16.美晴若菜の場合
「新垣、先生?」
保健室を訪れたところ、ベッドで眠る女子生徒をうっとりした顔でのぞきこむ綾香の姿が目に入ったので、わたしはすこしいじわるな含みをもたせた声でそう言った。
「……起こそうとしただけよ」
綾香は長い黒髪の向こうからわたしを見て、すこし口をとがらせてそう言った。
わたしの指摘に対して抗議しているのか、それともお楽しみの時間を奪われたことへの不満か。
わたしはひとつ溜息をつく。
「ううん……」
わたしたちの会話で目が覚めたのか、ベッドの上の女子生徒がうめき声をあげる。
その瞬間に、わたしも綾香も教諭としてのスイッチを入れた。
「秋田さん、体調はどう?」
綾香の声は仕事のときのやわらかいそれに変わる。
「……大丈夫みたいです……いま、何時ですか……?」
「六時前よ」
「えっ、もうそんなに遅いんですか」
「よく眠っていたみたいね。体を起こして大丈夫なら、心配はないとおもうけど。なにかあったら、きちんとお医者さんへ行ってね」
「はい」
女子生徒はゆっくりした動きでベッドから降りて、鞄をとると、入口のところで「ありがとうございました」と言って、保健室から出て行った。
わたしは、その後ろ姿が見えなくなるまで眺めてから、保健室のなかに入る。
「あがれそう?」
「ええ、これを書いたら」
話しかけた私に対し、綾香は日誌を見つめたままで応える。
「じゃあ、先にロッカー、行ってるから」
「ん」
わたしは保健室のドアを閉め、ロッカールームへと向かった。
ロッカールームで待っていると、数分ののちに綾香がやってきた。
「さっきの子は?」
「教室で倒れたみたい。貧血……だと思うんだけど。健康状態に特別なことはない子だから、生理とか寝不足とか、タイミング悪く重なったのかもね」
綾香は脱いだ白衣をロッカーにかけながら答えた。
清潔の象徴である白を脱ぎ、その下からはごく普通にうすいブルーのブラウスと濃紺のスカートを着る綾香が現れる。
養護教諭から一般人に戻る瞬間。
――この瞬間を見れるのはわたしか、わたしとおなじ教諭の立場にあるものだけだ。
養護教諭というのはある種、生徒にとっての憧れの存在だと思う。
少なくとも、自分が子どものころにはそうだった。
怪我や病気など、なんらかの事態が起こらなければ関わることが許されない存在。
白衣を身にまとって、清潔に保たれた保健室を居城としているところが、また特別感を引き立てるじゃないか。
その特別な養護教諭の一般人としての顔を見る。
まるでアイドルを独り占めするような、ちょっとした優越感。
ロッカーを出て、挨拶をしてくる生徒たちに返事をしながら、わたしと綾香は校門へと歩いていく。
校門を出て数十メートル歩いたところで、わたしと綾香は同時に教諭としてのスイッチを切った。
「ふぅ。今日も一日終わったわね」
「夕飯、どうしようか?」
「ふむ」
綾香はしばしのあいだ空中を見つめて考える。
「冷蔵庫のなかが乏しいわ。スーパーに寄りましょ」
「オーケー」
私たちはヒールの音も軽やかに、駅への道を歩いていった。
綾香の最寄駅で電車を降りると、駅前のスーパーで食材を買い込む。
活気のある商店街を抜け、閑静な住宅街に入り、数分歩いた先に綾香の住まいがある。
単身女性向けのオートロックマンションだ。
私は綾香から鍵を預かると、綾香が郵便ポストをチェックしているあいだに部屋の鍵をあける。
扉を開けると漂ってくる、綾香の匂い。
それにも、もう慣れた。
扉を半開きにして綾香を待つと、すぐに靴音が近づいてくる。
「ありがと」
綾香が部屋に入り、わたしはドアを閉じて、ロックをかける。
綾香は靴を脱ぐと、そのままわたしのほうに向きなおり、顔を寄せる。
「……ん」
わたしと綾香はごく自然に軽くおたがいの唇を重ね、おたがいに微笑みかけ、パートナーとしてのスイッチを入れると、それぞれ部屋の奥へと進んだ。
――この瞬間を享受できるのは、世界でひとり、私だけ。
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