C‐3.決着

   C‐3.決着


(アホくんが来てくれた……!)


 怖かった。

 心細かった。


(助けに来てくれたんだ……!)


 そんな美憐の心の隙間を、埋めてくれる人が現れた。

 ちょっと斜に構えていて、自分の力が絶対だと思っていて、決して美憐の意見を聞き入れてくれない唯我独尊を信条としている男子だけど、いざというときは見捨てずに手を差し伸べてくれる。


「アホくん……!」

「アホじゃなくて阿保だと言っているだろ。怒るぞ」

「ああっごめんなさいアホくん!」

「……もういい。話すだけ無駄だ」


 苛立たしげに舌を打つ姿も、今となっては頼もしいことこの上ない。

 美憐にとっての救世主。

 救いに現れた王子様。

 姉の自殺(自演)以来、ずっと美憐は彼のことを気にかけ、意識して、いつの間にか羨望と憧憬を込めるようになった『光源の調整士コーディネーター』――。


「――ありがとう! あたし、あたし、何てお礼を言えば良いかっ」


 あれほどすくんでいた足腰が、自然と活力に満ちて動かせる。

 そして、彼に吸い寄せられる。

 抱き付く。

 正面から。

 全身全霊を込めて。

 ちょうどそれは彼の胸に飛び込み、顔をうずめる体勢だったのも具合が良かった。

 渡の胸板は細いが、温かくて頼もしい。

 制服ごしに伝わる、渡の心音が気持ち良い。


「お、おい美憐、何をしている、離れろ、まとわり付くな鬱陶しい!」

「やだ!」

「やだ、ってあのな……密着すると、お前の乏しい胸でもそれなりに当たるんだが」

「いいわよそれくらい! 今ならパンツだって好きなだけ見せてあげるから! だからもう少し、こうさせて。このままで居させて。お願い」

「~~~~……っ」


 すがるような懇願だった。

 仮にも女性から言い寄られては、渡も邪険に扱えないのだろう。美憐にしがみ付かれたまま、なるがままだった。彼の鼓動がやや早くなったのを、美憐は耳元で感じ取る。

 落ち着く。

 渡の腕に、懐に納まることが、こんなにも気持ちの良いものだったなんて、数日前までは考えもしなかった。現在の急接近ですら、ちょっと前の美憐にはあり得ない展開だったし、非常に素直な好意の現れだと言えよう。

 好意。

 コーイ。

 ――


「本当に、ありがと」


 うずめたままの顔で呟いたため、声がくぐもっている。

 渡は所在なげにあさっての方を向いて、ぶっきらぼうに視線を泳がせた。


「礼ならさっきも聞いたぞ」

「もっと言わせて。何度でも言わせて。ありがとう、あたし凄く嬉しかった。あなたのこと、単なる作戦上の協力者パートナーだと思ってたけど、そんなことはなかった……いつの間にか、あたしの人生に欠けちゃいけない、大切な人になってたの」

「はぁ? 頭、大丈夫か?」

「あなたがお姉ちゃんを好きなのは知ってる。あたしごときが立ち入る隙がないのも知ってる……でも、それでも言いたいの。あたしはアホくんが好――」


「いけませんわね、校内で不純異性交遊だなんて」


「――き?」


 あらぬ方向から、声が届けられた。

 若い女性の声。

 聞き覚えのある、愛しい声。

 室外からだ。

 美術室の外壁は崩壊したままで、瓦礫が積もっている。外の裏庭と直結して隙間風がひどい。抜けるような青空が拡がる背景の中心に、その女性は君臨していた。


「あっ!」


 美憐は指差す。

 裏庭のコンクリート塀にそそり立ち、澄み渡る天空とは裏腹に濃紺のブレザーを身にまとった、鮮やかなコントラストの女性が見える。

 その人は、ふわりとスカートを押さえながら裏庭へ降り立った。足音も軽やかに美術室へ闊歩する動作はそつがなく、ファッションモデルのように美しい。

 長い黒髪。

 淡い柔肌。

 人形のように華奢で、妖精のように神秘的で、整った美貌にかけられた楕円形のメガネがこの上なく理知的だ。


「あ、あっ……」


 美憐は痙攣を繰り返すしかない。


「見ちゃ駄目だ」


 渡が歯を食いしばって美憐をかばうが、もう遅い。

 ――ついに来た。

 再臨した。

 ご丁寧に、高校のブレザーを引っ張り出して着用し、当て付けがましく再訪した。


「皆さん、ご機嫌よう。校内に立ち入る以上、学生服は必須ですよね?」


 ――ぞわり。

 声に込められた害意。

 それだけで美憐は胸が締め付けられ、息が止まりそうになる。きっと渡が前に立ってくれなければ、絶命していたに違いない。

 それほどの威圧感プレッシャー


「美憐、しばらく顔を背けていろ」

「え、無理よ。お姉ちゃんが居るのよ? 顔を見たい。対面したい。お話がしたい!」

「目が合っただけで殺されるぞ」

「……そんなことって」

「あるんだよ。彼女は眼光だけで光のスペクトルを常時、放射している。それはさっき僕が使った寒色系やグレア現象なんてレベルじゃない。見ただけでショック死しかねない、文字通りの殺人光線だ。僕はまだ耐性があるけど、お前にはないだろう?」


 そう――彼女の周辺だけ、光源が歪んでいた。

 光の波長がよどみ、ブラックホールさながらに色彩がねじれ曲がっている。

 その悪意ある乱れを見るだけで、グレア現象など比較にならない波長の交錯に目がくらむのだ。生粋の色彩術師でなければ到底、身が持たない。

 これが、色と光を自在に複写トレースしてのける、現代に復活せし『許婚』――。


知恵ちえさ……じゃなかった、知恵トモエさん!」

「お姉ちゃん!」


 美憐も叫んだ。渡の指示通り、直視しないよう頭を押さえられながら。

「二人とも、お久し振り」微笑む宿敵。「聖人お兄様は、まだのようね。私には好都合だけれど。そこの三輪などという前座に屈せず、こうして面会できただけでも幸せよ」

「御託はいいよ、お姉ちゃん!」

「よせ美憐、顔を出すな」


 思わず噛み付こうとする美憐を、渡が咄嗟に全身で遮った。

 待望の再会だったが、ちっとも感動の場面にはなり得なかった。渡が食いとどめなければ、美憐は一歩踏み出した瞬間に卒倒するに違いない。


「そして、私はとても悲しい……今日こそ、私に勘付いたあなた方全員の息の根を止めなければならないのだから!」


 殺人宣言が、降臨した。

 色の『幻術』イリュージョンによる最後の駆け引きが、幕を開けた。


「くそっ、聖人にいさんは間に合わなかったか」手を前方にかざす渡。「美憐は逃げろ、ここに居たら巻き込まれるぞ」

「やだ! 離れたくない!」

「そんなこと言っている場合か――」

「私の愛を噛み締めて死になさい!」


 ――知恵トモエが迫った。

 気が付いたら、目の前に居た。

 息のかかるような至近距離で、口が裂けるように笑っている。


「くっ!」


 すんでの所で渡は飛びのいた。

 瞬時に美憐の体を抱き締め、一緒に避難させるのも忘れない。


「速い……いつの間に!」歪む時空に目を眇める渡。「そうか、蜃気楼! 知恵トモエさんは僕の術式を模写トレースできる……虚像を映じて距離感をねじ曲げ、錯覚させたのか!」

「あ、アホくん! 嬉しいけど、そんなにきつく抱き締めないでっ!」


 美憐が真っ赤になりながら苦言を呈した。

 渡に抱き寄せられて避難する姿勢は、力ずくにも程があった。とはいえ、彼に密着できて嬉しいという感情を、必死に押し殺している言動でもある。

 むしろ、彼とゼロ距離で接していられるなんて、もっと知恵トモエにやっちゃってくれと懇願したい気分さえ生まれたが、さすがにそれは不謹慎なので、美憐はやむなく黙っている。


「ああ、済まない」


 渡はあっさり解放した。

 ついでに美術室の入口へ美憐を押しやり、ここから離れろと暗に促す。


「ちょっ、何よその冷たい態度! 突き放すにしても、もっと優しくやってよ」

「いいから逃げろ。知恵トモエさんはもはや、お前の手に負える家族じゃない。触れただけで色彩感覚が狂い、視神経から入り込んだ光が精神を破壊する」

「そうじゃなくて! あたしたち密着してたのよ? 咄嗟の緊急避難とはいえ、若い男女がピッタリと! もっとこう、照れたり恥らったりしないわけ?」

「……お前は何を言っているんだ」


 露骨に渋面をかたどる渡が恨めしい。

 確かにこの非常事態に、そんなことを求める美憐もどうかとは思うが、恐怖から解放され最愛の人物に寄り添われるという状況が、いかに美憐にとって救済だったのかを認識して欲しかった。

 無論、そんなことを訴えた所で、彼の反応は同じだったに違いないが。


「今はそれ所じゃないだろう。大体、美憐の言い分は数秒ごとに入れ替わるから困る。いささか情緒不安定すぎるぞ」

「だぁって――」

「うふふ、可愛い痴話喧嘩だこと」


 再び知恵トモエが襲来した。


「また来た!」


 渡は美憐を廊下へ突き飛ばし、かばうように迎え撃った。


(お姉ちゃんは色彩術による殺人トリックを、即興であたしたちに仕掛けてるんだわ!)


 それらは渡が瞬時に解明・解除するおかげで、どうにか無事で済んでいるものの、立て続けに発せられる色彩原理の幻術群は、渡を防戦一方に追い詰めてしまう。

 知恵トモエの姿が蜃気楼のように掻き消えて、代わりにまばゆい陽光が射し込む。美術室に空いた風穴から、黄色い太陽を直視する角度だった。まんまと誘導されていた。


「うっ、まぶしっ……」


 渡の双眸に、青い『補色残像』が浮かび上がる。

 赤い光には緑を、黄色い光には青の補色残像を顕現させる眼球の保護機能。

 ――それは以前、渡と美憐が『復讐』に採用した『幻術』イリュージョン模写トレースでもあった。


「くそっ、視界が冴えない――」

「うふふ」どこからともなく響く知恵トモエの嘲笑。「ここの学生服は、濃紺のブレザー……そして黄色い陽光を見たあなたは、青い補色残像で視界を覆われた……青と濃紺は相似色。私の姿は補色残像と一体化し、見えなくなる――」

「そのために制服を着て来たのか!」


 知恵トモエの狙いは、これだったのだ。

 学校へ入るために制服を着用したと言っていたが、何てことはない。彼女は術式をトレースするために、補色残像しやすい衣装を選んだに過ぎない。


「はい、捕まえたわ」


 知恵トモエの手が、横から伸びた。

 渡の胴体を這い回るようにして、そっと抱き締められる。まとわり付かれる。

 知恵トモエのたわわな胸が接触し、太ももが絡み付き、渡は暖かな抱擁を感受する――。


「あーっ!」わめく美憐。「お姉ちゃんズルイ!」


 直後、渡の全身から力が抜けた。

 背筋は丸まり、足腰は砕け、表情も締まりがなくなった。みっともなくヘラヘラ笑い、鼻の下を伸ばして、今までの渡とは似ても似つかない堕落した様相を呈する。


「あ、あはは……知恵トモエさん、僕にスキンシップなんてもったいない……」

「うふふ。それがあなたの深層心理? 私の『色香』に惑わされて本望かしら?」


 色香。

 色。

 ――扇情的な視覚情報にも、物体から放たれる波長スペクトルがある。

 知恵トモエは『色』と付く波長ならば、自在に操れる。それは色気であったり、好色であったり。魅惑的なビジュアルは、人を魅了し、洗脳する色彩術に他ならない。


「お姉ちゃん!」


 美憐は美術室内へ舞い戻る。

 出来るだけ姉の色彩を直視しないよう注意しつつ、骨抜きと化した渡に気を揉ませながら、一言叫ばずには居られなかった。


「今さら『色仕掛け』なんて、卑怯にも程があるわ! お姉ちゃんは一度、こいつを振ってるじゃないの!」

「美憐ちゃん。それは違うわ」


 知恵トモエの声が、こちらへ向けられた。

 目は合わない。まず美憐が合わせようとしないし、知恵トモエも視線そのものは渡に集中させている。渡を篭絡する傍ら、邪魔な付属物に声をかけている体裁だった。


「どう違うのよ。あたしは――」

「最初に断ったのは、まだ私の記憶が戻っていなかったから……結果的に、彼の告白を断ったのがきっかけで、記憶を完全に思い出せたけれど」

「思い出した今なら、こいつを受け入れられるってこと?」

「そうよ」優しい声音。「渡くんを私だけのモノにするの。私の人生を狂わせた阿保家を皆殺しにした暁には、許婚だった渡くんの遺体と二人きりで余生を過ごすの……うふふ、それってとっても素敵じゃない?」

「それは恋愛じゃなくて猟奇趣味って言うのよお姉ちゃん!」


 どうしよう、どこから突っ込めば良いのやら。

 美憐は姉の本性をぶつけられて、適切な返答が思い付かなかった。好きな人を手にかける、という感覚からして理解できなかったし、共感を得られるものではない。いくら誰にも取られたくないからって――。

 ――誰にも?

 美憐はふと、身震いさせた。

 渡を、誰に取られるというのだ?

 ――決まっている。


「お姉ちゃん……あたしを恋のライバルだと思ってるの?」

「だって、そうでしょう?」しれっと敵意を剥き出す姉。「美憐ちゃん、渡くんのこと、好きなんでしょう?」

「あ、あうぅ」

「さっきのやりとりを見ていれば判るわ……けどね、美憐ちゃん? 人の獲物を横取りするなんて、それってとても矮小で、意地汚くて、唾棄すべき最低の行為なのよ」

「だ、だけど、それはお姉ちゃんが死んだ後、こいつと接するうちに――」

「私は悔しい。こんな妹に、最愛の許婚を奪われるなんて」

「待ってお姉ちゃん、あたしはっ」

「来るな、泥棒猫!」


 怒号とともに色彩術が展開された。

 光の波長を操作され、暗澹としたダウナーな灰色が、美憐の視界を覆う。

 モノクロの暗色系は、色彩心理において意気消沈、無気力、脱力感などをもたらす。

 たちまち美憐は足を止め、だらりと四肢を下ろし、肩を落とし、死んだ魚他のような眼差しで無防備をさらした。

 知恵トモエは渡をいったん床に捨て置くと、自身には活力が湧き出るオレンジや紅蓮の波長をあてがい、存分に腕力をみなぎらせた。

 無抵抗な美憐を、思い切り突き飛ばす。

 あり得ない衝撃と激痛が、美憐を襲う。

 痛みのあまり息が出来なくなった。胃の中身が逆流する。

 知恵トモエの、か細い女性の腕力であるにも関わらず、美憐は宙をきりもみした。

 廊下までもんどり打った美憐は、図らずも美術室から退室を遂げた。全身をそこら中に激突させ、壁に背中をぶつけてしこたま咳き込む。

 死ななかったのが不思議なくらいだ。

 知恵トモエにしてみれば、このような色彩心理の応用も可能なのだ。


「お姉ちゃん……あたしはっ……」

「グレア」

「きゃああああっ」


 弁解の余地すらくれなかった。

 知恵トモエから送り込まれた白い眼光が、美憐の周辺をまばゆく照らした。

 これは馬里月乃を罠に嵌めた『色彩術』だ。トレースされたのだ。

 脳がかき回されるような感触を覚える。

 頭の中が真っ白になった。何も見えない、何も感じない、ただひたすら気分はどんよりしている。失神するのも時間の問題だった。


「お姉ちゃん……ううっ……」

「あら、まだ起きているの? しぶといのね」黒髪を掻き上げる知恵トモエ。「いたずらに苦しめてばかりで、ごめんなさいね……私もまだ目覚めたばかりで、力が馴染んでいないの。ひと思いに殺せれば良いのだけれど」


 そんなことで謝るなよ……と美憐は心の中で反論したが、苦しくて言葉に出来ない。

 これでまだ寝起きの状態だと言うのか。

 現時点で、すでに渡たちは敗北している。もしも知恵トモエが充分に覚醒したら、どれほどの威力を誇るというのか。

 阿保一族にとって、知恵トモエの存在は最大の誤算に違いない。幼少時に素質が見出せないからと言って、早々に見切りを付けた報いがこの結果なのだから。

 渡と同じ『補色残像』や『グレア現象』でさえ、使い手によって天と地の差が出る。


「私は楽しい。勝者の美酒に酔いしれることが出来て」

「駄目よ、お姉ちゃん……あたしはともかく、好きな人を殺すなんて……そんなの悲しすぎると思わないの?」

「私は楽しい、と言っているでしょう?」


 知恵トモエは聞く耳を持たない。

 決して自己暗示ではない。知恵トモエは本気で、この行ないが悦楽であり、享楽であり、娯楽の一環であると確信している。


「楽しいのよ。快感なのよ。恨み募る阿保一族へ天誅を下し、反逆ののろしを上げる第一歩なのだから……うふふ……うふふふふ……」


 滝のような長髪を隙間風になびかせて、知恵トモエは渡の方へ歩き出した。

 美憐は後回しという現実にも、美憐本人は絶望した。知恵トモエにとって、やはり家族なんて重要ではないのだ。

 美憐は二の次。

 まずは許婚。最愛の許婚。

 その後、オマケのように美憐を殺すのだろう。

 美憐は姉の仇討ちを最優先させていたのに――。


「酷い……酷いよお姉ちゃん……」

「何を泣いているの?」渡を拾いに向かう知恵トモエ。「私は不可解だわ。所詮は連れ子、血の繋がらない同居人に過ぎないのに」

「そんなこと、ない……あたしは本当に……お姉ちゃんを……」

「うるさい子ね。さっさと気絶したらどうなの? すぐにあなたも、渡くんの後を追わせてあげるか――」


「やーぁ、今日も元気にドロドロの三角関係を演じてるかぁーい?」


「――らっ?」


 さらなる闖入者が現れたのは、そんな折だった。

 美術室の風穴から颯爽と舞い込んだ人影が、陽気な声音と笑顔を振りまきつつ、倒れ伏す渡と知恵トモエの間に立ちはだかる。

 闖入者は同時に、知恵トモエの周辺を歪ませていた『色彩術』の波長を打ち消すと同時に、美憐をさいなませていたグレア現象の症状をも快復させた。

 美憐の視界が、ふっと元に戻る。

 体が動く。さっきまでのけだるさはない。意識も次第に瞭然として来る。


「あ、あれ? あたし――」

「敵の術式は解除したよーぉ。いやー危機一髪だったねーぇ」


 人を食ったような声質。

 えっへんと直立しているのは、人懐っこい童顔の、華奢な青年だった。


 阿保聖人。

 監査役。

 阿保一族の若きホープにして、渡のお目付け人。


 相変わらず黒一色のメンズゴシックを羽織っていた。現実から乖離したフリルだらけの男物スーツは、そのくせ生成りが非常に良くサマになっている。

 十字架をかたどったアクセサリの数々も健在だった。ペンダントは言うに及ばず、ピアスやブレスレットにも十字架があしらわれ、指輪の宝石も十字架に彫られ、足首にまで十字架のアンクレットがじゃらじゃらと巻き付いている。


「……聖人お兄様」


 知恵トモエが、あからさまに美貌を濁らせた。

 反対に聖人はせせら笑ったまま、知恵トモエを牽制しつつ渡にも手をかざす。

 腑抜けた面で突っ伏していた渡が、聖人の掌から放たれる虹色の波長グラデーションを浴びた途端、それまでの『色仕掛け』を綺麗さっぱり解消させ、すっくと再起したから驚きだ。


(何、今の……?)


 美憐は目を見張るしかない。

 彼女の症状を解いたのも聖人だろう。一体どんな色彩を用いれば、ことごとくダメージを癒してくれるのか、皆目見当が付かなかった。

 聖人は知恵トモエが作り出す時空の乱れさえも中和している。相手の『色彩術』を、出したそばから調整してのけるなんて、にわかには信じられない。

 だが、立ち上がった渡は、そんな聖人の術式を見知った風体で、やれやれと肩をそびやかしたのだった。


「聖人にいさん、来るのが遅いぞ」

「いやー、ワタシももっと早く来たかったんだけどねーぇ。妹と久方振りの再会だーって思うとさ、緊張してトイレが近くなっちゃってさー……あははーぁ冗談だよ冗談」


 聖人に悪びれた様子はない。

 ひょっとしたら現状を演出し、絶好の登場タイミングを待ち測っていたんじゃないかと美憐は勘繰った。それほどまでに聖人の参上は見事だったし、勝利を確信した知恵トモエの鼻を明かしたことは間違いない。

 茶化した言動の一つ一つさえも、計算された演技に見えて来る。

 がつん、と知恵トモエが苛立たしげに革靴の踵を踏み鳴らした。


「私は疎ましい。この期に及んで、一族の犬と化した実兄に横槍を入れられるなんて」

「そーぉかい?」笑顔を絶やさない兄。「ワタシは嬉しいけどなー? 成長した妹の晴れ姿を拝めるんだからねーぇ。さーぁ遠慮せず、素直にワタシの胸に飛び込んでおいでー」

「私は! 疎ましいと! 言っているの!」

「強情だなーぁ。ワタシが今までどんな気持ちで、愛する妹の行方を追っていたと思っているんだーぃ? 渡くぅーんを監視していたのも、いつか彼の前に絶対、知恵トモエちゃーんが現れると信じていたからなんだけどなーぁ?」


 聖人は大手を広げて、血を分けた家族に歓迎の意を示した。空々しいまでの笑顔が逆に恐ろしい。装飾過多なメンズゴシックがさらにそれを助長する。

 そう言えば、知恵トモエの私服もゴスロリだったことを美憐は思い出す。同じゴシックスタイル……なるほど、実の兄妹は趣味嗜好も共通項があったわけだ。


「私は信じない。お兄様は昔から小賢しい舌先三寸だったから」

「つれないこと言うなよーぉ。妹を愛する心ならワタシは誰にも負けないんだけどなー。ワタシだけが君の復活を予感し、一族の監査なんていう末端業務にやつして君の行方を追っていたんだよーぉ? これも全て、最愛の妹君をこの手で再び抱き締めるため!」


 ついには一人で抱擁するジェスチャーを交え、身をくねらせてエアキッスする始末だ。


「あ、あの人、シスコンだったのね」たまらず引きつる美憐。「アホくんにとっては、親族でありながら恋敵、って感じ?」

「近親相姦の家柄だから、倫理的な抵抗も薄いんだよ……さすがに実の兄妹は前例がないが、僕もときどき、聖人にいさんの嫉妬めいた視線や嫌がらせは受けていた」

「手が付けられないレベルじゃないの……」


 渡はフォローするようなしないような、曖昧な返答で言葉を濁した。

 場を取り持つどころかますます最終決戦の空気にふさわしくない白けた静寂が漂ったのは、美憐の気のせいではあるまい。


「だからーぁ我が妹よーぉ。大人しくお縄に付いてワタシと愛の凱旋を果たさないかーぃ? ワタシの口添えがあれば、多少の翻意も情状酌量して貰えるよーぉ?」

「気色悪いわ」

「あー、いーぃねーその目! 侮蔑の視線! そーゆーのがあると余計に燃えて来るんだよねーぇ。あははーますますヤル気になって来たよーぉハァハァ」

「こっちに来ないで!」黒髪を振り乱す妹。「そこをどいて! お兄様の実戦データは少ないけれど、この私に勝てるとでも――」

「思っちゃいないさーぁ」


 聖人は馬鹿正直に言い切った。

 それでも笑顔は絶やさない。気持ち悪いくねくねした動きこそ止めたものの、今度は自信満々に敗北宣言をかますなんて、つくづく阿保家の人間は常識外れというか、奇天烈ばかりと言わざるを得ない。


「ワタシの得意な色彩原理は、人を傷付けるのには向いてないからねーぇ。何てったってワタシは専守防衛! 争いよりも調和を重んじる平和主義者さーぁ。だからこそ監査役なんていう、場をいさめる調停士ばっかりやらされてるんだけどねーぇ」

「? どういうこと――」

「聖人にいさんが幻術を受け止め、その隙に僕が攻め込む」


 渡が進み出た。

 理解しかねた知恵トモエを遮るように、聖人の隣に並んでみせた。

 傷は完全に治癒しきった様子だった。衣服や、すり切れた地肌に少量の傷跡こそ残っているものの、体内にダメージは蓄積されていない。

 完全なる中和。そして緩和。

 これが聖人の『色彩術』――?


「聖人にいさんに『色彩術』は通用しないぞ、知恵トモエさん」

「あら。それはやってみないと判らな――」

「判るんだよ」


 渡は静かにのたまった。

 投げやりな、素っ気ない一言だったが、その短いフレーズだけで知恵トモエを警戒させるには充分だったし、室内の空気を冷たく澄み渡らせるだけの呪詛が込められていた。

 当の聖人は、渡の説明を笑顔で拝聴している。


「聖人にいさんの特筆すべき術式は、色の中和と払拭だ。睨みを利かせた地域一帯の『色彩術』を余さず検知し、片っ端から消去できる。だから監査役なんてものが務まる」

「そーぉんなに持ち上げるなよーぉ」手を持ち上げる聖人。「ワタシはただ、他者の『色彩術』を調和させるだけだからねーぇ」

「調和……ですって」


 知恵トモエのこめかみがうずく。


「そ。何せワタシは、世紀の色彩学者O・N・ルードの色彩論を受け継いでるからねー」

「ルード!」


 知恵トモエが脳味噌に検索をかけた。彼女ならば当然、名前くらいは知っている。

 我が意を得たり、と聖人はほくそ笑みながら、さらに説明を続ける。手を知恵トモエへかざして、いつでも攻撃を受け止める構えを取りながら。


「ルードはアメリカの自然科学者でねーぇ。一八七九年に『モダン・クロマティックス』という論文を著したのさーぁ」

「知っているわ! 馬鹿にしないで!」地団駄を踏む知恵トモエ。「例えば、木や草の葉は、光の当たる場所では黄みがかった明るい緑色に見えるけれど、日陰では青みを帯びた暗い緑へと移り変わる……このように、隣接する色相配列はグラデーションになり、最も自然な色合いを連鎖させるハーモニーを描くのよ!」


 色合いの連鎖。

 ナチュラルハーモニー。


「その通ぉーり。ルードは目に馴染みやすい自然色の配列を発見したんだよー。ルードの綴りは、ROOD……これは直訳すると『キリストの十字架』という意味もあるのさー」


 

 美憐は監査役のいでたちを、改めて刮目した。

 聖人が十字架のアクセサリばかりを身に付けているのは、この見立てだったのだ。

 ――いや、それだけではない。

 彼の名前は聖人きよひと……読みを変えれば聖人せいじん

 十字架は、しばしば『聖人の象徴』として同一視される。

 聖人=ルードなのだ。


「聖人にいさんは、十字架ルードの名を冠する『自然連鎖色ナチュラルハーモニー』の調整士コーディネイターだ」

「ワタシはあらゆる色調の変化を防ぎ、元の自然な配色状態へ還元できるのさーぁ」


 敵の色彩を、中和する。

 自然な状態へ復元させてしまう。

 知恵トモエが術式を複製できるのに対し、聖人はその全てを排除し、初期状態に戻せるのだ。

 決して相容れない、同じ兄妹とは思えない正反対の水と油。

 光と闇。


「そろそろ渡くぅーんとの連携も慣れて来たし、今度こそ妹には負けないよーぉ?」

「そうかしら? お兄様もつくづく詰めが甘いわね。私の『色彩術』は模写な《トレース》のよ? 一度見たどんな術式さえも、私は容易に再現し、オウム返しを食らわせるのだから――」

「おぉーっと、ワタシの術式も『模写』するつもりかーぁい?」

「ご明察。お兄様の『自然連鎖色ナチュラルハーモニー』をさらに私が中和させれば、お兄様が誇る防衛手段も元の木阿弥よ!」

「へーぇ、ならワタシは再び、それを『自然連鎖色ナチュラルハーモニー』で中和しよーぉじゃないかーぁ」

「そのまた上から中和して差し上げるわ!」

「いやいやワタシの番だってばーぁ」


 壮絶な打ち消し合いが始まった。

 両雄の周辺に、色光を操る七色の波長が灯されては消える。

 光が入り乱れ、光彩が歪み、空間すらもねじ曲がった。美術室内の色彩はもはや、調和に次ぐ調和で純度が増し、逆に目を傷める原色だらけの混沌とした様相を呈している。


「さーぁ今のうちだよ渡くぅーん、知恵トモエはワタシとの撃ち合いで手一杯だからねーぇ、君が一矢報いる絶好の機会だと思わないかーぁい?」

「私は忌々しい!」長髪を振り乱す知恵トモエ。「こうなったら、やむを得ないわね……目覚めたてでまだ本調子ではなかったけれど……多少無理をしてでも、お兄様の『自然連鎖色』ナチュラルハーモニーを上回る量の術式を連発して、一気に押し勝つしかなさそ――」

「駄目ええええーっ!」

「――う?」


 爆発寸前の知恵トモエへ、美憐がありったけの声で叫喚した。

 突然発せられた介入に、誰もが一瞬、注意を逸らす。体勢こそ向かい合っているものの、意識と手先は美憐へ傾いてしまう。


「お姉ちゃん、もうやめて! あたしはそんなお姉ちゃん、見たくない! 情けないよ、みっともないよ! あたしの好きなお姉ちゃんはどこ行ったの? あたしは、こんなお姉ちゃんのために復讐したかったんじゃないわ! もっと聡明で、優しくて、生真面目で、清廉で綺麗だったお姉ちゃんのために――」


 美憐は慟哭する。

 決壊したダムのごとく涙を流す。

 止まらない感情の洪水は、あらゆる理不尽を乗せて押し流す。寄せては引く波と違い、その滂沱は仮そめの姉へ一直線に流れ込んだ……と信じたい。

 わずかだが、知恵トモエの動きが硬直する。

 猛威を振るっていた『模写』トレースが、途絶える。

 戸惑いと、ためらい?

 知恵トモエにもまだ、家族への郷愁があったのだろうか。


「美憐の言う通りだ」前に出る渡。「僕もずっと、あなたを尊敬していた。許婚として、昔から憧れの的だったんだ。もちろん阿保家に非がないとは思わない。知恵トモエさんを追放した掟とか、伝統とか、そんなものには反吐が出る」

「だったら私に従いなさい。私の望むままに死になさい」

「だが、今は違う」

「何ですって――」

「今のあなたには、尊敬の念を抱けない。別に報復をやめろとは言わない。僕も美憐も復讐に手を染めた同類だからな……だが、そのために人を騙し、信じていた家族さえも手玉に取るやり方は、僕には理解できない」

「顔に似合わず綺麗事を言うのね」

「綺麗事なんかじゃない」握り締める拳。「あなたは裏切られた経験があるだろう? 阿保家に裏切られ、捨てられたことを憎んでいるんだろう? なのになぜ、それと同じことをしようとするんだ? 自分が嫌がることを、なぜ他人に出来るんだ!」

「それは」

「僕は復讐をするが、仲間を裏切ったりはしない! 騙したりもしない! 嘘をつくなんてもっての他だ! そんな報復に、正当性などカケラもない!」

「…………!」


 知恵トモエの顔色が変わった。

 蒼白を通り越して、死体のような土気色に塗り替えられる。

 何も言えない。

 言い返せない。

 知恵トモエは報復するに当たって、最も犯してはならないことをした。

 無論、報復そのものが本来、やってはいけない悪徳行為だ。どんな理由があっても、一個人が勝手な裁量で他人を罰してはいけない。


 ――だが、それでもなお、あえて報復をするならば。

 せめてもの筋を、通す必要がある。

 悪徳行為に身をゆだねるだけの説得力を、でっち上げる必要がある。

 知恵トモエは「悪い阿保家を潰す」というお題目だから、阿保家より潔白でなければならないし、報復する標的よりも純粋でなければならない。


 なのに、知恵トモエは人をたばかった。

 人の信頼と、家族の連帯意識を裏切った。

 それでは、阿保家と同じではないか。

 彼女も所詮、標的と同レベルのクズでしかないのだ。

 こんなことでは、彼女の報復に優位性が見出せない。

 そこが――それこそが――彼女の正当性の瑕疵であり、渡が知恵トモエに制裁を下せる唯一の大義名分でもあった。

 だから、よどみなく宣言できる。


知恵トモエさん。僕たちは、あなたを倒す」

「出来るものですか!」

「やる。それが僕の……あなたを狂気へ駆り立ててしまった引き金である僕の、せめてもの償いだと思うから」


 渡の瞳が、光を発した。

 それは決別の涙のようにも見えたが、すぐに他の光も放出された。

 緑色の眼光。

 人間の瞳は水分で常時濡れており、水晶体がレンズの役割を果たして『眼光』を放つことがある。それを限界まで引き出し、波長も調整できるのが、渡の術式でもあった。

 色彩心理学を攻撃に転じる『幻術』イリュージョン

 鉄壁を誇る聖人の盾に守られながら、瞑目を経て大きく開眼したそれは、一筋の光線と化して知恵トモエのまぶたを貫いた。

 あたかも、光を帯びた剣の一閃のごとく。


「聖人にいさんが受け、僕が攻める。この型に勝てる『調整士』コーディネイターはそうそう居ない」


 最強の布陣だった。この二人を前にしたら、野に下った術師など勝てる道理がない。


「きゃああああっ!」


 緑の威光に包まれた知恵トモエは、何も出来ずに膝を落とした。

 さっきまでの威勢はどこへやら、全身を弛緩させた怠惰な醜態を晒し始めた。四肢をだらりと投げ出し、埃っぽい瓦礫まみれの床に抵抗なく寝そべる。


「嗚呼……これは楽だわ……ええ、そう……もう何もしたくない……心が安らぐ……ずっとこのまま、健やかに寝て過ごしたい……」

「お、お姉ちゃん?」恐る恐る再入室する美憐。「何よ、この気の抜けた格好! わあっ服まで脱ぎ出したわ! ちょっとアホくん、お姉ちゃんに何したの!」

「純色の緑は、森林浴に代表される『リラクゼーション効果』がある」

「……そうなの?」

「緑は目に良い、と聞いたことはないか? 学校の黒板が緑色なのも、視神経をリラックスさせる色彩効果があるからだ」

「あ、それは聞いたことあるけど……」


 美憐は納得できたような出来ないような、微妙な感想を抱いた。

 さっきも三輪を倒すときに寒色系の眼光を浴びせていたが、今回も『色彩心理』による効果だろうか。


知恵トモエさんは今、使い物にならないほど全身の緊張をほぐし、安眠しようとしている。身も心も弛緩させ、戦意すら失った状態だ」

「つまり戦闘不能ってことだねーぇ、ワタシたちの勝ちでいーぃのかな?」


 聖人が両手を下ろし、調和の術式を解除した。

 もはや身を守る必要はない。

 あるのはただ、抵抗をやめて床に丸まった知恵トモエの、無残かつ哀愁を誘う姿ばかり。


「一人じゃ惨敗だったくせに」半眼で睨む美憐。「色彩術って、組み合わせ次第で何でも出来るのね……あんなに強かったお姉ちゃんを、一方的に無力化させちゃうんだもん」

「不満か?」


 渡は、近付いた美憐の頭を撫でた。

 彼自身も決着が付いて、気が緩んでいるのだろう。年相応の、ほっとした安堵の面差しが美憐の瞳に眩しかった。


「ううん」愛しそうに彼を見上げる美憐。「お姉ちゃんには良いお灸よ。ありがとう」

「僕も感謝しているぞ」

「え、どうして?」

「お前が直前に叫んで、知恵トモエさんの注意を逸らしたからこそ、付け入る隙が出来たんだ。お前は最高の相棒パートナーだよ」

「なっ……」


 顔面が噴火した。

 熱中症になるかと思った。

 あの渡が、礼を言った。

 掛け値なしに褒めてくれた。

 こんなにも自然な、温かい眼差しで。

 美憐は、これも幻惑ではないかと自我を疑いそうになる。


相棒パートナー……か)


 思えばそれは、仕組まれた復讐計画から幕を開けた。

 最初は目的のためと割り切って、妥協していた。それがいつしか共感に変わり、好感へ昇華して、美憐は初めて恋をした。

 姉を失った辛さはあるが、それ以上の収穫を得た。

 今は彼の笑顔に、彼の胸元に納まる自分のありがたみを噛み締めよう。

 このときくらいは、幸せに浸っても罰は当たらないだろうから。


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