C‐2.救出
C‐2.救出
――あたし、騙されてたのかな。
そんな概念が夢にまで染み出るくらいに、美憐は懊悩を連続させた。
――お姉ちゃんと過ごした日々。
初めて出来た「家族」。
寝食を共に過ごしてくれる身内。
一緒に笑って。
一緒に泣いて。
一緒に登校して。
一緒にお風呂に入って。
朝の挨拶も、夜の就寝も、ほんの些細なふれあいも、途中までは本物だったんだよね?
それなのに――。
(
美憐にはどうしても信じられない。
――高校に入ってから変わってしまったの?
お姉ちゃんと阿保渡が再会してから?
そのときから、歯車が狂い始めた?
(変だよ……そんなの!)
朦朧とした意識下で、かぶりを振ろうと試みる。
――そうだ。
おかしい。
姉は、それ以前から色彩知識の片鱗を発芽させていた。
中学のときに美憐へパーソナルカラーのあれこれを教えてくれたし、部屋の内装にもこだわってくれた。
断じて、渡との邂逅だけが引き金ではない。
それより前から、
渡の存在は、本当に『最後のきっかけ』でしかない。
そのことに、渡や聖人は気付いていない。
自分たちだけのせいにして、抱え込もうとしている。
かつて彼女を見捨てて放逐した後悔を、ここぞとばかりに自虐している。
――けど、真実はそうじゃない。
「ち……がう……」うなる真紅の唇。「きっと……お姉ちゃんには、まだ……真実が残ってる……はずよ……!」
喉から声を絞り出した。
叫ぶには至らなかったが、うめき声という形でそのエネルギーは発散された。
と同時に、自らの発声で鼓膜が揺さぶられ、意識が覚醒し、まぶたが見開かれる。
美憐は再起した。
ここはどこだっけ、と周囲を見回す。
まだぼんやりとしていて、識別できない。
(あたし、確か――)
途中で記憶が途切れている。
朝、全校集会で馬里月乃が交通事故で大惨事を起こしたと連絡された後、阿保渡と廊下で再会し、彼らの胡散臭い許婚にまつわる因縁を聞かされて、そして――。
「三輪先生……!」
あの男だ。
担任であり、美術部の顧問であり、美術教諭でもある、あの三十路手前で年中モスグリーンのジャージを着た粗野な男。
あいつに呼び止められ、とんでもない口上を打ち明けられた。
あの教師は、ただ者ではなかった。美憐のことを嗅ぎ回っていたのだ。あまつさえ、その報告を『あのお方』にしなければならない、とまで――。
「よう増場、目が覚めたか?」
「!」
噂をすれば影とばかりに振り返ると、そこには三輪一元の巨躯がそびえていた。
驚きの余り、全身の神経が冴え渡る。
間違いない。こいつに連れ去られたのだ。
判然としなかった視界が色を帯び、形を宿し、美憐に視覚情報をもたらし――。
「ここ、どこですか?」
――てはくれなかった。
相変わらず景色が混濁している。
光が像を結ばない。
周囲は混沌としたまま、灰色のような青紫のような、黒に近いモヤモヤした膜に覆われている。暗幕か何かで閉め切っているのか、と思ったが、見た感じそんな質感とも若干異なる雰囲気だった。
床は、ある。
タイル床だ。
学校によくある佇まい。
天井も同様だった。
辺りには瓦礫が転がり、ひび割れた形跡が目に新しい。そうだ、ここは――。
「ここは美術準備室だ」
「……こんなに薄暗かったでしたっけ」
歩み寄った三輪が、不敵に笑った。
にかっと歯を見せてた豪快な破顔は、三輪先生らしい快活さではあるものの、見上げる美憐には下卑た面構えにしか映らなかった。
何だろう、この空気は。
この先生から漂う、異常な拒絶感は。
「先生……どういうつもりですか」
美憐はもぞもぞと膝を立てた。
床に突っ伏していたせいだろう、制服はあちこちにしわが寄り、埃で汚れている。それをはたきながら腰を持ち上げ、さり気なく三輪一元から距離を置いた。
とはいえ、どんなに離れても三輪はそのつど接近して来るため、距離は一向に拡がらないし、準備室の壁際へ追い詰められて逆に困る。
息を呑む。
閉じ込められた割に、何の拘束もされていないのも気にかかる。
「先生の目的は何ですか? あと、あたしに近寄らないで下さい」
「つれないことを言うな。俺はお前の担任だぞ? どうせ今日はもう休校だ。警察が揉めている、一連の事故について本腰を入れて捜査したいらしい。全く、何もかもお前らの悪戯のせいだからな。困ったもんだ」
「!」
お前らの悪戯。
お前らの。
美憐の背中に、とめどない冷や汗が瀑布した。
「……知ってたんですね」
喉が渇く。
声が嗄れる。
鼓動が爆発した。
憤怒で顔が赤く火照る。
口紅と遜色ないくらい、紅潮する。
「当然だろ?」腕を組む美術教師。「俺は美術部の顧問であり、あのお方……
「何ですか、それ!」
間髪入れず絶叫した。
ともすれば三輪一元の発言が終わらないうちに、割り込むように反駁した。
観察者?
どこがどう繋がっているのか、話が見えない。
とてつもなく腹が立つ。
視界は相変わらず、茫漠とした眩暈感に囚われて像を結ばない。目がぐるぐると回るような倦怠感を催すばかりだ。ろくに二足歩行できない。何らかの幻術をかけられている。
「おっと、外に出ようなんて思うなよ」冷淡なたしなめ。「お前には無理だ。今、美術室の一角は、空間を切り取って断絶されているからな」
「は?」
「光の流れを堰き止めているんだ。ま、わかんねぇかぁ。そうだよなぁ。外界との干渉を遮断することで、光が入り込めなくなっているのさ。だから、周りの風景が視覚情報として届かないって寸法だ」
「せ、先生、何を言って――」
「俺は、あのお方から
「正気ですか?」
「お前は違うのか?
「…………!」
言葉もなかった。
現実の全てが引っくり返されようとしている。
信じていたものが――当たり前だった日常が――自暴自棄になって踏み荒らされ、蹂躙されようとしている。
いや、もうされていた。
「何だ、増場は魔力を分けて貰っていないのか。じゃあ昨晩の交通事故は、お前がやったわけじゃないんだな? 色彩術を行使したのは、飽くまでも阿保渡なのか」
張り合いがないなぁ、とばかりに三輪一元は肩をすくめた。
ぐるぐる。
その間も美憐は目が回る感覚にさいなまれて、ろくすっぽ身動きが取れない。三輪がどのような術式を展開しているのかは知らないが、これでは逃走できっこない。美憐をわざわざ拘束しないのも合点が行く。拘束するまでもないのだ。
「先生も……『色彩術師』なんですか」
「にわか仕込みだがな」
ニッとにやける。
その面が猛烈に腹立って、美憐は視線を鋭くした。
「あのお方から、術式をトレースして分け与えられたんだよ」
「……いつからですか?」
「あのお方が完全に力を取り戻してすぐ、だ。自殺を装って姿をくらますから、その後の校内の様子を一部始終観察して
美術部の無残な崩壊ぶりを皮肉ったのだろう。
まだパニックの爪跡は癒えておらず、美術室は破壊された内装の破片や瓦礫が散乱している。それらは、他でもない美憐や渡が起こした『復讐』であり、良かれと思って企てた報復計画だった。
しかし、それら一連の行動が仕組まれたものであり、そう展開するよう練り上げられたシナリオだったとするならば、話は別だ。
美憐と渡の、本当の敵は――。
「いやぁ、あのお方に魅入られるなんて光栄だよなぁ」
自慢げにうそぶく三輪一元が、果てしなく気色悪い。
自身の美術センスを『色彩術』でさらに昇華できるのが嬉しいのか、それとも力ある者に付き従う歓びを得たのか、はたまた『
――その全部か。
「俺ぁ、あの子が好きだった。おっと、変な意味じゃねぇぞ? あーでも、少しは教え子に期待しちまった面もあるかもな、ってまぁそれはどうでもいい。もしかしたらそんな気持ちすらも、あのお方の『色彩術』……いや『色気』に幻惑されただけかも知れんがな」
色にまつわる力。
色、と名の付くものであれば、何でも行使できる
それは色彩学に限らず『声色』だったり『色香』だったりと、多岐に渡る。
最強ではないか。
(お姉ちゃんを捨てた阿保家の判断は、早合点だったんだわ……)
だからこそ、
自分を見放した阿保家の人間を、憎んでいるのだ。
「いずれにせよ、俺は
阿保――。
美憐はさっそく噛み付く。
「阿保じゃなくて、
「もともとは阿保姓だったんだろ? 本人はそう名乗ったし、増場としての自分はもう死んだ、と断言しているぞ」
「けど、お姉ちゃんは里子に出されて――」
「阿保家に戻りたくて仕方なかったんだろうなぁ。一矢報いるために。自分を見捨てた本家に乗り込んで、一人残らず滅ぼすための練習台が、美術部だったんだ」
「だからって! 増場は増場です、あの人はあたしのお姉ちゃんなんです!」
「茶番だろ、そんなの」
「!」
「あの人はもう、お前ん家に帰ることはないぞ。何のために自殺を演じたと思う? 増場家の
目的を遂げるために。
「今まで復讐の鬼だったお前らが、あのお方の阿保家への『報復』を否定する権利はない」
「…………っ」
「ま、おかげで良いデータが取れたと喜んでおられたぞ? それを元に、さらなる色彩術の研鑽を積んで、阿保一族の幹部を始末し、頂点に返り咲くだろうよ」
「あんなに優しかったお姉ちゃんが、そんな恐ろしいことを――」
「あのお方に不可能はない、遅咲きだった反動で、内包している魔力量は桁違いだ。美術界の常識を覆すさまざまな技巧がお披露目されるぞ……人の死を伴ってな」
惚れ惚れとした表情で、三輪一元はのろけた。
大の大人が一介の女子高生にここまで入れ込む様は気味悪いにも程があったが、美憐は背筋の悪寒を懸命にこらえて、この担任教師を睨み据えた。
「……そして、アホくんの監査役が調査しに来た、と」
「おお、あれは傑作だったぞ! 監査役は、あのお方の実兄だそうじゃないか! 阿保家の次代を担う若き実力者なんだろうが、あのお方の痕跡を掴むのが精一杯で、本人を捕まえるには至らなかった。今頃は阿保家で大目玉だろうよ!」
――それで今日は居なかったのか。
美憐は妙に納得した。
ずっと渡の後ろに影をちらつかせていた聖人が、今朝は姿を見なかった。
てっきり校内には入らないよう自重しているのかと思ったが、そうではないらしい。
――あの渡も一目置いていた聖人が『色彩術』で出し抜かれた。
姉はそんなに強いのか。
ずっと蓄積されていた魔力が一気に覚醒され、恨み辛みと共に萌芽したため、誰の手にも負えない領域まで昇華したのか。
「ま、あの聖人って奴の実力なら、俺一人でも露払い出来るだろうがな」
「なっ……」
自信満々に三輪一元は述べた。
この教師も相当な『色彩術』を身に付けたと見るべきか。単なる慢心かも知れないが、周囲を取り囲む回転幕を見るにつけ、ある程度は本気なのだろう。
「知っているか? 俺の名は
「オスト……ワルト?」
一元論。
またぞろ名前の見立てかよ、と美憐はうんざりする。
渡もやっていた手法だが、そんなこじつけで『色彩術』施行のとっかかりにされても、さっぱり実感が湧かない。
推理小説に『見立て殺人』というジャンルが確立しているが、あれと似たような発想だろうか。そんなんでいいのか?
「一元論のオストワルトは、ドイツの有名な化学者でな。ノーベル化学賞も取ったことがあるマルチな博士だった」
「化学者であり、色彩学者……?」
「そうだ。オストワルトは色彩分野にも精力的で、独自の色彩調和論『オストワルト色相環』を発表している。理論上最も純度の高い白・黒・純色を設定し、色の濁りや濃淡を順序立てて表記する方式は、当時の色彩学に革命をもたらした」
「それと同じ
「オストワルトが配色の測定方法として用いたのが『回転混色』という現象だ」
「回転……混色?」
「それが俺の得意技だ」
三輪一元は大手を広げて自慢した。
ぐるぐる回転する空間。
視界の中で何もかもが混じり合って、何も見えなくなってしまう。
三輪一元さえも、輪郭がぼやけて背景に溶け込んでしまう。
(あたしの目が回って空間把握できないのって、そのせいなの?)
「車のタイヤを想像しろ。タイヤには細かいパーツや模様があるが、走って回転すると、それらのパーツは目で区別できなくなり、一体化して同じ色に見えるだろう?」
「回転の力で、視覚を狂わせる……ってことですか」
「そうだ。
それが、回転混色。
物体を高速回転させることで、色や模様を掻き消し、混濁させる技法。
純粋な回転速度だけで色合いを測定できるため、主観に惑わされることのない、極めて客観的な色覚が可能となる。
「お前はそこで、目を回してヘバっているがいい。俺はその間に、あのお方をお出迎えする準備をしておかなくてはならない」
「え! お姉ちゃんが来るの?」
「そうだ。お前と阿保渡を殺すためにな」
「…………な」
んですって?
にわかに理解できなくて、美憐は息を呑んだ。
「お前は真相を知り過ぎた。のみならず、阿保渡と親しくなり過ぎた。だから口を封じる」
「そんな! あ、あたしは、あんなアホと、別に親しくなんか――」
赤面する。
発火しそうな勢いだった。
「ごまかすな。お前、阿保渡に興味を持っているだろう? 好きなのか?」
「そ、そんなんじゃなくて……あたしはその、単に……っ」
呂律が回らなくなった。
顔が熱い。
紅顔の美憐は語尾も弱々しく尻すぼみ、ついには何も言い返せなくなった。
駄目だ。
頭に血が昇って思考が働かない。
確かに美憐は、渡に関心を抱き始めている。
それは一種の好意、と言えるかも知れない。色の
憤慨――いや、嫉妬だ。
(あたし……あんな奴を好きになっちゃったのかな)
力を貸してくれた彼。
初めて美憐の悩みを聞き入れ、分かち合ってくれた彼。
美憐は、そんな彼を――。
「まぁ、大人しくしていろ。最期にあのお方と対面できるだけ、ありがたく思うんだな」
三輪の声が遠ざかる。
足音が消えて行く。
ばたん、と美術準備室の扉が閉められた。
「え、待ってよ。あたしを出してよ! 外に出しなさいよ!」
美憐は追いかけようとしたが、目が回ってそれどころではない。
足がもつれて、気分も優れない。平衡感覚も鈍っている状況では、まともに立ち上がるのも困難だ。
「た、助けて……」
美憐は怯えた。
初めて怯えた。
恐れ、おののき、自らの行なって来た愚行の数々と、姉のてのひらで踊らされていた屈辱と恥辱、何よりも後悔と悔悛の念に駆られて、いつの間にやら救いを乞いた。
(助けて……アホくん!)
涙がこぼれる。
想いが募る。
復讐の無意味さや、罪悪感が爆発した。激しい後悔が、彼女の小さな胸を締め付ける。
(あたし……取り返しの付かないことをしちゃったんだ)
人を傷付ける悪行を、正義だと信じていた盲目さが恨めしい。
美憐は何も成し遂げられなかった。
姉と戯れた幸せな時間は、無駄だった。
涙が止まらない。
それを拭く気力も湧かない。
美憐はぐるぐると回転する絶望の淵へ巻き込まれ、深く沈んだ。
*
「やれやれ。美憐の奴、どこへ消えてしまったんだか」
渡は、美憐を捜索していた。
さっきまで顔を突き合わせて話をしていたのに、現実逃避とばかりに廊下を駆け出したかと思うと、あっという間に行方をくらませてしまった。
教室に顔を出してみたが、影も形も見当たらない。
(どうして僕が、あんな奴の面影を捜して回らなければいけないんだ)
一抹の理不尽さを噛みしめつつ、それでも放ってはおけないので校内を歩き回る羽目になった。
念のため女子トイレなども調べたかったが、さすがにそれは憚られた。
他に美憐が立ち寄るとすれば、美術室くらいなものだろうか。
「ん……三輪先生だ」
ふと、渡の視界の隅に、担任教師が映り込む。
そこは職員室の出入口だった。そそくさと退室した三輪の手には、『美術準備室』と記されたキーホルダー付きの鍵をぶら下げており、足早に美術室の方角へ遠ざかって行く。
(こんな時間に美術準備室? クラスでホームルームの時間じゃないのか? どうせ今日は休校になるだろうが、それにしたって――)
不審な行動に目を付けた渡は、担任を追尾することにした。
尾行なんて彼の柄ではないし、後ろめたさも感じるが、どのみち彼も美憐を捜しに美術室へ向かおうと思い立った所だったので、一定の距離を置いて廊下を進む。
(……妙だな。空間が歪んでいる)
そして、色彩の乱れに気付かない渡ではない。
美術室の周辺が、眩暈に見舞われた。
目が回るような錯覚。
何かを隠すように、色彩と光彩を歪曲されている気配。
術式の残滓だ。
一般人ならばともかく、色彩術師には一発で感知できる。こんな見え見えの工作を施すなんて、阿保一族の仕業にしてはお粗末すぎる。
ということは、三輪が?
素人の浅知恵で……?
(どういうことだ? なぜ三輪先生が色彩術を?)
などと懸念する間に、肝心の三輪は美術室へこもってしまった。
美術準備室へは、美術室の中から繋がっている唯一のドアでしか行き来できない。渡も慌てて美術室の手前まで歩み寄ると、いきなり入室はせず、しばらく聞き耳を立てた。
……静かだ。
中で何をしているのだろう?
美術室の片付けなり、何らかの用事なりを済ませるなら、物音くらいはするはずだ。
なのに、静かだった。
一〇分ほど経過しても音沙汰がなかったので、渡はいよいよ只事ではないと察した。適当に理由を考えて、三輪と対面すべく戸を開く。
「三輪先生、居ますか?」
「――うおっ! 何だ、どうした……阿保?」
勢い良く踏み込んだ室内は、いつぞやの集団パニックで荒れ放題のままだった。
散乱した備品、内装、壊れた画材、卓、椅子などがしっちゃかめっちゃかに床を埋め尽くしている。窓や蛍光灯は割れ、壁や床も一部に穴が空いていたりして、当時の爪跡がありありと思い知らされる。
他には何もない。固く閉ざされた準備室のドア、まばらに点滅する蛍光灯、あとは美術室の隅っこで
肝心の三輪はと言うと、美術室を出ようとこちらへ歩いて来る所だった。
「ホームルームの時間なのに先生が来ないので、捜してました」
渡は適当にでっちあげる。
「お、おう。そうだったか。だが今日はもう、解散だろう。もう少し教室で待っててくれ。じきに俺もそっちへ向か――」
「美術準備室に、何があるんですか?」
「――う?」
渡は鋭く睨み付けた。
さっき、三輪は準備室の鍵を持ってここに入った。
だが、今、彼の手には何もない。
ポケットに鍵を突っ込んだのかと思ったが、特に膨れ上がった様子はない。
「何のことだ、阿保? 先生は忙しいんだ、早くどいてくれ」
「どきませんよ。もしかして、中に何かあるじゃないですか? 先生が準備室の鍵を持ち出していたの、見たんですよ」
「へ、変な疑いをかけるのはよせ。鍵なんて持ってないぞ。ほら」
ご丁寧に、三輪はジャージのポケットの中身を全部、ひけらかした。あまつさえジャージのファスナーを外して、インナーまでさらす。
確かに、彼は鍵を身に付けていない。どこかへ隠したのは見え見えだった。
「よっぽど見られたくないものが準備室にあるんですね? 鍵を返却せずに隠しておけば、誰かに入室される心配もない」
「言いがかりはやめろよ、阿保。隠すったって、どこに? この美術室にか? まぁ散らかっているから、鍵を紛れ込ませることは出来るかも知れんが――」
渡は答えず、美術室を捜索し始めた。
床に引っくり返っていた椅子や机をさらに引っくり返し、積み重なった備品の残骸を掻き分け、崩れた壁の瓦礫や破片の合間に顔を突っ込む。
――ない。
鍵が見当たらない。
おかしい、確かに持ち込んでいたはずなのに。
「気は済んだか?」
三輪が呆れたように、乾いた笑みを浮かべている。
心の中で嘲笑っているのが、透けて見えた。渡は色彩術師だ、この部屋から妙な色彩の歪みがあるのはしきりに検知している。何もないわけがない。
「三輪一元……一元……一元論……ああ、なるほど」
そして、思い至った。
だから、気が付いた。
「この部屋に回転しているものと言えば……ああ、あそこの青い
「!」
先ほどもちらりと描写した通り、青色のプロペラを高速回転させている換気扇が見受けられた。そこへ渡が近付こうとするや否や、三輪が初めて体を揺さぶった。動揺した。
――当たりか。
渡は換気扇の紐を引いて、停止するのを待った。
果たしてプロペラの一翼に、鍵がセロハンテープで貼り付けられているのを発見できた。
「オストワルトの回転混色ですね、先生? ぐるぐる回っている物体は、色が一体化して見える……鍵はプロペラの青一色に染められて、ごまかされて、存在を隠されていた」
ましてや通常、部屋で鍵を探す際、机や身の回りを調べはしても、いちいち
それが盲点だった。
普段なら見逃してしまう所だったが、渡は寸前で看破できた。
飛び上がってプロペラに手を伸ばすと、勢い余ってプロペラごと鍵を引っぺがした。
プロペラ片手に床へ着地した渡は、準備室めがけて一直線に床を蹴った。
「準備室の中、改めさせて貰いますよ」
「くっ! やめろ阿保! 貴様、やめろと言っているのが判らんのか!」
三輪が鬼のような形相で駆け寄って来た。
渡はひらりと身を引いてかわすと、それでも立ちはだかろうとする三輪の脇をくぐり抜けて、素早く準備室のドアに鍵を刺し、ひねる。
そして、中に横たわっていた囚われのお姫様を睥睨した。
「ようやく見付けたぞ、相棒」
「……アホくん!」
*
(アホくんが来てくれた……アホくんが来てくれた!)
ドアが開き、光明が射す。
それは、回転混色で乱れた美憐の視界を切り裂き、正常な視覚へと回帰させてくれた。
てっきり、美憐に救いの手など差し伸べられないと諦めていたのに。
「床に寝そべるなよ、みっともないぞ」
聞き慣れた、嫌味ったらしい声色。
ずかずかと立ち入る、横柄な靴音。
美憐は彼の特徴を知り尽くしている。
待ち焦がれ、待ち望み、逢いたいと願っていた面影と気配。
「立てるか?」
「ん……無理」
「即答かい」
渡が――なぜか換気扇のプロペラを脇に抱えつつ――美憐に手を差し伸べる。
美憐は遠慮なく、その手を握った。引き寄せてもらった。立ち上がったあとも三半規管が回復しきっておらず、彼の腕にしがみ付いた。全力で寄りかかった。
広くて温かい、彼のぬくもりがあった。
「アホくん、あたし怖かったの。どうしていいか判らなかったの。アホくん、アホくん」
「アホと阿保は字が違う。連呼するな」
「あぅ」
危うく振りほどかれそうになったので、美憐は咄嗟に口をつぐんだ。
まだ、離れたくない。一人では立てない。出来ればずっと、彼に密着していたい。
「阿保おおおお! 貴様ああああ!」
そんな渡の肩越しに、三輪が激しい剣幕で入室して来た。
怒髪が天を突いている。術式を突破されて怒り心頭に発しているらしい。
「うるさいなぁ」吐き捨てる渡。「まさか三輪先生が一枚噛んでいるなんて、思いもよりませんでしたよ。けどまぁ、腕馴らしにはちょうど良かったな」
「何だとおおおお!」
三輪は露骨に殺気立った。
こめかみに青筋を立てる偉丈夫はいかめしい。よほど自尊心に傷が付いたようだ。
格下、ということだ。
みくびられて気分の良い人物など居ない。
「おい、阿保渡! 自惚れるなよ? お前は一族から足を洗い、独立をもくろんでいるそうじゃないか! 当然、その間は術式の鍛錬もせず、研鑽も積まず、名ばかりの阿保を掲げているだけ! そんな雑魚が、偉そうにほざくんじゃな――」
「偉そうなのはそっちだ、三輪」
「――いっ?」
先生を呼び捨てにした。
渡の双眸は据わっている。有無を言わさぬ敵意と、義憤がこもっていた。
「こと『色彩術』に関しては、血族である僕の方が圧倒的に上だ。付け焼刃で魔力を複製されただけのヒヨッコが、ピーチクわめくな」
「阿保おおおお! 言わせておけばああああ!」
「もう少しで
「俺を見くびるな――」
「こっちの台詞だ」
「――がはぁっ!」
あいにく、三輪の抗弁は中断された。
渡は、先ほど剥ぎ取った換気扇のプロペラを、三輪の眼前に掲げて見せた。
青光りするプロペラを、手動でくるくると回す。
――青色に煌く、短い
「同じ回転混色でも、使い手によって段違いの殺人技術になることを教えてやろう」
「ぐふっ……な、何だこれは!」
たちまち三輪はたたらを踏んだ。
平衡感覚を保てずによろめき、しまいには手足の自由さえ利かなくなって、硬直したかのごとく縮こまる。
立って居られず、尻餅を突き、両腕を手で抱えて、しきりに身震いを繰り返した。
――寒がっている。
鳥肌と鼻水が止まらない。
三輪一人だけ、吐く息が白く見えるのは視覚トリックだろうか。
そばに立ちすくんでいた美憐は、至近距離で苦悶を訴える三輪に着いて行けず、目を丸めるばかりだった。
「さ、寒い……助けてくれ……震えが止まらん……手がかじかむ、凍死してしまう!」
「それがお前の限界だ」肩をすくめる渡。「僕は今、青みがかった寒色系の指向性スペクトルをプロペラから放った。色彩心理において、寒色がもたらす効果は――」
「寒けと怖気ね!」
美憐は合いの手を打つように叫んだ。
昔、生前の
「そう。どんなに室温が高かろうと、青一色に支配された心理状態は、寒さや冷気の概念から逃れられず、決して体は温まらない。それを極限まで顕現させたのが、この術さ」
――まさに今、三輪一元が凍えているように。
「だ、暖房と毛布をくれ! 凍えて体が動かん……意識が遠のく……眠い……っ!」
がくり、と三輪の動きが停止した。
事切れたように四肢を投げ出し、白目を剥く。
凍死寸前の昏睡状態、と言った所か。しかしそれは精神的な幻惑であって、実際に体が凍えているわけではないため、命に別状はない。
無傷のまま標的を攻め落とせるのも『色彩術』ならではだった。
床に転がった哀れな教師を踏み越えて、渡はポケットから携帯電話を取り出した。
「もしもし、聖人にいさんか? ああ、もうじき
言い終えるなり通話を切る。
そして、その腕にまとわり付いて離れない美憐を一瞥した。
「アホくん! あたし、あたし――」
「喜ぶのはまだ早い」準備室の外へ引っ張る渡。「
*
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