クレッシェンド
クレッシェンド
夕暮れがたなびいていた。
部室にはもうだれも残っていない。そこにヴァイオリンのすすり泣くような音が響いている。
保坂愛海はどれだけ練習しても上達しない自分の腕に苛立っていた。ほかの子はすこし練習するだけで目に見えて上達していくのに、どうして自分だけそんなふうに上達できないんだろう。才能がないのかもしれない。ヴァイオリンには、音楽には才能がいる。毎日の練習はその才能を伸ばすためのものだと顧問の先生が言っていたことを思い出す。
要するに、掛け算だ。もともと「2」でも「3」でも持っていれば、練習をしてそこに数字を加えていくことで増やすことができる。しかし最初が「0」ではなにを掛けても結果は変わらない。ほかの子たちが「1」でも「2」でも持っているのなら、自分は間違いなく「0」しか持ち合わせずに生まれてしまったんだろう。
かといって、ほかになにかできることもなかったし、やりたいこともなかった。愛海には音楽しかなかった。いや、その音楽すら、ない。本当は空っぽだ。なにもない、透明な人間。
オーケストラ部に入ったのは音楽が好きだったからではない。憧れていた先輩がいたから。
その先輩には才能があった。吉田素子には。彼女は第一ヴァイオリンのトップ、コンサートマスターだった。将来もきっと音楽の道に進むのだろう。愛海は素子のようになりたかった。そのためにひとりで居残り練習をしていたが、ヴァイオリンを弾けば弾くだけ、素子からは遠ざかっていく気がする。
愛海はため息をついてヴァイオリンを下げた。膝の上に置き、学校の備品であるそれをゆっくりと撫でる。濃い茶色の木目。胴体は優美な曲線を描いていて、洗練された楽器という印象が強い。これ以上改善のしようがない、極限まで無駄を削ぎ落とした美しさ。まるで吉田素子のようだと思う。
そのとき、部室の扉が開いた。愛海が驚いて振り返ると、向こうも驚いたような顔で立ちすくんだあと、かすかに笑って部屋のなかへ入ってくる。
「吉田先輩――」
「保坂さん、まだ練習してたんだ。えらいね」
「いえ、わたし、いちばん下手だから」
「そんなに気にしなくていいと思うけどね。所詮、部活なんだし。将来がかかってるならともかく、部活なんだから楽しくいい思い出を作るのがいちばんだと思うけど」
素子はすでに鞄を持ち、帰り支度を済ませていた。なにか忘れ物でも取りにきたのかと思ったが、なにをするでもなく部室のなかを見回すように歩く。その横顔を夕陽が照らしていた。陰影のつき方によって、微笑んでいるようにも、泣いているようにも見える。
「吉田先輩はあんまり練習しなかったんですか」
「いっぱいしたよ。とくに一年のときは。なんにもできなかったから」
「それでいまみたいに上手に?」
「いまも上手じゃないけど、まあ、あのとき練習してなかったらこんなふうにはならなかったと思う。でも、保坂さん、ほんとに音楽っていうか、ヴァイオリンが好きなんだね。ひとりで居残り練習するなんて」
「いえ……」
好きなのはヴァイオリンではなくあなただと言えたら。
もし言ってしまったら素子はどんな顔をするだろう。女子校だから、そういう話がまったくないわけではない。ただ、一般的でないことはたしかで、きっと素子は戸惑うだろう。だから、愛海は自分の気持ちを伝えるつもりはなかった。
素子はそれほど広くはない部室のなかを一周まわり、愛海が座っている椅子の後ろで立ち止まった。
「保坂さん、なにか弾いてみて。いま練習してるやつでいいから」
「はい」
ヴァイオリンを構える。その軽い木製の胴体が、弦に触れるとびりびりとふるえる。ヴァイオリンを弾いていると音が振動であることをなによりもはっきりと感じられた。
ヴァイオリンの響きが身体に振動として染みこんでいく。下手くそな演奏だと、それがむず痒い。うまい演奏はうっとりと夢見るような心地になれる。愛海は、自分の演奏では気持ちよくはなれなかった。いつもどこかに違和感を残したような音。
「そこはね」
後ろから素子が手を伸ばす。
弦に触れていた指を、素子がそっと上から押さえた。
「保坂さん、全体的に音の取り方がすこし下だから、ほんのちょっと上げることを意識して、それからもうちょっと指はリラックスさせたほうがいいよ。必要以上に弦を押さえちゃうと手が疲れて一曲保たなくなるし、移動させるときにも引っかかっちゃうから」
「はい」
素子の指が離れる。暖かい指先だった。愛海は手の力を抜き、五小節ほど弾いて、素子を振り返る。
「うん、よくなった」
素子は笑ったあと、ふと言った。
「保坂さん、来年もオケ部続ける?」
「たぶん――三年になったら、わかりませんけど」
「受験だもんね。うちのオケ部、別に強いわけじゃないし。でもじゃあ、二年のまとめ役は保坂さんに任せようかな」
「わたしに? こんなに下手なのに」
「まとめ役はうまいとか下手とかじゃないの。だれよりも練習してて、だれよりもまじめならそれでいいんだよ。わたしもそうだったし」
「吉田先輩みたいにはなれません」
「わたしみたいにはならなくていいよ。保坂さんらしくできれば、それで――わたしね、保坂さん、今日で学校やめるんだ」
「え?」
「最後に部室を見てまわろうと思ってきたの。保坂さんがいてくれてよかった。鍵、持ってなかったから、入れないかと思ったよ」
なんでもないことのように素子は笑った。愛海は、素子の姿を見て、素子の声を聞いているが、そのどちらも意識に入ってこないような、急に世界と自分とのあいだに透明な壁ができたような気分だった。
素子がいなくなる。
それじゃあ、自分にはなにが残るんだろう? 音楽が好きでオーケストラ部に入ったわけではなかった。素子が好きだったから、同じ部活に入っただけ。ヴァイオリンを選んだのも同じ理由だった。なにもかも素子を基準にして選んできた。それが、急に失われてしまったのだ。
「どうして、学校をやめるんですか?」
「ま、いろいろね」
それ以上言うつもりはないという言葉だった。愛海は口をつぐむ。なにも聞けなかったし、なにも言えなかった。
素子はくるりと踵を返す。
「それじゃあね、保坂さん」
いつもの部活終わりと同じ言葉を残し、素子は部屋を出ていった。初恋が去っていったのだ。愛海はしばらく素子が消えた扉を見つめたあと、再びヴァイオリンを弾きはじめた。出てきそうでなかなか出てこない涙を身体から追い出そうとするように。
次の日、部活では素子が急に学校をやめたという話題でもちきりだった。ただ、話題はそれだけではなかった。素子と同じ日、部活の顧問だった日高という若い男性教師も学校をやめていた。ふたりは同時にこの学校を去ったのだ。それは思春期の少女たちがうわさをするには充分すぎる情報だった。
実際になにがあったのかはわからない。
素子と日高という教師が同じ日に学校をやめたのは偶然かもしれなかったし、必然だったのかもしれない。どちらでもいいと愛海は思う。どちらにしても失われたものが戻ってくるわけではない。
愛海はその後もヴァイオリンを弾き続けた。
音楽の道には進まなかったが、大学の入学記念で親に安価なヴァイオリンを買ってもらい、在学中も、音楽とは無関係の企業に就職してからもヴァイオリンは手放さなかった。
やがて結婚し、子どもができた。忙しかった子育てが一段落し、久しぶりにヴァイオリンを手に取った素子は、自然と涙を流した。そのときはじめて、素子は初恋と決別し、あの夕暮れの部室から出ることができた気がした。
/了
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