エピローグブリッジ.AとBとC

   終幕エピローグブリッジ AとBとC


 秋晴れの下、ようやくと言った風体で美術室の修復工事が着工した。

 裏庭を無骨な建築業者が入れ替わり立ち代わり、崩れた瓦礫を撤去する代わりに新たな基礎を築き、鉄骨を組み立て、コンクリートの壁を塗り固める。

 美憐は建築資材を間近で見るのは初めてだったため、最初は異様なものを見るような目で外から眺めていたが、次第に校舎が復元して行くにつれて、その色眼鏡はすっかり剥がれ落ち、感服と感銘と感動に魅入られていた。


「建築も『美術』の一つだからな」


 とは、渡の弁である。

 今日も今日とて放課後まで居残り、屋上でつらつらと油絵を描いていたらしい。画材一式を肩に下げた油臭い彼のブレザーが横に並んだとき、美憐はやっと、もう日没寸前の夕方六時過ぎであることに気付いた。


「もう、こんな時間?」

「工事業者も残業を終えて、帰る支度をしているだろ」


 渡が呆れたように顎をしゃくった。

 言われてみれば、大工たちは周囲の清掃や荷物の片付けに取りかかっている。

 美憐は改めて現実に引き戻された。

 すっかり夢中になっていたようだ。


「物を創る醍醐味を、目の当たりにしたか?」


 渡が揶揄するように呟いた。

 嫌味と言った方が正しいかも知れない。美憐は肯定も否定もせず、むすっと頬を膨らまして「うるさいわね」とつっけんどんに返すのが精一杯だった。

 渡は返事せず、遠い眼差しで裏庭を見渡す。


「美術の面白さは、そこにある。物をデザインする設計、実際に作成する工程、そして完成したときの達成感……何よりも、依頼主に完成品を提供したときの笑顔と感謝は、格別だ。美術は決して道楽ではない。ましてや人の笑顔を裏切って良いものでもない。そのことを今、僕は誰よりも痛感している」

「アホくん――」


 恐らく『色彩術』のことを言っているのだろう。色の本質は、人を幸せにする笑顔だ。

 そろそろ引き上げるぞー、と大工の棟梁が部下に号令をかけている。渡は遠目に見やりつつ、やるせなさに肩を落とした。

 その拍子、背負っていた画材がずり落ちそうになるのを、美憐が咄嗟に支えてやる。


「何よ、元気ないわねアホくん」

「アホと阿保は字が違う」画材を受け取る渡。「物は直せる。新しくデザインし、色を塗れば修復できる」らしくない嘆息。「だが、人は――」

「おーいお前ら、まだ残っていたのか!」

「!」


 やおら、三輪の声が迫って来た。

 振り向けば、校舎裏の職員用玄関から美術教師が手を振っている。恐らく帰宅する所だったのだろう。そんなときに裏庭で佇む二人組を発見し、声をかけたに違いない。


「あ、先生」居住まいを正す美憐。「もう具合はよろしいんですか?」


 具合。

 意味を多分に含ませた問いかけに、三輪は邪気のない照れ笑いで答える。


「おお、何とかな……しかし妙な気分だな。あの日、朦朧として卒倒したのは覚えているんだが……医者は原因不明と診断した。日々の疲れが溜まっていたんだろうか」

「記憶の方は?」

「それも曖昧なんだ。どうもここ一ヶ月の出来事があやふやで、うまく思い出せん」


 三輪は本気で頭を抱えている。

 それもそのはず、彼は渡に打ち負かされた後、現場へ駆け付けた聖人の『自然連鎖色』ナチュラルハーモニーによって、色彩術に関するあらゆる能力と記憶を『調和』され、心神を喪失させられた。

 あからさまな隠蔽工作だが、世の中には知らない方が幸せなことも多々あるのだ。


(あたしが以前、アホくん宅で意識を失ったのも、聖人さんの心神喪失だったのね)


 三輪に罪はない。渡も美憐も悪くない。

 諸悪の根源は、知恵トモエなのだから。


「お姉ちゃん、今頃どうしてるかな」

「……さぁな」

「あと、病院送りになった美術部の人たちも――」

「そっちは聖人にいさんに任せてある。あの人なら、僕らが復讐に用いた『幻術』イリュージョンを綺麗さっぱり中和して、近日中に部員は正気に戻るだろう。古都と馬里は無理だろうがな」

「せめてもの罪滅ぼし、よね……」

「気に病むな。奴らも悪行を重ねたし、僕らも騙されていた被害者なんだ」


 二人は小声で言葉を交わす。

 知恵トモエとの決別に、思いを馳せる――。



 ――あの日、捕縛された知恵トモエの身柄は、いったん聖人の手に預けられた。

 知恵トモエは手足に厳重な枷が嵌められ、目隠しまでされている。こんな身なりで連行したら人目に付かないか、と美憐は危ぶんだが、それは余計なお世話だったようだ。


「光学迷彩で姿を背景に自然と溶け込ませればーぁ、誰にも見付からずに済むだろー?」


 のほほんととんでもない技能を述べる聖人だったが、それも『自然連鎖色』ナチュラルハーモニーの色彩効果なのだろうか。色彩術には違いないが。


「ぅくっ……」身をよじらせる知恵トモエ。「鬼ですね、お兄様は。私をこんな目に遭わせるなんて。あの忌々しい阿保一族の総帥へ、私を差し出すつもり?」

「これも仕事だからねーぇ」

「鬼! 悪魔! 人でなし!」

「おぉーっと、実の妹に罵倒されると耳が痛いなーぁ。でも、慣れればそういうプレイとして快感に変わるかなー? もっと罵ってくれ! 蔑んだ目で! アハハー」

「変態! 変態! 変態!」

「それくらいにして下さい、知恵トモエさん」


 渡が横槍を入れた。

 静まり返った美術室内に、瓦礫の隙間から陽光が射し込む。スポットライトよろしく照らし出された渡と知恵トモエ、それを見守る聖人という構図は、渡にすがり付きたくて仕方がない美憐の手さえ思いとどまらせる結界があった。


「僕は、あなたに失望した。敬愛するあなたは、もう居ない。せめて最後くらい、往生際をわきまえて下さい」

「何を言うの……渡くんなら理解できると思っていたのに」

「理解って、何がですか」

「私は阿保家に人生を狂わされたのよ。そしてあなたも、そんな阿保家に愛想を尽かしたのでしょう?」

知恵トモエさんの気持ちは判る。同情もする。けど、だったらなぜ、あなたは『阿保』姓を名乗るんですか」

「!」

「あなたは結局、阿保家の力に憧憬していただけなんだ。ネームバリューにすがって、自己顕示欲を満たしたかっただけなんだ」

「それは……」

「でも、あなたはもう阿保家ではない……そして、増場家の人間でもない」


 言い切った。

 たちまち知恵トモエの剣幕が、みるみるうちに絶望へと落ちぶれた。

 目隠しされていても判る。彼女はあからさまにうなだれ、頬の筋肉をゆるめ、艶やかな唇をだらしなく半開きにさせた。

 阿保家からは敵と見なされ、増場家では死んだことになっている。

 ――知恵トモエに、居場所はない。

 彼女はもう、行き場がない。

 阿保でも増場でもない、名無しの知恵トモエ――。

 美憐は、そんな姉を漠然と見つめていた。

 屈辱に打ちひしがれ、闘いに敗れた負け犬の姉を、哀れむような目で眺めていた。


「……お姉ちゃん」


 そして、つい喉が震えた。

 美憐は話しかけざるを得なかった。

 理屈ではなく、衝動が口を突いて出た。


「――何」見向きもしない姉。「そこの渡くんも言ったでしょう? 私はもはや、どこにも帰属しないただの知恵トモエ……あなたの姉でも何でもないわ」

「そんなこと、ない! お姉ちゃんはお姉ちゃんだよ」

「でも」

「そりゃあ、お姉ちゃんのしたことは大きな過ちだったと思う……けど」

「けど?」

「それを言ったら、あたしやアホくんだって同じ穴のムジナよ! お姉ちゃんにそそのかされたとはいえ、美術部を壊滅させたのよ? 他人を批判する権利なんてないわ!」

「……確かに」顔をしかめる渡。「まさか美憐から正論が出るとは……」

「今も、美術部員や古都歩、馬里月乃は入院中よ。例え騙されたとしても、あたしたちも手を汚した悪人だわ! 同類よ! 決して潔白なんかじゃない――」

「あーぁもう面倒臭いなーぁ」


 聖人が痺れを切らした。

 いつまでもうだうだと知恵トモエに構いたがる二人へ、業を煮やしたらしい。積もる話があるのは判るが、監査役として、兄として、聖人は幕を引かねばならない。


「ワタシは私情ぉーを殺して仕事してるのに、どぉーして君たちばっかりベラベラ喋るんだろーね渡くぅーん?」

「知るもんか」そっぽを向く渡。「だが、美憐の話も頷ける。確かに、このまま知恵トモエさんを捕まえてめでたしめでたし……というのは、虫が良すぎるかも知れない、とは思う」

「へぇー。その心は?」

「阿保家に従いたくない。知恵トモエさんの身柄を引き渡したら、阿保家の思うツボだ」


 言うが早いか、渡は聖人が握っていた縄を奪うと、素早く引きちぎった。

 ついでに知恵トモエの手枷と足枷も叩き割って、目隠しも外してやる。

 聖人は抗議しようと勢い込むも、渡の形相を見た途端、何かを察して凝り固まる。


「……どういうことなの?」


 まぶたをぱちくりとしばたたかせる知恵トモエの驚愕は、素直な本心だったのだろう。

 その表情は誰よりも純朴で、あどけなくて、年相応の乙女に立ち戻っていた。

 かつて憧れた頃の、増場知恵ちえだった。


「早く逃げてくれ」


 渡は囁く。

 背中を押して、美術室の風穴から外へ導く。


「これが最後のチャンスだ。僕は今しか、あなたに情けをかけられない」

「私を……見逃す気? 里を追われ、報復すら満足にこなせなかった私を放免するの?」

「そうだ」極力目を合わせない渡。「あなたは敗北し、罰と恥辱を受けた……だから、これからはひっそりと、誰にも関わらず、術も使わず、みじめに生きて、みじめに暮らせ」

「…………っ!」

「僕にも、美憐にも、近付くな。それが条件だ」

「それは、元許婚だった私への憐憫?」

「さぁね」


 渡はそれ以上、口を利こうとしなかった。

 知恵トモエの質問は図星だったかも知れないし、単なるお目こぼしかも知れない。だが、何らかの酌量の余地は感じたらしい。それは、昔のよしみとも言えるものか、あるいは――。

 いずれにせよ、渡の気が変わらない今しか、恩赦される機会はない。


「あたしも賛成する!」渡に寄り添う美憐。「お姉ちゃん、阿保家に連行されたら絶対、闇に葬られちゃうよ……そんなの悲し過ぎる! 耐えられない!」

「……後悔するわよ? 私は諦めない……素直に引き下がると思ったら大間違いよ」

「阿保家の言いなりよりは、益しだ」

「私が完全に『色彩術』を使いこなせるようになったら、今度こそあなたたちはおしまいなのよ! 私は生きている限り、自由である限り、あなたたちを狙い続ける!」

「僕たちも強くなる。絶対に負けない」


 渡は飄々と告げてから、愕然と立ち尽くす知恵トモエに背を向け、聖人と正対した。

 傍らの美憐と仲良く並んで、堂々と物言いを付ける。


「ということで良いかな、聖人にいさん?」

「しょーがないなーぁ」わざとらしく頭を掻く聖人。「まぁーワタシも兄として思う所があるしーぃ、当事者の君らが納得済みなら、無理に妹を裁く必要はないかもねーぇ」

「恩に着ます、聖人にいさん」

「上への報告はどーしよっかな。撃退するも捕獲は叶わず、って感じが無難かなー……」



「――お姉ちゃん、今頃どうしてるかな」


 校舎から引き上げる大工の群れを見送りながら、美憐は感慨深く吐き捨てた。

 渡は逆に素っ気なく、感情を押し殺して回答する。


「さぁな……だが、罪を背負って、隠遁してくれることを祈ろう」

「うん」前を向く美憐。「お姉ちゃんを狂わせた美術だけど、今は家も人生も失って、逆に美術しかないのよね……正しい使い方に気付いて、穏やかに過ごして欲しいな」

「あの人なら、きっと気付くさ。それまではせいぜい、僕を標的にしてくれればいい」

「アホくん……もしかして自分が矢面に立つことで、お姉ちゃんに生きる目標を――?」

「べ、別にそうじゃない。勘違いするな、あと僕は阿保だ」

「あはは、アホくんが赤くなってる。珍しい」

「黙れ! これだからお前は――」


 頑なに否定する渡だったが、美憐にはそうとしか思えなかった。

 だから、そう信じる。信じ続ける。

 それが、知恵トモエを逃がした渡と美憐の責任だろうから。

 美術が持つ無限の可能性に、賭けてみたいと思ったから――。


「おいおい、何だ二人とも、何の話だ?」


 三輪が二人の間へ、鬱陶しく首を突っ込んで来る。記憶を失った彼にしてみれば、自殺した知恵トモエの話題など意味不明だったに違いない。


「いえ、こっちの話です」

「怪しいなお前ら……とにかくもう下校しろ。教師の俺でさえ帰りたくて仕方ないのに」

「先生」


 裏門へ踵を返す三輪の背中に、美憐が意を決して挙手した。

 今度は何だと首を巡らせる美術部顧問に対し、決然とした面持ちで対面する美憐がとても美しく、可憐だった。


「先生にお願いがあるんですけど」

「もう遅い。明日にしろ」

「あたしも美術部に入部します」

「……何ぃ!?」



 ――だから今、美憐は色彩学を勉強している。

 自宅でも学校でも、所構わず。

 今日も、登校すると同時に一冊の参考書を取り出した。全て渡から提供された書物であることは、言うまでもない。教室で熱心に読みふける。


「まさか美憐が『色彩能力検定』の過去問題集を欲しがるとはな」

「うん」熱心にページを繰る美憐。「漢検みたいなものでしょ? 色の検定試験なんてあったのね……色彩理論を学ぶにはもってこいだわ」

知恵トモエさんを見習って、か?」

「あやかるため、よ」じろりと睨む美憐。「そして、追い付くため」

「どう違うのか判らないんだが」

「判らなくていいの」


 それきり美憐は黙りこくって、粛々と問題を解いて行く。

 色彩能力検定は一~四級まであり、文字通り色彩学の知識を測る試験である。一流の美術家やデザイナー、アパレル業者を中心に取得者が急増中の、隠れた人気検定だ。


『問一.アメリカを代表する三大色彩学者カラリストA・B・Cとは誰か、答えよ』


(三大カラリスト……ABC?)


 美憐は頭を掻いた。

 暗記系の問題は、知らなければ答えられない。やむを得ず模範解答を参照する。席の後ろで渡が鼻で笑ったような物音がしたが、気にしてはいけない。


『A……ボット(A・G・アボット)』

『B……レン(フェーバー・ビレン)』

『C……ェスキン(ルイス・チェスキン)』


「え? こ、この名前って!」

「どうした?」


 たまらず声を上げた美憐に、渡が怪訝そうな顔で解答欄を見入った。

 慌てて「何でもないわ」と取り成したが、美憐の目は模範解答に釘付けである。


(アボット……阿保渡アボット?)


 読み仮名を変えると、そう読めないこともない。

 それはまさに、さんざん渡が言及していた『見立て』ではないか!

 ――なるほど、アホではなくのも頷ける。


(フェーバー・ビレン……増場フェーバー美憐ビレン


 地平がどんどん開けて行く。

 こじつけに過ぎない、語呂合わせに過ぎない偶然の符合かも知れないが、美憐はこのとき確かに『色彩術』の在り方や関連性を目撃していた。


(最後のチェスキン……お姉ちゃんの名前は知恵ちえ……頭脳明晰で憧れの的だった女神様)


 本来の読みはトモエだったが、美憐の前では『知恵ちえ』だった。

 美憐も渡も、そんな知恵ちえが好きだった。

 知恵が好き。

 知恵好きチェスキン


(そういうことだったのね……)


 AとBとC。


「おい美憐。妄想にふけっている所、悪いんだが」

「ん? 何よ?」

「先生が来たぞ」

「あ!」


 顔を上げると、今まさに三輪が教壇へ登る最中だった。

 学校中に予鈴が響く中、美憐は大慌てで問題集を鞄に突っ込む。焦るあまり本の角を盛大にぶつけ、ぐにゃぐにゃに折ってしまったのはご愛嬌か。


「あっごめん、本に傷が付いちゃった」

「お前な……いや、今はいい。後で言う」

「怒らないでよ、阿保くん」

「誰も怒ってな…………ん? 今、お前、僕のことを何て呼んだ?」

「別に~?」


 美憐はしれっと前を向いた。


「いや、確かにお前は今、僕のことを苗字で――」

「あーもううるさいな! あなたもさっさと席に着きなさいよ!」

「顔が赤いぞ」

「いいから座れぇ!」


 あからさまな照れ隠しで、つっけんどんに突き放す。それでも渡はぶつくさと文句を呟いていたが、さすがにクラスメイトが続々と着席する中、一人だけ突っ立っているのは視線が痛かったのだろう。不承不承ながら自席へ戻った。

 三輪が悠然とホームルームを開始する。ただし渡だけは、起立と礼をする間も、ちらちらと美憐の様子を窺っていた。

 美憐はそれを意地悪っぽく無視しながら、せいぜい心の中で舌を出す。

 姉に免じて、これからはきちんと呼んであげよう。

 苦楽を共にした相棒として。

 自分たちを救ってくれた恩人として。

 何よりも、初めて恋した異性として――。


(――これからもよろしくね、?)









お読みいただき、まことにありがとうございます。ご感想をお待ちしております。

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絵・美・死~ABC~ 色の魔術師 織田崇滉 @takao

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