僕の奇妙な息苦しさについて


 その日は耳鼻咽喉科の手術——舌亜全摘だった——が長引き、僕は重い身体を引きずって帰途についた。耳鼻科領域の手術はどうにも苦手だ。こんなことを言うのは奇妙なことだが、「人間を手術している」という感じがする。残像がいつまでも目蓋の裏にちらついて、疲れていても眠りが浅くなる。帰りに医局に寄ると弁当が貰えたので、これから自炊をしなくてもいいのが救いだ。僕は弁当の紙袋を左手に持ち替え、ダッフルコートの右ポケットを探り、自室の鍵を取り出した。未だ暗証番号式玄関錠に切り替わっていないのは、この辺りの学生向け集合住宅ではここだけだ。鍵を差し込もうとした瞬間、左ポケットが震えた。僕はスマートフォンの画面を確認せず、そのまま鍵を回して扉を開けた。

 それほど機密性の高くない室内は、それでも外に比べればほのあたたかい。僕は靴を脱いで弁当の紙袋を床に置くと、コートを着たまま風呂場へ向かった。「給湯」スイッチを入れ、浴槽に栓をし、勢いよく蛇口を捻る。この時期は、面倒でも風呂を沸かしたほうがいい。次の日の疲れ方が全然違う、と僕は思うのだが、同じ班の青山やなんかは家ではシャワーしか使わないと決めているらしい。

 僕がコートを脱ぎ、紙袋から出した弁当と緑茶のペットボトルをテーブルの上に置いてテレビの電源を点けるまでの間に、僕のスマートフォンは三回震えた。

 四回目の着信は、ちょうど僕が弁当の蓋を開けた瞬間だったが、そこで初めて僕は電話をとった。割り箸は右手に持ったままだった。

「ねえ、どうして電話に出ないのよ」

 第一声はきつい非難の声である。

「母さん、そんなに頻繁に掛けてきたって出られるわけないだろ」

 右手と口を使って割り箸を割りながら、僕は淡々と応えた。

「実習中なんだからさ」

「メールくらい返せるでしょ」

 僕は箸を魚の煮付けに突き刺した。何の魚かは分からない。更に言えば、その横に上品に収まっている薄緑をした練り物が何なのかも、僕には分からない。製薬会社の医薬情報担当者MRが持ってくる弁当はいつも高級で、いいものを食べつけない僕ら学生には馴染みのないおかずが沢山入っている。

「それで、用件はなんなんだよ」

 テレビの画面の中では、安っぽい銀色のスーツを着た司会が得意げな顔をしていた。

「用件。あるんだろ」

「あなた、いつ帰ってくるのよ」

「いつって」

「年末は帰ってくるんでしょ」

 僕は煮付けを咀嚼した。美味しいのかもしれないが、やはり僕にはよく分からない。

「帰らない」

「何言ってるの」

 電話の向こうの母親の声が鋭さを増した。

「新幹線のチケットも取ってない。今年は帰るつもりないよ」

「帰らないって、あなた、病院見学とかもしなくちゃいけないんじゃないの。こっちの病院、そろそろ見ておかないといけないんじゃないの」

「どうして」

「どうして? ねえ、譲……」

「俺が卒後どこへ行こうと、関係ないだろ」

「なんでそういうこと言うの」

 僕はテレビの音量を上げた。コメディアンが下品な冗談を飛ばし、ワンピースの女がけたたましく笑った。僕は突然胸に違和感を覚えた。痛みに似た違和感。僕は顔を顰め、弁当の中の唐揚げに取り掛かった。

「どうして? なんでそんなに思いやりがないのよ。そういうところ、父さんにそっくりだったわ。譲、どうしてそうなの。母さんのこと、一生一人にするつもりなの」

「話が終わったなら切るよ」

「譲、話を聞いて……」

「いい加減にしてくれよ」

 瞬間的に怒りが沸騰し、僕は机に箸を叩きつけた。

「あんたはちょっと病的だ。普通の母親は、用もないのに日に二十回も電話を入れたりしない」

「親に向かって『あんた』って、何のつもりなの」

「俺は疲れてるんだよ。今日だって一日中手術室に缶詰だった。先週はレポートが三つもあったし、ずっと徹夜だったんだ」

「一日二回、行く前と帰ってきたあとに電話してって言ってるじゃない。そのくらいのこともできないって言うの」

「なんでそんなことをしなくちゃいけないんだよ」

「心配してるんじゃない」

「何が心配なんだ? 俺が死ぬこと?」

 母親がはっと息を飲んだ。僕は指先のひどい冷えを自覚しながら、低い声で囁いた。

「父さんはなんで死んだんだよ」

 空気が凍りついたのが分かった。このあとに続く言葉は、けっして口に出してはいけないものだと知っていた。しかし、このときの僕には、とにかく電話の向こうの相手を傷つけてやりたいというそれだけの気持ちしかなかった。妙な息苦しさが僕を駆り立てた。

「あんたのせいなんじゃないのか。あんたのせいで、父さんは自殺したんじゃないのか」

 一拍おいて、電話は静かに切れた。

 僕は耳障りなテレビ番組を消し、弁当の残りを黙々と食べた。弁当を食べ終えて浴室を見にいくと、風呂はもう溢れていた。

 僕は冷え切った脱衣所でセーターを脱ぎながら、どうしてあんな酷いことを言ってしまったのだろうと思った。それから、父が死んだのは、本当は僕のせいかもしれないな、とも思った。

 結局、重苦しいような胸の違和感は、その夜布団に入って眠りに就くまでずっと続いていた。





 朝になっても胸の痛みは引かなかった。

 歩くと少し息苦しさはあったが、僕はいつも通りロッカールームでケーシー型白衣に着替え、診療衣を引っ掛けてカンファレンスルームへ向かった。三階程度ならいつもは階段を使うところだが、今朝はなんだか昇降がきつく、エレベーターを使うことにした。

 進藤と間宮は既に集合していたが、青山の姿はなかった。

「おはよう」

と間宮が挨拶をする。つられたように進藤もおはようと言い、僕も返事をした。

「青山は」

 僕は一応尋ねた。

「今朝のカンファはいないとまずいだろ」

「うん、そうなんだけど」

 間宮が口籠もり、スマートフォンを弄っていた進藤が唸る。

「あいつ昨日部活の飲み会だったからさあ」

「術前発表、読むの青山じゃなかったか」

「やべ、そうだっけ。あいつの家近いけど、間に合うかなあ」

 目を丸くした進藤が、いまひとつ緊迫感に欠ける口調で言った。何やらフリック操作で打ち込んでいる。青山を急かしているらしい。

「おい、術前発表はカンファの初っ端だろ」

「どうしよう、佐々山、原稿持ってる?」

「一応もう一部コピーしてあるけど、質問されたら一溜まりもないよ」

 僕はファイルから原稿を取り出した。

「僕、昨日は舌亜全摘の方に入っていたから。間宮さんもそうだろ」

「やばいな」

「青山から連絡は?」

 苛々と僕は言った。進藤が顔を顰めてスマートフォンの画面を睨みつける。

「ねえ、佐々山くんもラインのグループ入りなよ」

 間宮が控えめに言った。

「連絡取り合うのに不便じゃない?」

「ライン自体をやってない」

「やればいいじゃん。どうして」

「好きじゃないんだ」

 僕がそう言ったのと同時に、カンファレンスルームの扉が開き、先生たちが流れ込んできた。僕らは顔を見合わせた。間宮は青い顔をしていた。教授が入室するやいなや、カンファレンスは始まった。


 術前発表は散々だった。全てが終わったあとになって、顔面蒼白の青山がやってきた。

「ごめん」

 青山の白衣はよれよれで、釦を掛け違えていた。相当焦っていたらしい。

「発表……」

「大丈夫なわけないだろ」

 僕は冷ややかに言った。結局発表原稿を読んだのは僕で、質疑応答で酷い目にあった。血液生化学所見はなんとかなった。問題は画像所見の方で、僕と僕の班は大恥をかく羽目になり、レポート課題は二つに増えた。

「なんで遅れたんだ?」

「本当、ごめん」

「だから、なんで遅れたんだよ」

「佐々山くん、もう終わったことだしさ、仕方ないよ」

「何が仕方ないんだよ」

 進藤は僕と間宮を見比べ、困ったように口を閉ざしていた。普段饒舌な青山は俯向くばかりだ。

「あと一週間しかないのに、レポートが二つになったんだぞ。他にこんな班ないだろ」

「みんなで頑張るしかないよ」

「みんなで……」

 昨晩からの息苦しさが強まったのがわかった。

「怒るのは分かるしさ、私も怒ってるけど、佐々山くんはもっと寛容になったほうがいいよ。佐々山くん自身のためにも」

「俺のため?」

「同じ班なのに。どうして仲良くする気がないの」

 その言葉が引き金となったのかもしれないし、そのことは全然関係なかったのかもしれなかった。とにかく、僕は今までにない胸の痛みを覚え、その場に蹲った。右の胸から妙な音がして、僕は苦しい呼吸をした。皆が色を失い、一斉にしゃがみ込んだ。

「おい、どうしたんだよ」

 青山が焦ったように言った。

「息が苦しい」

 僕は胸を押さえながら言葉少なに伝え、近くの椅子に移動した。

「突然?」

 間宮が尋ねた。僕は迷ってから頷いた。青山が「俺、先生呼んでくるよ」と駆け出す。取り残された三人は暫し沈黙した。

 やがて、「気胸じゃないの」と進藤が呟き、僕らは顔を見合わせた。

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