ダ・カーポ


   ダ・カーポ



 若いころは葬式など必要ないと思っていたが、年を取ると、そうした無意味に思える風習の意味がすこし理解できてくる。あるいは長い時間をかけて社会というものに洗脳されただけかもしれないが。

 葬式は別れの儀式だ。死は別れではない。別れにしてはあまりにも唐突すぎる。葬式をすることによって、生きている人間はすこしずつ死んだ人間のことを過去にしていくわけだ。突然目の前から失われてしまうと信じがたいが、煩雑な手続きを行っているうちに死んだ実感が湧いてきて、焼き上がって骨になった頃にはようやくあいつは死んだのだと正しく認識できるようになる、要するに葬式とはその時間と手間を稼ぐものなのだ。

 ぼくはそう思っていたが、あるいはちがったのかもしれない。

 葬式は生きている人間だけに必要なものではない。おそらくは死んだ人間にも必要だ。おれは死んだのだ、と理解するために。

 ぼくは死んだ。

 葬式はたぶんされなかった。そんな親類はいなかったし、金もない。

 ぼくは売れない音楽家だった。担当楽器はヴィオラ。まあ、地味といえば地味だ。いい年をして結婚もしていない、当然ながら子どももいない。市の楽団に所属し、給料はふつうのサラリーマンよりすこし悪いくらい。音楽さえやっていれば食いっぱぐれないという意味ではサラリーマンよりは恵まれているかもしれない。

 ぼくは自殺した。自分の人生に絶望したわけだ。ある日不意に、これ以上生きていてもなにも起こらないだろうと思い、ほとんど発作的に自殺していた。それが悪かったんだろう。ぼくは死んだが、死にきれず、いまここにいる。

『あなたは世界を救う勇者なのです』

 ゲームに出てくるような黒いローブを着た年寄りが言う。

 いや、言う、のではない。

 言葉は発していない。口は閉じたまま、まるで耳の奥につけられたイヤホンから音が聞こえてくるようにその言葉が理解できる。年寄りの見た目はどうも日本人という感じでもなく、言葉が通じる相手にも思えなかったが、その言葉ははっきりと意識できた。

 年寄りのほかにも十人あまりのローブ姿の人間たちがその場にいた。薄暗い、やけに湿度が高い部屋だ。地下室かもしれない。部屋の真ん中に蝋燭が置かれていて、光源はそれだけだ。

「ここはどこなんだ?」

 ぼくが言った瞬間、ローブ姿の人間たちが驚いたように目を見開き、後ずさった。それでも言葉は発しなかった。まるで口を縫い付けられているように。

『ここはあなたが生きていた世界とは別の世界です、勇者さま』

 どうやら言葉は通じるらしい。ぼくはテレパシーなど使えないから、ふつうにしゃべっているのだが。

「勇者さま? 悪いけど、ぼくは売れない音楽家だったんだ。おまけにそんな生き方に絶望して自殺した――はずだったんだけどな。葬式のせいだ。ぼくは幽霊になったのか?」

『幽霊ではありません。召喚の儀式です。あなたは世界を救う勇者としてこの世界に召喚されたのです。その、聖なる武器とともに』

「聖なる武器?」

 足元を見るとヴィオラのケースが転がっていた。蓋を開けてみる。なかにはちゃんと弓も入っていた。これが聖なる武器らしい。なるほど、とぼくはうなずく。

「こいつでだれかを殴り殺せばいいわけ?」

『あなたの敵は魔獣です。どこからともなく現れ、町やひとを襲うのです。どうかわれわれを魔獣からお救いください』

 言い終わるか否かというタイミングで地鳴りが響いた。ローブ姿の人間たちが動揺する。無数の思念が同時に頭に飛び込んできて、一瞬眩暈のような混乱に陥る。落ち着いてそれを整理すると、どうやら魔獣の襲撃がはじまったらしかった。

『勇者さま、お願いいたします!』

 ぼくは言われるがまま、ヴィオラを持って部屋を出た。

 やはりそこは地下室だった。石の階段を駆け上がり、途中で螺旋階段に変わって、なお上がる。さすがに息切れが激しくなってきたころ、ようやく外へ出た。

 やはり、というべきか、そこはゲームに出てくるような城の一角だった。尖塔の屋上で、眼下には白く荘厳な城が広がり、そのさらに外には城下町があった。

 魔獣というやつがどこにいるのかは一目でわかる。なにしろ尖塔の屋上に立っているぼくと同じくらいの目線に、牛を巨大化させたような化け物がいるのだ。そいつが魔獣にちがいなく、しかしそいつは存外にのんきそうな声を上げながら足元の城下町を踏み潰していた。

「あんなでかいやつとどう戦うんだよ?」

『音です』

 ローブの年寄りが階段に喘ぎながら言う。

『魔獣は音に弱いのです。というより、この世界のものはすべて、音という魔法を知りません』

「音、ね。じゃあこうやってしゃべってるだけでも攻撃になるのか?」

『なりますが、より大きく、明確な音のほうが効果的でしょう。たとえば、その聖なる武器をお使いになるとか』

 ふむ。ぼくはヴィオラをケースから引っ張り出す。それをいつものように顎の下に構えた。

 弓を持つ。魔獣との距離はまだまだ遠かった。こんな距離では聞こえないかと思いつつ、弦をふるわせる。するとその瞬間、魔獣が激痛に襲われたような声を上げ、暴れはじめた。

 足元の町から土煙が立ち上る。地面が揺れ、ぼくが立っている尖塔もかすかに揺れているような気がした。ただ魔獣が暴れているためだけではない。尖塔が、世界中が、ぼくの奏でる音楽と共鳴するようにふるえているのだ。

 ローブの年寄りは耳を塞いでいたが、耐えられないというようにその場にうずくまった。魔獣はそれよりもはっきりと苦痛を感じている。四本足をばたつかせ、唸り声を上げ、頭を上下に振った。そして倒れる。足元の町もろとも。ぼくは弓を離した。魔獣はまだかすかに唸り声を上げていたが、それもすこしずつすくなくなり、やがて静寂になる。

 静寂。

 ぼくはこの瞬間、ぞっとするほどの静寂を感じた。

 この世界には、たしかに音というものがないのだ。どういう理屈かわからないが、魔獣が暴れ、地面が振動しても、ふつうなら聞こえるはずの足音はまったく聞こえなかった。さっきぼくたちが階段を駆け上がったときもそうだ。だれひとり、足音は立てなかった。なにもない石段だったのに、絨毯の上を歩いているような静けさだったのだ。

 試しにぼくはその場で足踏みをしてみた。足音は立たない。なのに、ヴィオラは鳴る。どういう仕掛けなのかわからないうちにローブの年寄りが起き上がり、倒れた魔獣によろこびの声を――テレパシーを――発した。ローブの年寄りだけではなく、城の至るところからテレパシーが発信されるのを感じる。声ではない、言葉だけが伝わってくるのは奇妙な体験で、テレパシーの波は大きく揺れて混ざり合い、やがて城下町まで包み込んだ。

 わけもわからず、ともかくヴィオラを抱えて尖塔から下りたとき、ぼくはもう立派な勇者さまになっていた。城の前で待ち受けていた使用人やら市民らしいひとたちが歓声を――もちろんテレパシーだが――上げる。ローブの年寄りに促されて片手を上げて応えれば、また歓声。だれもがぼくを救世の勇者だと認めていた。本当ならしがない音楽家でしかなかったぼくを、だ。

 その日、城では宴が開かれた。二、三百人は収容できそうな大食堂に料理が並べられ、大臣やらなんやらが出席し、サーカスを呼んでの大騒ぎ。とはいっても物音は一切ない。音としてはまったく静寂のなかで行われるどんちゃん騒ぎで、ぼくは自分の耳が聞こえなくなったのではないかと何度もわざと声を出してみて確かめたほどだった。

 宴のあと、王さまとも面会した。髭を生やしたおじさんで、まあそれはいいのだが、王さまのとなりには白いドレスを着た可憐な姫君が立っていた。王さまの、なんだか学校の校長先生を思わせる無駄に長い話のあいだにも姫君と目が会い、お姫さまは恥ずかしそうに頬を染めて目を伏せる。こちらのことを悪く思っているような印象ではなかった。

 王さまの話を要約すれば、今回は魔獣を倒してくれて感謝するが、魔獣はまだまだ存在していて、それを倒すにはぼくの力が絶対に必要らしい。それに協力してくれるか、ということだった。もちろん、もう呼び出されていてもとの世界に帰る方法もわからないし――そもそも、もとの世界では死んだはずで、もとの世界に帰るという言葉が正しいのかどうかもわからないが、ともかくぼくはその申し出を受け入れるしかなかった。

 そうしてぼくの戦いの日々がはじまった。

 ぼくの一日のほとんどは魔獣との戦いに費やされた。どこかの町に魔獣が出たといえば、急いで馬に乗って駆けつけ、ヴィオラを弾く。で、その村で宴会に参加し、城へ帰る。その繰り返しだ。

 何度か危なかったこともあった。魔獣の姿はいろいろあって、牛のようなやつもいれば鳥のようなやつもいて、そいつには危うく鋭いくちばしで噛みつかれかけた。危ういところで叫び声を上げ、向こうが怯んでいるあいだにヴィオラを弾いて倒したから怪我こそなかったが、命がけの仕事にはちがいない。

 そんな生活が、実に五、六年も続いた。

 ぼくは自分が不幸だとは思わなかった。

 城や城下町のひとたちはみんないいひとたちだったし、形はちがえどヴィオラを弾いて生きていくことは前の世界と変わらない。そしてぼくには妻ができた。可憐なドレスと髪飾りに彩られたかわいらしい妻が。

 不幸どころか、前の世界で暮らしていたときよりもはるかに幸せな毎日だった。

 しかし往々にしてそういう生活は長くは続かない。

 城にいつものように伝令が駆け込んできたが、その慌てぶりはいままででいちばんだった。

『た、大変です! 何百体、いや、何千体という魔獣の群れがこの城めがけて押し寄せているとの報告です!』

 もちろん、ぼくの出番だった。ぼくは商売道具であるヴィオラを持って城を出ていく。妻がドレスの裾をなびかせ、馬に乗ったぼくを見送りに出てくる。

『この戦いは長きに渡る戦争の最後の戦いになるでしょう。あなたはこの世界を救ってくださった英雄です。どうかご無事に』

「大丈夫、ぼくは負けないよ」

 城からまっすぐ北へ半日ほど走ったとき、くだんの大軍団が目の前に現れた。

 ぼくは付き添いできてくれた兵士たちを城へ帰した。兵士たちは自分たちもここに残ると言い張ったが、足手まといになるといって無理やり追い返した。どのみち、彼らはここにいても役には立たないし、万が一なにかあればぼくが気を遣う。

 今回がいままででいちばん危険な戦いなのは間違いない。なにしろ向こうは一体一体がビルほどのでかさの怪物だ。それが何千体と押し寄せてくる。まだ距離はあるのに地面はびりびりとふるえ、馬は怯えて進まなくなる。ぼくは馬を降り、まっすぐ歩いて魔獣たちの群れへ向かった。

 押し寄せてくる魔獣たちを倒すには、なるべく群れのなかに入り込む必要がある。ヴィオラを弾くという攻撃方法にはすこしタイムラグがあるから、距離を取ると先頭集団はなんとかなってもその後ろにいる連中にやられてしまう。群れのなかに入り、一撃でなるべく多くの魔獣を倒さなければならない。

 魔獣が近づいてくる。土煙が津波のように迫ってきた。ぼくは自分から群れのなかに飛び込み、音もなく踏み鳴らされる彼らの足をすき間を駆け抜けながらヴィオラを構えた。

 弓を弦に添える。音が放たれる。魔獣の声のない絶叫。魔獣たちがのたうち、倒れていく。ぼくはその下敷きにならないように逃げる。しかし一撃ですべての魔獣を倒すことはできなかった。奥から奥からいくらでも魔獣たちが出てくる。一体の魔獣がぼくをつま先で蹴り飛ばした。ぼくはゴムボールのように空中を吹き飛び、落としたヴィオラを別の一体が踏みつける。ヴィオラはばらばらに砕け散った。魔獣を倒すための聖なる武器が。

 ぼくは叫んだ。

 血を吐くように叫び続けた。

 蹴られ、下敷きになり、それでも叫び続けた。

 ふしぎと身体の痛みは感じない。荒れ果てていた地面が一瞬にして華やかな草原に変わる。光が差す。魔獣たちが消滅していく。ぼくの声が枯れ果てるのと、魔獣の最後の一体が倒れるのはまったくの同時だった。

 ぼくは全身の至るところに怪我を追い、こんなことなら格好つけて兵士を帰らせるんじゃなかったと後悔しながら城のほうへ歩き出した。しばらくすると、城へ帰ったはずの兵士たちが駆けつけ、ぼくを馬の上へ抱き上げてくれた。

『あなたはすばらしい仕事をやってのけました。あなたこそ、真なる英雄です』

 兵士たちはみな眩しい太陽を見るように目を伏せていた。ぼくは完全に声を枯らしていたから、なにも返事はできず、馬の上で眠りに落ちた。

 目が覚めたのは城の寝室だった。うすいヴェールがかかった天蓋付きのベッド。ベッドのそばのスツールに、可憐な女性が腰掛けている。ぼくの妻。ヴェールをかき分けてぼくを覗き込む。

『目が覚めましたか?』

「ああ、なんとか。生きて帰ってきたみたいだ」

『魔獣はすべて消滅しました。この世界には、もう魔獣はいません。あなたのおかげです』

 妻がベッドに上がる。ぼくは全身を怪我していることも忘れて心臓が跳ね上がるのを感じた――結婚してからいままで、なんとなく、夫婦のこうした営みはしてこなかったのだ。

『あなたにはすべての国民が感謝しています。あなたの名前は長く語り継がれることでしょう』

 黒い瞳。ぼくたちは肌を重ねた。全身に染み入るような疲労のなか、妻はゆっくりと起き上がり、ベッドサイドにあったものを取り上げる。ぼくは顔だけ横に向け、それを見た。

 銀色のナイフだった。

 妻はいまにも泣きそうな顔でぼくに覆いかぶさる。

『こうするしかないのです。魔獣を倒すにはあなたの力が必要でしたが、魔獣がいなくなったいま、あなたはこの世界にとってもっとも危険な存在となったのです』

「わかったぞ――はじめからそのつもりだったんだな。仕事だけさせて、殺すつもりだったんだ」

『言わないで。わたしの心は、あなたにはわからないでしょう』

 彼女は泣いていた。キスをする。胸にナイフが突き刺さる。うまく肋骨を避けて心臓を貫いたようだった。ぼくは声を押し殺す。ぼくは彼女を愛していた。なるほど、たしかにぼくはこの世界にとって危険だ。ぼくの力はこの世界を作り変えることができる。音の力は。ぼくは彼女のために世界を滅ぼすこともできる。

「さよなら」

 ぼくは言った。彼女はなにも言わなかった。

 音が失われる。ぱらぱらと崩れるように身体が音符となってあたりに転がり落ちていく。

 ぼくは目を閉じた。身体が死につつあるのを感じながら眠りに落ちる。これ以上ない、幸福な眠りだった。



  /了

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