フォルテシモ


   フォルテシモ



 いまどき、東京の暮らしに夢を見る時代でもないんだろう。

 町の風景はビルの多寡くらいしか変わらず、東京へ出てきたからといってなにか変わるわけでもない。そう思いつつも地元九州の大学ではなく東京の大学を選んで受験したのは、おれもどこかで東京という大都会に新しい暮らしを夢見ていたからなのかもしれない。

 結果、どうなったかといえば、まあ、九州にいようと東京にいようと大したちがいはない、という結論に達する。

 どこに住んでいようと生活は変わらない。朝起き、大学へ行き、帰ってきて寝る、ただそれだけの毎日なのだから、九州だろうが東京だろうが、いってしまえば地球の裏側だろうが同じことだ。東京にいるからといって芸能人の友だちができるわけでもなく、なにか東京にしか存在しないようなめくるめく夜に出くわすこともなく、おれの毎日は至って平和に、平凡に過ぎ去っていった。

 ただひとつ、やはり都会だと思うことがある。

 おれは安いアパートの一室に住んでいたが、そのアパートというのがまた狭い土地に無理やり建てたようなちいさなアパートで、二階建てで一階あたりワンルームが三部屋しかない。おれは二階の三つ並んでいるうちの真ん中に暮らしていた。こんなアパートでも左右はどちらも埋まっている。土地の狭さも、それでも住む人間がいるというところも東京らしく、実のところおれはこのアパートを気に入っていたが、ある事情で引っ越すことが決まっていた。

 右隣からの騒音だ。こればかりは、いかに東京らしいといっても耐えられるものではない。

 ただでさえテレビの音が聞こえるくらいのうすい壁なのに、となりからは二十四時間、絶えず大音量の音楽が聞こえてくる。はやりの曲だったり古い洋楽だったりクラシックだったりジャズだったり、種類はいろいろで、ただ一瞬も止まることなくうすい壁を通して音楽が聞こえ続けるのだ。

 最初はもちろん、そんな問題は起きなかった。入居してから一年ほどは右隣にも別の隣人が住んでいて、それが引っ越し、一ヶ月ほど経って入居してきた新しい隣人が問題を起こしはじめた。最初に音楽が聞こえはじめたのはとなりが引っ越してきてから半年ほど経ったころ。それからというもの、丸一ヶ月以上、昼も夜も関係なく音楽が鳴り続けている。

 もちろん苦情は言った。無駄だった。どれだけとなりの家の扉をノックしてもなんの返事もありはしない。無人のはずはないから、居留守を使っているわけだ。腹が立って壁を叩いてみても効果なし。むしろ向こうから軽く叩き返されるくらいで、逆に腹が立つ。

 アパートの管理人にも不動産屋を通して言ってもらったが、だいたいこういうアパートでは隣人の騒音問題がつきものらしく、まともに対処してはもらえなかった。

「音楽でよかったじゃないですか」

 まともとは言えない不動産屋は、カウンターに頬杖をつき、ペンをくるくると回しながら言った。

「世の中にはもっとひどい騒音もありますよ。犬が吠えてるとか猫が鳴いてるとか、テレビがうるさいとか、果てはキーボードを打つ音がうるさいとかね。ま、いちばん多いのはひとの声ですが」

「ひとの声?」

「話し声とか、要するに、夜の声とかね、そういうのが自分の意思とは関係なく聞こえてくるのはいやでしょう」

「まあ、たしかに。でもうちもひどいんですよ。それこそ、話し声も聞こえないくらいにでかい音で音楽がかかってるんだから。となりもこの不動産屋で契約したんじゃないんですか?」

「うちは知りませんよ。そういうこともまあ、ありますよ、まともなマンションならともかく、ああいう安アパートは。とにかく自分で解決してみるしかないでしょうね。ただ、気をつけてくださいよ。隣人トラブルからの警察沙汰なんて珍しくありませんからね」

 ただでさえうんざりしていたのに、そうやって脅されてはなんとかして解決してやろうという気も起きなかった。それでおれは別のアパートを借り、いま住んでいるアパートから引っ越すことを決めたのだ。

 部屋で荷物をまとめながら、右隣とつながっているうすい壁を見る。今日も音楽は鳴っている。となりでさえこれだけ聞こえるのだから、部屋にいる本人はもっとうるさいはずなのに、それを一日中鳴らしているなんてよほどの音楽好きにちがいない。考えてみれば隣人とは顔を合わせたこともなかった。男か女かすらわからない。

 引っ越しには大学の友だちが何人か手伝いにきてくれた。まあ、学生のひとり暮らしなんて引越し業者に頼むほどの荷物もなく、むしろ連中が持ち込んできた酒やツマミのほうが邪魔なくらいだったが、ともかくおれたちは音楽に見送られてアパートを離れ、新居でさっそく酒盛りをはじめた。

「不動産屋はああ言ってたけど、どうせ聞こえるならおれは音楽より夜の声のほうがいいよ。となりが若い女ならなおよし」

「こんなアパートに若い女が住むかよ。どうせ金のない男だよ」

「夢のない話だよな、ここは東京だぜ」

「東京は夢の町じゃない、きびしい現実の町だ」

 そのとおり。飲まずにはいられない。おれたちは浴びるように酒を飲み、知らないうちに眠っていた。

 次の朝、おれは肩をゆすられて目を覚ました。友だちのひとりが、まったく酔いの覚めた顔で携帯を握りしめている。

「どうしたんだ?」

「見ろよ、このニュース」

「なんだよ」

「ここ、おまえのアパートだろ」

 目をこすりながら携帯の画面を見る。テレビ局が配信している映像ニュースだった。一瞬、映っているのがどこかわからなかったが、よく見ると昨日までおれが住んでいたアパートを外から映しているのだ。

 ニュースキャスターが言う。

『今日未明、東京都××区にあるアパートで身元不明の女性と見られる遺体が発見されました。女性は全身にひどい傷があり、監禁されていたような形跡があるということで、警察は遺体が発見されたアパートの部屋に住む男を監禁の容疑で逮捕して事情を聞いています――』

 その瞬間、おれはなぜ隣人が話し声も聞こえないような音量で二十四時間音楽を流し続けていたのかを悟った。そして壁を叩き返してきた、あの音は――。

 頭のなかで大音量の音楽がリフレインしていた。



  /了

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