コーダ


   コーダ



 鳴り止まない拍手に背を向けるように舞台袖へ引く。

「今回もすばらしい演奏でしたね」

 すぐに近づいてきた主催者に曖昧なうなずきを返し、遠阪穂香は控室へ戻った。鏡に自分の顔が映る。赤いドレスときらびやかなネックレスで着飾ってはいるが、その顔は蒼く、目には怯えが色濃く見えた。

 穂香はヴァイオリンのソリストだった。若く、美しく、そして才能がある、だれもが羨むような存在だった。彼女はもともとある優れた曲を書いたことによって世に知られ、その後ソリストとして活躍するようになったが、周囲は自分のソリストとしての腕ではなく、あの曲を演奏してほしい、むしろあの曲を演奏しないのであればなんの価値もないと考えているのだと彼女自身は思っていた。

 〈無題〉と名付けられたその曲は、絶賛をもって世の中に迎えられた。

 彼女の人生はそれによって大きく変わった。音楽学校で平凡なヴァイオリン科の生徒だった少女は世界的な作曲家、音楽家となり、権威あるオーケストラとの共演の依頼が毎日のように届き、CDはクラシック音楽としては異例の売り上げを記録した。

 他人から見れば順風満帆の人生だろう。若くして成功し、いまや地位も名声もほしいままにしている。言い寄ってくる男も多かった。穂香は自分と同じ名前、同じ姿をした偽物の自分が評価されているような気がして、一瞬も満足することはできなかった。

 そう、偽物だ。

 自分の偽者ではない。自分自身が偽物なのだ。

「まったく――」

 控室の外からだれかの声が聞こえる。

「大衆ってやつには困ったものだ。あの程度の演奏でスタンディングオベーションだ。彼女のソリストとしての能力は、この規模の演奏会にはまったくそぐわない。あれじゃあそのへんの音楽学校から生徒を連れてきたほうがいい演奏をするくらいだ。技術も未熟だし、なにより余裕がない」

「相変わらず辛口ですね、木口先生は。でもすこし声を落としてください。彼女、控室のなかにいるかもしれませんよ」

「ふん、いたっていいさ。なんなら本人の目の前で言ってもいいくらいだ。彼女はあまりにも過大評価されすぎている。まあ、いまにはじまったことじゃない。この国はいつだってそうだ。ひとつのものを取り上げると、まるで世の中にそれしか存在していないかのように持ち上げ、飽きれば捨てる。捨てたものは最低でも十年、十五年は顧みられない。この国に芸術というものが根付かない本当の理由はそこだよ。政府の政策でも寄付金の多寡でもなくてね」

「では、木口先生はあの曲もお好きではないと。あの〈無題〉も?」

「あの曲は――」

 木口という男がすこし言いよどむ。穂香はぼんやりとその男の顔を思い出していた。ひとの悪口を書くことしか能がない、木口なんとかという評論家。

「あの曲は、まあ、いい」

「ほう、さすがの木口先生もあの曲は認めますか」

「認めるもなにもないが――たしかにあの曲には一種の凄みがある。他人を圧倒するようなものが、だ。音楽理論としてはなにも特殊ではないし、先進的でもない。むしろ構成は古典的で保守的だ。ただ、それを超越した意思のようなものが感じられる」

「意思? 曲の、ですか」

「曲には意思なんかない。生き物じゃないんだから。作った人間の意思だよ」

「なるほど、作曲者の――ではやはり、遠阪穂香は優れた作曲家なんでしょう」

「なにをもって優れたというのか、なにをもって作曲家というのかはわからんが。なにしろ作曲家としての彼女はあの一曲しか作っていない。過去の作曲家を鑑みても、たった一曲しかない優れた作曲家などいないよ。優れた作曲家は優れた曲をいくつも作っている。一曲くらいなら、素人がまぐれで書けることもある」

 ふたりの声が遠ざかっていく。木口という男の言葉は正しいと穂香は控室のなかですこし笑った。本人は言い当てているとは思っていないだろうが。

 自分の技術がプロというレベルにはないことは穂香自身がいちばんわかっている。どんなオーケストラと共演しても、わかるのは自分の未熟さだけだ。指揮者やほかの演者もわかっているだろう。しかしだれも口は出せない。自分が遠阪穂香で、自分のほとんどアイドル的といってもいい人気が続いているかぎりは。

 人気のきっかけになったのは〈無題〉という一曲だ。

 その曲のすばらしさがすべての前提になっている。もしその曲を自分で書き上げていれば、おそらくこんな気持ちになることもなくいまの地位を楽しめただろうと穂香は思う。

 〈無題〉は、穂香が書き上げたということになっているが、本当はちがう。

 〈無題〉の作曲家はまったく別にいる。いまはどこでなにをしているのかもわからない、音楽学校時代の同級生。

 池田千歳という少女だった。

 千歳が書いた曲を、穂香が自分の作だといって世に出したのだ。

 そんなつもりはなかった、と言い訳することもできる。世に出すことを勧めたのは当時の学校の教師だった。その曲は、校内であった作曲試験のときに提出したものだった。穂香はその試験を乗り越えるためだけに千歳から曲を盗んだのだ。それが、気づけば世界中の人間を騙すことになっていた。もう後戻りはできない。いまさら告白することは。

 千歳と穂香は仲がいいわけではなかった。むしろ、その関係は特殊なものだった。穂香はほかの何人かの生徒といっしょに千歳をいじめていた。

 千歳はどの授業でもじっとうつむき、だれとも会話しないような暗い少女だった。そんな少女を仲間内でばかにすることは、いじめるという明確なものですらない一種のありふれたストレス解消法にすぎなかった。

 仲間内で他人の悪口を言うなんてよくあることだ。ただ実際に千歳にそれを聞かれてしまってからは、もっと直接的ないじめに移行するしかなかった。その瞬間穂香たちに与えられた選択肢はふたつで、ひとつは悪口を言っていたことを千歳に謝る、もうひとつはさらに突っぱねるというものだったから、穂香たちにとって最初から後者の選択肢しかないように思えたのだ。

 どんなにいじめても千歳は泣き言ひとつ言わなかった。それが癪に障った。もうやめてと一言言わせてやろうと、むずかしい授業のストレスをすべて千歳にぶつけていた。

 千歳がいつも持っていた鞄を奪ったとき、はじめて千歳は抵抗した。だからこそ穂香は決してその鞄を千歳には返さなかった。その鞄に入っていたのが〈無題〉のスコアだった。

 千歳がなんのために楽譜を持ち歩いていたのかはわからない。試験のために書いていたのかもしれないし、曲を書くことが好きだったのかもしれない。そんな基本的なことさえ穂香は知らなかった。

 〈無題〉は千歳が作った曲だ。穂香が途中で学校をやめ、プロとしてやりはじめてから千歳とは会っていないが、もし日本にいるならうわさくらいは聞いているだろう。穂香は、いつ千歳があの曲は自分のものだと言い出してくるか不安で仕方なかった。しかし〈無題〉が世に出て数年、千歳からはなんの連絡もないまま、こうして時間が過ぎている。

 千歳はプロの音楽家になったのだろうか。あれだけの作曲能力があるなら、どこかで作曲家をやっているかもしれない。〈無題〉は彼女が無数に作った曲のひとつで、まさか奪われた鞄に入っていた曲がこれほど大きなものになるとは思いもせず、どこかで〈無題〉を耳にしても自分のものとは気づいていないのかもしれない。

 ただ、千歳は知らなくても、穂香は知っている。それが自分の曲でないことを。自分にはプロとしてやっていく技術もなければ作曲能力もないことを。それでもやめるわけにはいかなかった。いまさらなんと言えばいいのか。木口が言うとおり、どうせやがて忘れられる存在なら、それまで居座ってやろうとも思う。

 穂香は帰り支度を済ませ、どのスタッフよりも先に劇場を出た。まっすぐ家には帰らず、活動のマネージメントを委託している事務所へ寄る。事務所には無数の手紙やプレゼントが届いていた。穂香はそのプレゼントを事務所のスタッフに譲り、手紙だけを持って帰る。

 手紙の送り主は様々だった。音楽家を志している学生から自分の親よりも年上の人間、果てはちいさな子どもの字で精いっぱいに感謝や励ましの言葉が書いてあるものもある。穂香はそれらすべての人間を裏切っていた。裏切っていることに気づかれなければいいのだと自分を慰め、A4サイズの封筒を手に取る。

 ほかの手紙とはちがい、それはずっしりとした重量感がある封筒だった。開けて覗いてみると、二十枚近くの紙が折りたたまれて詰め込まれている。

 穂香はかすかに寒気を覚えた。封筒には差出人の名前はなかった。まさか――。

 家に帰り、真っ先に封筒の中身を引っ張り出す。折りたたまれていた紙を広げ、眩暈がした。

 見慣れた五線紙。学生のころからずっと扱っていた楽譜。

 もちろん白紙ではない。きれいに清書された楽譜だった。しかし手書きで、細かな演奏記号まで記してある。

 音符を眺めていると、自然に頭のなかで音楽が鳴りはじめる。伴奏のない、完全にヴァイオリン一本で弾くための曲。知っている曲ではなかった。ただ、いままでに聞いたことがあるどんな曲よりも大胆で美しい旋律。

「……池田千歳」

 間違いないと思う。

 池田千歳が作った曲にちがいなかった。

 証拠はない。署名もなかったし、〈無題〉に共通するテーマや旋律があるわけでもない。ただ、池田千歳の作だと確信できる、圧倒的な曲だった。

 穂香は何時間も楽譜を眺めていた。

 やがて、事務所に電話をかけ、練習スタジオを確保してくれるように頼んだ。

「次の公演の練習ですか?」

「そのことだけど、次の公演はキャンセルにしてほしいんです」

「キャンセル?」

「新曲ができたんです。間違いなく〈無題〉よりもすばらしい曲が。それを練習したいのだけど、次の公演には間に合わないわ。その代わり、来月の終わりにお披露目の公演をやりたいと思っているんですけど」

「わかりました、こちらで調整します。新曲ですか、もちろんすばらしい曲だと思います。いままででいちばん大きなホールを用意しますよ。必ず成功させましょう」

 新しい曲は、穂香には難易度の高いものだったが、寝る間も惜しんで練習を続けた。必ずこの曲を自分のものにしなければならない。池田千歳ではなく、自分のものに。

 一ヶ月が過ぎ、予定の公演が近づいてきた。

 練習はまだ途中だったが、公演そのものは穂香も満足がいくものだった。音響的にも、また格も充分な音楽ホールで、大々的なコマーシャルも打たれた。〈無題〉に続く新曲のお披露目公演。話題性は充分すぎるほどで、チケットはすぐに完売した。また、あらゆるメディアから取材の依頼が殺到し、一部はその練習段階から密着したいということだったが、事前の取材はすべて断った。

 穂香は公演当日までスタッフにさえ新しい曲を聞かせなかった。それがすばらしいものであることは疑いようがなく、ただそれを不完全な段階でだれかに聞かせたくはなかった。曲を貶めてはいけないと、穂香は自分自身を追い込み、当日には完璧に演奏しきる自信を持ってホールに入った。

 控室へ続く廊下は送られた花で飾られている。用意されているのは美しい衣装。控室の鏡に映った自分を見る。美しき若手ソリスト。

 唯一の懸念は、本番前に池田千歳が控室へ訪ねてこないかということだった。本番までに動揺したくはなかったが、もし訪ねてきたら断るわけにはいかない。スタッフにも、池田と名乗る女性が現れたら控室へ通してくれと頼んであったが、結局本番の時間になっても池田千歳は現れなかった。

 穂香は舞台袖に立つ。

 まばゆい照明に照らされた舞台の真ん中に、一脚の椅子があった。椅子の上にはヴァイオリンが置かれている。譜面はない。暗譜でも不安がないような練習を積んできた。

 観客のざわめきがすこしずつちいさくなっていく。本番が近づいてきたという心地。穂香はひとつ息をつき、舞台へ上がった。

 袖から穂香の姿が現れた瞬間、客がぴたりと静まり返った。

 穂香はゆっくりとした歩幅で舞台の中央へ進み出て、椅子に置かれたヴァイオリンを取り、弓を構えた。

 目を閉じる。楽譜が浮かんでくる。池田千歳が作った楽譜。しかし演じるのは自分だ。この公演が終わったらなんとしてでも千歳に連絡を取り、自分と協力してやっていかないかと頼み込もうと決めていた。そのために、この公演では千歳の曲を完璧に演奏しなければならない。自分が有能であることを千歳に示さなければならないのだ。千歳はおそらく客のなかにいるだろう。暗くなった客席のどこかに。

 弓を持った手がふるえる。弓が弦に触れる瞬間に手がふるえてしまえば、弦が不用意にこすれてしまう。穂香は息をつき、最初の音を紡いだ。

 あとは流れるように、まるで曲そのものが自律性を持っているように進んでいく。

 しずまり返った客室に一挺のヴァイオリンの音だけが響いた。

 それがよい響きなのか悪い響きなのか、弾いている穂香にはわからない。ただ無心で進む。この曲に楽章はない。ひと続きの、二十分あまりの曲だった。休む間もなく音に急き立てられ、指が滑り、弦が跳ねる。

 半分が終わったあたりから穂香はすこし余裕が出てきた。弾きながら、すこし客席を眺められるようになる。それが悪い予兆なのはわかっていた。集中力が途切れかけている。それにしても、この曲はどうしてあんな終わり方をするんだろう。自然のうねりを思わせる雄大な調べから、唐突に、ぷつりと途切れるような終わり方。それより先は白紙になっている。

 ふと、まだあの楽譜には先があるのではないかという気がした。

 あの封筒に、取り出されないまままだ残っているのではないか。自分はそれに気づかず、練習を重ねてきたのではないか。現にあの楽譜には曲の終わりを示す記号がなかった――。

 指が止まりかける。そのことはだれにも気取られていない。それとも、どこかで見ている池田千歳は気づいただろうか。自分の指示したものよりもわずかにリズムが狂ったことを。

 やるしかない。もし最後が欠けているのだとしても、ここまできてやめるわけにはいかない。

 曲は終わりかけていた。激動の区間が過ぎ、穏やかな昼を思わせる区間へ。まるで死だ。考えたこともなかった発想だった。そうだ、この穏やかなメロディは死なのだ。激動の生を終え、ゆるやかに、すこしずつ死に近づく。

 最後が近づいていた。

 あと三小節。メロディが消えていく。やがて最後の音が嫋々と――。

 穂香は顔を上げた。なぜか、その場所を見ていた。

 大きな会場の三階席。照明も当たっていないのに、そこだけが切り抜かれたように視界へ飛び込んでくる。

 笑っていた。

 女がひとり、そそり立つ壁のような三階席から身を乗り出し、笑っているように見えた。

 痩せた女だった。だれだろうと思った瞬間、女の身体が手すりを超えて空中へ躍り出た。あっ、とだれかが叫ぶ。

 一瞬静けさが広がり、絶叫が呼応する。穂香は舞台上から動けないまま、最後方の席を中心に騒ぎの波紋が広がっていくのをぼんやりと眺めていた。

 落下の瞬間を見たのは穂香だけだっただろう。女は笑っていた。墜ちながら。

 事故が起きたとわかったあと、すぐに幕が下りた。警察も駆けつけ、だれも穂香の演奏など話題にしなかった。

 女は身元不明だったが、服のなかに紙切れを持っていた。そこには走り書きのような字で、

「私には音楽しかなかった。あなたは私のすべてを奪った」

 と書かれていた。

 そのことは警察関係者しか知らなかったが、その二日後、若き女性ソリストの首吊り死体が見つかった。彼女のそばには紙を焼いたような灰が残され、あの日演奏された曲が再現されることはついになかった。



  /了

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