさ」
「さっき青山が同じことを言っていった」
間宮が溜息を吐き、背凭れに寄りかかった。錆び付いたパイプ椅子がギシリと鳴った。
「私たち、佐々山くんのこと、嫌いじゃないよ」
「知ってる」
「佐々山くんは、私たちのこと、嫌いなのかな」
「嫌いじゃないよ」
間宮が僕を見た。
「嫌いじゃないけど、好きでもない?」
僕は答えなかった。間宮は自分の買ってきたヤクルトを一本取り出し、蓋を開けて飲んだ。そして、新しいもう一本を白衣の右ポケットに入れると、カーテンを開けて出て行った。僕はその後で、ヨーグルトを時間を掛けて食べた。
結局、入院している間、僕は班の誰にもありがとうと言うことができなかった。
僕の気胸が無事に治ってから、真っ先に向かったのはリカードのところだった。リカードが姿を消していやしないかと心配だったのだ。なにしろ、僕にとって彼は未だに幻のようにふわふわとして、捕らえどころのない存在だったからだ。
果たして、彼は一週間前同様、ホテルに滞在していた。彼が一体何ヶ月ここに滞在するつもりなのか、既にどれだけ滞在しているのか、それだけ長期間の宿泊費をどうやって賄っているのかは僕には分からない。
リカードの提案で、僕とリカードとは連れ立って近くのバーで一杯引っ掛けることにした。向かった先は雰囲気のある昔ながらのオーセンティックバーで、バーに行きつけない僕などは入るのに少しばかり躊躇した。リカードは当然のようにカウンター席に座り、僕を隣へと促した。彼が慣れたようにカウンター席に座る様子は、勿論非常にさまになっていた。
僕が何を飲むべきか考えていると、リカードはバーテンダーに声をかけ、芝居掛かった口調で眉ひとつ動かさず言った。
「ウォッカマティーニを。ステアせずにシェイクで」
僕は思わず笑い、バーテンダーもくすくす笑った。
「ウォッカマティーニ?」
バーテンダーが聞き返すと、リカードは眉を持ち上げ、
「いや……普通のマティーニにしてください。ゴードンで」
バーテンダーが手際よく酒を用意しはじめてから、僕はリカードに話しかけた。
「ジェームズ・ボンドですか」
「観たことが?」
「観たことはないですけど、有名なフレーズなので」
「それはよくない。明日の晩にでもボンド・ナイトを開催しなくては」
「007シリーズが好きなんですか?」
僕は至極意外な心持ちで言った。彼のような男が派手なアクション・ムービーを喜んで観ているところは全く想像できなかった。
「いいや」とリカードは言った。
「ただ、映画は人生を豊かにする」
リカードのマティーニが出来上がったので、僕はマッカランの12年を水割りにしてもらうことにした。バーテンダーはまだにやにやしていた。リカードのような外国人が、有名なボンドの台詞を、それも日本語で言ったのが面白かったのに違いない。
丁度会おうと思っていたタイミングで入院してしまったので、リカードと会うのは久し振りのはずだったが、リカードは特にそれに関して言及しなかった。
「ここ最近、僕、来なかったでしょう」
僕は自分から言った。
「実は、入院していたんです」
「それは大変でしたね」
リカードはグラスの縁をなぞりながら、当たり障りのない相槌を打った。期待したほど心配の素振りを見せない彼に若干の失望を覚えながらも、僕は続けた。
「ちょっと胸を……」
「胸の病気?」
リカードが不意に目を上げた。何が彼の注意を惹いたのか分からなかった。僕は戸惑いながらウイスキーを舐めた。
「肺です、気胸をやってしまって。大したことはなかったんですけど」
「そう」
リカードは再び視線をグラスに落とし、マティーニの一口目を飲んだ。グラスの中のオリーブがゆらゆらと揺れた。グラスを置いてから、リカードは付け足すように繰り返した。
「それは大変でした」
こうして会話が途切れたときに、手の甲を人差し指で叩くのは、リカードの癖だった。暫く店内のBGMに合わせて拍を取ったあと、リカードはポケットからあの年代物の懐中時計を取り出し、時間を確認した。それから、出し抜けに口を開いた。
「テンプテーションズの……」
リカードは首を傾げた。
「マイ・ガール?」
僕は自信なさげに答えた。彼がこの店に小さな音で流れているBGMのことを言っているのだということは分かった。リカードはよくこういった飛躍をする。彼は黙っているときでも、色々なことを考えている。僕の答えを聞いてリカードは破顔した。
「いい曲だ」
「映画が公開されたとき僕はまだ生まれていませんでしたから」
僕はマッカランをもう一口喉に流し込んだ。この前ホテルの部屋で飲んだジョニー・ウォーカーよりも口に合った。
「1991年でしょう」
「主人公の父親が葬儀屋なんです」
とリカードが呟いた。
「そこがいい」
此方を見たリカードの琥珀色の虹彩が、薄暗いカウンターで滑らかな光沢を放ち、僕を引き込んだ。「マイ・ガール」がぷつりと途切れた。実際にはBGMは途切れてはおらず、デヴィット・ラフィンの歌声は流れ続けているのかもしれなかった。ただ、少なくとも、僕にはそう感ぜられた。僕は呟いた。
「僕は一人でありたい」
「それは矛盾だ」
リカードは瞼を閉じて言った。
「だって、きみはこうして私のところに来ているじゃあないですか」
「リカード、僕は貴方を尊敬している」
僕は彼の言葉を無視して言った。
「貴方のように、孤高でありたいんだ」
「尊敬?」
力無く首を振り、リカードがいつものように微笑んだ。それは、どこか自嘲的な笑みにも見えた。それから、「私は偽物ですから」と彼は呟いた。
「偽物?」
「それに、孤高など」
リカードが冷ややかに言った。断罪するように。
「君は私に理想を押し付けて、逃げている自分を正当化したいだけなのでは?」
かっと頰が熱くなった。酔いとは別に顔に血が上り、赤くなったのが僕にも分かった。僕は怒りと羞恥にまかせ、反駁しようとした。
「僕は——」
「Kを殺したのは孤独だったのではないかと思うんです」
リカードが遮った。僕は思わず黙った。僕は口を開けたまま、リカードの言葉が僕の喉を滑り落ち、残らず胃の中におさまるのを待った。「こころ」の話を、ここに至ってどうして彼が蒸し返したのかについて、僕は考えた。宙ぶらりんの気持ちを持て余した僕は、困惑したまま彼を見た。リカードは疲れたような顔をしていた。
「だって、彼、先生の顔を見てから死んでいるじゃあありませんか」とリカードはぼそりと言った。いつもと異なるニュアンスを孕んだその口調に、彼が彼でないような気がして、僕はひどい動悸を覚えた。リカードはぽつぽつと続けた。
「ねえ、きみ。私の解釈を話しましょう」
僕は黙って頷いた。
「道を踏み外したKは、K自身の言う通り、もっと早く死ななくてはならなかった。もっと前に、恋なんてものをした時点で。それでも彼は生きていた。恋は彼を殺すに至らなかった。先生との繋がりが、Kをこの世に留めた。その糸を、先生が断ち切った」
だから、それでKは淋しくてたまらなくなって、死んだのだと。リカードはそう言う。
「人を殺すのはいつだって孤独ですよ。君、私にはそんな風に思えてならないのです」
リカードは微笑んだ。いつものどの微笑とも違う、どこか人間臭さのある笑みだった。
「
「僕は……」
「君はいい人だ。孤独であってはいけない」
リカードはそう言って、グラスの底に残ったオリーブの実を口に入れた。
彼は孤独なのだろうか、と僕は思った。
孤独なのだろうか。僕も、母も。
そして、父を殺したのも孤独だったのだろうか。
そう思ったら、なんだか急に力が抜けた。後頭部にしがみついていた酷く重たい虫が剥がれ落ちたように。
その後は会話も弾まず、お互いにもう一杯ずつ飲んで店を出た。これがリカードと話をする最後の夜になるとは、僕は思っていなかった。彼はいつだって唐突だ。だから、彼が姿を消すのも、また唐突だった。
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