音楽詩篇

辺名緋兎

カノン


   カノン



 このところ頭が痛む。

 平時はもちろん、とくに音楽を聞こうとすると、まるで音の粒子のひとつひとつが棘をまとって脳内を飛び回っているように耐えがたい苦痛になる。

 木口久生は音楽を生業としていた。正確には音楽を評論する仕事、だ。自分で音楽を作るわけではなく、他人が作った音楽にああでもないこうでもないと口を出す。昔の、まだ音楽家を志していたころの自分が聞けば下衆な仕事だと蔑むだろう。自分ではなにも作り出せないくせに、他人が作り出したものに文句ばかり言って金を稼ぐ仕事だと。いまでもすこしそう思うことはある。

 久生は音楽家になることをすっかり諦めていた。音楽学校に入るまで、自分にはピアノを弾く才能があると思っていたが、学校では常に落ちこぼれだった。同期入学の連中が奏でる音楽は、それまで必死にすがりついていた夢がばらばらに砕け散る音に似ていた。

 音楽家になることは、ピアニストになることは諦めるしかなかった。もともと、目指す人数に対して社会が必要とする数がすくない仕事でもある。

 だからといって音楽から離れることはできなかった。久生には音楽しかなかった。それ以外のあらゆるものをなげうち、音楽に賭けたのだ。賭けには負けた。しかし人生は続く。生きていかなければならない。音楽を利用してでも。

 ピアニストの才能はなかったが、評論家の才能はあったらしい。久生は自虐的に思う。はじめは発行部数もそう多くない音楽雑誌の片隅に新譜のレビューを書いた。それは対して評判にもならなかったが、次に書いたレビューで当時有名だったある音楽家の新譜をこき下ろすと、すぐに別の雑誌から声がかかった。それからは有名無名問わず、とにかく相手をこき下ろす悪口専門の評論家になった。

 他人の芸術品にケチをつける仕事だったが、生活は豊かになった。結婚もして、子どもも生まれた。養っていくためにはさらに他人の悪口を書きなぐる必要があった。久生は、音楽家や熱心なファンからは嫌われていたが、世間からは好かれていた。ときにはテレビに出てコメントをすることもあったし、久生の批評はたしかな音楽的知識と技術論に裏打ちされていたから、まったく的外れというわけでもなかった。

 久生はずっと自分のそんな生き方を自虐的に感じていたが、やがて悪くはないのかもしれないと思うようになった。

 そのつけが回ってきたように頭痛がはじまった。

「病院で検査をしてもらったほうがいいんじゃない?」

 妻は幼子を抱きながら眉をひそめる。

「頭は怖いわ。脳梗塞かなにかかもしれないし」

「そうだな、病院へ行ってくるよ」

 久生は、妻は自分の心配というより、自分が脳梗塞かなにかを起こして障害でも残った場合の生活の心配をしているのだと思った。そのことについて妻を非難する気にはなれなかった。久生はもう中年という頃だったが、妻はまだ若く、美しい。自分には不相応な女だった。肩書が、あるいは収入がかろうじて自分と妻を対等にしている。

 病院で脳の検査を受けたが、異常はどこにもなかった。耳も正常だった。それなのに頭痛はやまず、ひどくなる一方だった。

 ほんのすこしでも音楽を耳にすると立っていられないほどの頭痛を覚える。テレビから流れてくるBGMや、出先の店で流されているそれでさえだめだった。

 医者にはストレスだろうと言われた。評論家の仕事をすこし休んで、しずかな場所で休暇を過ごせば自然とよくなるだろうと言われ、そのとおりに都内での仕事をすべて切り上げて別荘地に逃げ込んだ。

 最初の数日は医者が言うとおり楽だったが、一週間も保たないうちにぶり返し、今度は静寂にも耐えられなくなった。

 四六時中頭痛がする。脳みそに無数の針を突き立てられるような痛み。それでも仕事はしなければならなかった。

 久生は世話になっている雑誌社を通し、一通の手紙を受け取った。ピアニストを目指している若者から、自分の音楽を評価してほしいという手紙だった。珍しい内容だったし、プロの作品を集中して聞くことができないいま、アマチュアの音楽をすこし評価するくらいのほうが楽だろうと考え、手紙に記された場所へ行くことにした。

 そこは都内のほんのちいさな練習スタジオだった。

 半地下のようになった入り口を過ぎると、無数のポスターが貼られている壁が出迎える。アマチュアバンドのポスターがほとんどで、バンドメンバー募集も多い。どちらかといえばバンドマンの練習場所で、ピアニストには向いていないようなところだった。

 練習スタジオの扉を開けると、グランドピアノだけでほとんどいっぱいになるような狭い部屋だった。

 そこに手紙の差出人である高岡夏未という若い女が待っていた。

 まだ二十歳にもなっていないくらいで、セーターにロングスカートという格好でピアノの前に立ち、久生にゆっくりと頭を下げる。

「まさか、本当にきていただけるとは思いませんでした。お忙しいのに、ありがとうございます」

「いや、それは構いませんが――あんな手紙をもらうのも珍しいことでね。私は基本的に悪口しか書いていないから、そんな私に自分から評価してほしいなんて奇特な人間はそう多くない」

 高岡夏未はかすかに笑い、さっそくピアノの前に座った。

「きみは」久生は壁に寄りかかり、頭痛のために顔をしかめる。「ずいぶん低く座るんですね」

「くせなんです」

「グレン・グールドのようだ。彼は美青年だった。あなたも美女ピアニストとして売り出したらいいかもしれませんね」

「私のピアノがグールドのように美しければそれもいいかもしれませんけど」

「なに、一般大衆というのは、ピアノの音色の美しさ、音楽的崇高さなど理解できませんよ。これは一般大衆を貶めて言うのではない。プロの音楽家でさえ、そのことを理解できる人間は数少ない」

「木口先生はそれを理解されていらっしゃるんですね」

「私などだめですよ。悪口を書くしか能がない。もし私が音楽的崇高さを本当の意味で理解できていれば、評論家にはなっていないでしょう。グールドのようなピアニストになっていたかもしれない――ところで、なにを弾くんです」

 ショパンかなにかだろうと久生はぼんやりと想像していた。いかにも若い女性が好きそうな選曲だ。しかし彼女が弾きはじめたのはショパンではなかった。

 カノン。有名なパッヘルベルのカノンだった。ピアノの音色がゆっくり下降していく。

 久生はその音に頭痛をひどくさせながら首をかしげた。クラシックに馴染みがない人間でも知っているような有名な曲ではあるが、ピアノの腕前を見てほしいというときに弾くような曲ではない。クラシックよりはポピュラー音楽に近いような、非常に明快な進行を持つ曲。

 高岡夏未は通常よりも低くした椅子に座り、じっと鍵盤に目を落としている。その横顔は髪に隠れて見えなかった。

 本来は三声で繰り広げられるカノンだが、右手と左手の二声に省略されている。彼女のピアノがうまいか下手かはわからなかった。この程度なら、すこし練習すればだれでも弾けるようになる。

 なにか奇妙だと久生は思う。その疑念に反応したように彼女が弾くべき鍵盤を間違えた。明確だったカノンの流れに不協和音が混ざる。

 たったひとつ、投げ込まれた不協和音だったが、しばらくするとまたひとつ、またひとつとミスが増えていく。久生は言いようのない不安を覚えた。聴き馴染んでいるシンプルで美しいカノンの響きが、まったくちがう怪物に変わろうとしているような。

「きみは、なにを弾いているんだ。ミスばかりじゃないか」

「ミスじゃありません、木口先生」

「なに?」

「これはこういう曲なんです」

 カノンが崩れていく。

 不協和音が交差し、繰り返され、わけのわからない音の連なりへ変化していく。

 美しい女が朽ち果てていくような、あるいは美しいと思っていた風景が本当は地獄だったと知らされるような、胸の奥がざわついてじっとしていられなくなるような音楽だった。

 頭が痛い。割れるようにうずく。久生は額を押さえて防音の壁に手をついた。それでも音楽は途切れなかった。すでにカノンの形式だけ残し、美しさはすべて追い払われてしまった不協和音の連鎖。ひとつの不協和音が別の不協和音と重なり合い、よりひどい音になって襲い掛かってくる。

 高岡夏未は背中を丸めて鍵盤にかぶりつくような姿勢でピアノに向かっていた。狭い部屋にグランドピアノの音が何重にも響く。世界が崩壊していく音のようだと久生は思う。頭痛と眩暈で立っていられない。その場に膝をつく。

「もうやめてくれ――その曲を弾くのは」

「聞いたことありませんか、木口先生。この曲を、一度は必ず聞いているはずです。もし聞いていないのだとしたらあなたは最低限の誠実さも持っていない人間だということです」

「なにを言っているんだ。こんな曲は知らない。いや、こんなものは曲じゃない、ただの不快な雑音だ」

「そう、あなたはそう言った。父はあらゆる感情を音として表現しようとしていた。あなたはそれをまったく中身のない、まるで音符をでたらめに並び替えただけの雑音だと雑誌に書いたんです。父は絶望し、それから何度もこの曲に手を加えて徹底的に憎悪を重ねた」

「高岡――」

 駆け出しの評論家だったころ、そんな新人音楽家の曲について評論を書いたことがあったような気がする。しかし思い出せない。頭蓋骨を突き破ってなにかが飛び出してきそうな頭痛。久生は発狂したように叫び出した。高岡夏未はげらげらと笑いながら鍵盤を叩く。

「父は死にましたよ、先生。最後まであなたを呪いながら。私は父の呪いを引き継いだんです。必ずあなたの目の前でこの曲を演奏すると父に誓いました。これほど早く叶うとは思いませんでしたけど――」

「私は知らない。やめてくれ、もうやめてくれ――気が狂う、私は」

 これは音楽ではない。憎悪そのものだ。ある若い音楽家が持ちうる憎悪と才能をすべて注ぎ込んだもの。音という形を取った憎悪が頭のなかに入り込んでくる。久生はなんとかこの音をかき消そうと意味のない言葉を叫んだ。高岡夏未は激しく鍵盤を叩き、ピアノからはそれ自体がばらばらに壊れていきそうな音があふれ出してくる。

「あなたにはこの曲を最後まで聞く義務があるんですよ、先生――あなたが殺した男がなにを考え、どんな曲を作ったのか、あなたは知らなければならないんです。父はあなたを呪い、音楽を呪い、そして――」

 彼女がひときわ強く鍵盤を叩いた。久生は音で体中を殴られたようにぐったりと壁に寄りかかっていた。

 音が止む。嵐のような憎悪が反響も残さず消えていく。そして最後に、美しいカノンの調べが戻った。

「――そして父は、最後まで音楽を愛し、希望を抱いていたんです。あなたも音楽が好きなら、ただ音楽を傷つけるような批評はやめてください。きっとそれが父の望みなんです」

 通常よりもはるかにテンポを落としたカノンが久生の身体に染みこんでいく。久生はふと顔を上げた。いつの間にかカノンはやんでいた。高岡夏未も、もうそこにはいなかった。一台のグランドピアノが蓋を開けられたまま置かれている。

 久生は夢から覚めたような気分で立ち上がる。頭痛は消えていた。久生はゆっくりとスタジオを出て家へ帰った。

 それから、木口久生という名前はどんな雑誌にもテレビにも現れなかった。彼は音楽評論家としての活動をやめ、その代わり、自宅にピアノを入れて匿名で音楽活動をはじめた。

 音楽家としては大成しなかったが、彼は幸福に生き、やがてピアニストになった息子の音楽を聞きながら永遠の眠りに落ちた。



  /了

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