「Q」uit, Bye.

「あら? 栞、変えたの?」


 新垣綾香は、ベッド脇のテーブルに置かれた文庫本に挟まれている栞を見てそう言った。


「ん……?」


 ドライヤーで髪を乾かしていた美晴若菜には綾香の声は聞こえなかったようだったが、綾香が栞を見ていたことから、彼女がなにを疑問に思ったのかを察した。

 ドライヤーを止めて、若菜は応える。


「ああ、それね。図書室によくくる子にあげちゃったの」

「それって、前に話してた、いっつも若菜のことを見てたっていう、例の?」

「そ。もう卒業する子だったし、記念、かな」

「ふぅん」綾香は新しくなった栞をつまむ。「逆に、かわいそうなんじゃない?」


 若菜はそれには返事をしなかった。

 そもそも、あまり意味を考えてした行為ではない。喜ぶかもしれないな、と思っただけだ。

 なにかを期待させるようなことを想像しなかったと言えば嘘になる。

 けれど、真の意味では応えることはできない好意を、応えることのできる範囲で応えるのは、決してとがめられたものではないとも思っていた。


 綾香は、若菜が返事を返さなかったことはとくに気にも留めず、そのままベッドにあおむけに身体を沈め、若菜の寝支度が終わるのを待つ。


 綾香のワンルームの部屋は、最低限の生活ができる家具以外はほとんどが引っ越し用の段ボール箱の中に納められていた。

 四月になれば、綾香と若菜は、同じ住まいで生活をはじめる。

 パートナーシップ制度。

 二人の関係に、ひとつの足場を与えるかもしれない制度を、二人は利用してみることにした。


 二人の関係を知らせていた人物は少ない。

 それでも、生活が変われば公的、社会的な手続きは必要になる。

 二人のことを知らせた上司の反応は、決して悪くなかったが、良くもなかった。

 個人的には祝福する、とは言ってくれたが、立場としては非常に難しい、と正直に言われた。そう言われたことはむしろ幸いではあったと、二人は思う。

 結論として、上司以外の誰にも二人の関係を告げないままで、四月からの若菜の職場だけが変わる。

 すまない、と上司は言った。

 しかたがないと二人ともそれを受け入れた。二人の関係のことは、関わるひとびとにきちんと事情を伝えるには、時間が少なすぎた。


 若菜はドライヤーを片付けると、ベッドに腰かけ、綾香の頬にそっと触れた。

 じっとなにかを考え、それからゆっくりと口を開く。


「でも、せっかく好意を寄せてくれたのなら、それには答えてあげたいと思う」

「――それが、叶わないとしても?」


 綾香の問いに、若菜はまたしばらく沈黙をしてから応える。


「……誰かを想うとき、必ずしもちゃんと理由がつけられないこともある。合理的じゃないことだってある。一目ぼれのように好きだと感じたり、共通点を見つけて嬉しかったり、身体が相手を欲したり……わたしだって、綾香をどうして好きになったかなんて、うまく言葉にできない。女どうしに限らなくたって、人の気持ちなんて、関係の仕方なんて、複雑すぎて、無理に言葉にしてしまったら取りこぼしてしまうものがたくさんある」


 若菜は綾香の頬から手を離すと、栞を挟んだ文庫本を見る。


「あの子だけじゃない。学校のなかにいる子たちは、みんなそれぞれ、いろんな人間関係を抱えていて、それがときに、つよい憧れや恋心に発展したりすることもあると思う。それは学校っていう閉鎖的な環境で生まれた一時的な、熱にうかされるみたいなもので、すこし成長すれば霧散してしまうのかもしれない。もしくはわたしたちみたいに、そのままかけがえのない自分自身の姿として抱えつづけるのかもしれない。抱え続けても、本人の願う通りには、ならないかもしれない。……わたしたちは、そのすべての終わりまでを見届けることはできない」


 でも――、と、言いながら、若菜は綾香の指に自分の指を絡める。


「それでも、想いを抱いたその瞬間だけはかならず、本物。わたしにも綾香にも、だれにも平等。それは、祝福してあげたいと思うの」

「――そうね」


 綾香はやさしい声でそう返事をして、毛布を開いて若菜を招いた。

 明かりが消され、二人は無言のままベッドの中で身を寄せる。

 静寂の中、二人のつないだ手は、この瞬間、たしかな温かさを保っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

縁環恋鎖 kenko_u @kenko_u

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ