ピリオド
ピリオド
彼は生まれつき音に対して異常ともいうべき感性を持っていた。
まだ言葉を解さない赤ん坊のころはもちろん、多くの子どもが言葉の意味を理解しはじめる年になっても彼は一切言葉を使わなかった。両親は心配し、あれこれと話しかけ、言葉を覚えさせようとしたが、無駄だった。話しかければ振り返るが、それは言葉を理解しているのではなく、声という音に反応しているだけだった。
結局、彼は一言も言葉を発さないまま成長していった。自分で言葉というものを使わないだけではなく、他人の言葉も理解していなかった。彼に理解できるのは音の連なりであり、人間の話し声もピアノの音も車の走行音も彼にとってはすべて等価値な音でしかなかった。
言葉を理解しない代わり、彼はだれよりも正確に音を理解することができた。
彼はどんな曲でも一度聞けば完全にそれを再現することができた。いくつもの楽器が複雑に重なり合ったクラシックでさえ、一度聞けばすべての楽器がどのように鳴っているか理解できたし、楽譜の書き方を覚えてからはそれを楽譜に記すこともできた。
疑いなく、彼には音楽の才能があった。音楽の才能しかなかった、というべきかもしれないが。
音楽の世界には言葉がない。音だけですべてをやり取りできる。両親は、彼にはうってつけの世界だと、積極的に音楽に関わらせた。彼もまた音楽に興味を示し、あらゆる音楽を貪欲に聞きたがった。
しかし楽器の扱いに関しては、彼はごく一般的な技術しか持ち合わせていなかった。ピアノの鍵盤を叩くことはできるが、そこに自分の感情を乗せることはできず、ほかの楽器も一通り音を出すことくらいはできるものの、一流の演奏にはほど遠い。そもそも彼には楽器を演奏したいという欲求もなかった。彼には音だけがあればよかった。純粋な音だけが。
彼は作曲をはじめた。
最初に作った曲は二十の声部に分かれた十二分の曲だった。
彼が記した楽譜どおりに演奏しようと思えば百人以上の大オーケストラが必要になるような作品だったが、彼にはそれが演奏可能か不可能かというのはどうでもいい問題だった。音はすでにそこに存在しているのであり、それをだれかが視聴可能な状態に再現できるかどうかは彼の興味の外だった。
彼が最初に曲を作ったとき、彼は十五歳だった。
両親は音楽教育も受けていない一般的な人間だったから、楽譜を読んでも彼の作った曲がどんなものなのか理解できなかった。息子はまるで異次元の言葉をしゃべっているようだと、父は手書きの楽譜を見下ろしながら考えた。このような言語で会話できる人間がいるとは信じられなかったが、そうした人間は世界中にすくなくない数存在した。
両親はいろいろとつてを使い、彼の作った曲を音楽家に見せた。音楽家は受け取った楽譜を見て疑った。十五歳の少年が作る曲ではなかった。どこかの有名な音楽家が作った作品をだれかが手書きに起こし、それを見せて自分の無知をからかうつもりではないかと調べてみたが、現在にも過去にもそんな作品は存在しなかった。
音楽家は彼と会い、彼の才能を確信した。仕事上の関係があるレコード会社に連絡を取り、すぐさま若き天才作曲家として世に出す段取りをはじめた。
そのあいだも彼は音楽を作り続けた。彼の作曲に対する集中力は凄まじく、目を覚ましてから眠るまで、ときには食事さえせずに曲を作り続けた。
彼にとって、曲を作ることはようやく他人とコミュニケーションできる手段を手に入れたことに等しかった。言葉を理解しない彼は、音楽を通して他者と語らうことを知った。多くの人間が一日の大半を他者とのコミュニケーションに費やすように、彼は楽譜に向かうことで他人と触れ合いたいという欲求を満たしていた。
一方で、彼には自分の作った曲に対して思い入れというべきものがなかった。自分が作曲したものがどのように扱われようと彼はいい気持ちにも悪い気持ちにもならなかった。彼は音楽家の手によって自分の曲が世に出、それが評価されていく過程をじっと見つめていたが、それよりも作曲することに夢中だった。
一年のあいだで彼は百近い曲を残した。
五分程度のものもあれば、一時間を超えるようなものもあった。声部がひとつしかないものもあれば全五十声部というものもあった。彼は言葉を理解しなかったから、必然的にボーカル曲は存在しなかった。詩が入り込む余地のない、音だけの世界を彼は構築していた。
両親は、ともすればふつうの子どもと同じようには生きられないかもしれないと思っていた息子が社会的評価を得たことをよろこんだが、一方で作曲に没頭していく息子を不安にも思っていた。その異常なまでの集中力は彼の健康を蝕んでいくようだった。
作曲をしているとき、彼は他人からの呼びかけにほとんど反応しなかった。それは完全に外界を遮断して集中しているせいだと思っていたが、それだけではなかった。
いつしか、彼の耳に異常が生じていた。
原因は不明だったが、彼の聴力は著しく低下していた。しばらく音から離れ、しずかな生活をすればその難聴も治る可能性はあったが、彼はそれを拒否した。彼は音に包まれ、新しい曲を聞き、そして自分の音を作り続けなければ生きてはいけなかった。
十七歳の夏、彼は完全に聴力を失った。
それでも彼は曲を作り続けた。いままでに自分のなかに取り込んだ音たちがまだ彼のなかで飛び回り、新たな形を作り続けていた。
彼はひたすら自分のなかに鳴っている音楽を楽譜に記し続けた。聴力を失ってから、彼は五十ほどの曲を作った。そしてある日突然、彼は自分のなかがまったく静寂であることに気づいた。あらゆる曲を、音を吐き出し続け、ついに自分のなかにあったすべての音を吐き出し尽くしてしまったのだ。
聴力が失われたいま、いかなる方法でも新しい音を取り込むことは不可能だった。
彼は生まれてはじめて絶対的な静寂を意識した。音のなかで生きてきた彼には耐えられない静寂だった。
彼が自ら命を絶つ選択をしたのは、ある意味では必然的なものだった。
音は鳴り止んだ。彼が死ぬ理由としてはそれで充分だった。
/了
音楽詩篇 辺名緋兎 @cronos123
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