Cパート 知(C)の恵みを受けし者

C‐1.真相

   C‐1.真相


「一人で作戦を決行しただと! お前は馬鹿か! 馬鹿なのか?」

「……そんな言い方ないじゃない。アホくんだって大概よ」

「ああそうか、お前はただの馬鹿ではなく、馬鹿にも劣る犬畜生だな! お前は愚図だ、鳥頭の極致だ。無知蒙昧、傲岸不遜、厚顔無恥のとんでもないうつけ者だ! お前なんかを少しでも信用した僕が浅はかだった!」


 阿保渡が、歯軋りしている。

 どの教室からも死角になる廊下の片隅、曲がり角の物陰で。

 永久歯が今にも根こそぎ擦り切れて消滅しかねない勢いで、射殺すような眼光と憤怒の形相を携えている。

 美憐の眼前で。

 鼻先で。

 長身を折り曲げ、わざわざ美憐と同じ高さの目線に合わせながら。


「まさか、僕の許可なく勝手に『色彩術』を使うとはな……!」


 渡が壁を殴り付ける。

 美憐を追い詰めた壁面を、鬱憤晴らしのごとく何度も殴る。

 そんなことで鬱憤が晴れるはずもないし、彼に詰め寄られた美憐が恐喝されているようにしか見えない光景だったが、渡は人目がないのを良いことに、なりふり構わず口角泡を飛ばしたのだった。

 美憐はせいぜい虚勢を張って、こう言い返す。


「けど、そのおかげで今日、アホくんが登校してくれたわ」

「それとこれとは関係ない!」


 また壁を殴る。

 絵を描くべき繊細な右手を、よくもまぁそんなにボコボコ叩けるものだと美憐は呆れた。大事な利き腕ではなかったのか。今の渡はそれほどまでに、怒りで我を忘れてしまっているという証左か。

 ――よっぽど美憐の独断専行が目に余ったのか。


「今朝、事故のことで臨時の全校集会があったよな?」

「今朝というか、たった今ね」


 美憐はちらり、と左手に巻かれた赤い腕時計を見た。

 午前九時過ぎだ。

 本来なら一時限目の授業が始まる頃だが、体育館で急遽行なわれた全校集会によって遅れを生じていた。

 校長先生じきじきによる長ったらしい報告と、警察の状況説明で時間を潰した集会は先ほど終了し、生徒は各自、教室へ引き返している最中だった。

 ――美憐は渡に手を引かれて列を離れ、廊下の末端に身を隠し、こうして事の次第を問答されていた按配だ。


「それによると、馬里月乃が車を走行中に交通事故を起こし、意識不明の重態に陥ったそうじゃないか!」

「……大変よねぇ」目を逸らす美憐。「市営病院の前を走ってる国道、だったっけ? ガードレールを突っ切って壁に激突、爆発炎上……もう絵に描いたような惨劇よね。不幸中の幸いは、当時の事故現場周辺には通行人も車も少なくて、誰も巻き込まなかったことくらいかしら?」

「ふざけるなっ!」


 また壁をぶった。

 渡本人も拳を痛そうに握り締めている。

 なら殴らなきゃいいのに、と美憐は喉元まで出かかったが、話を混ぜっ返すだけなので黙っておいた。

 彼女の目的は達成されたのだ。

 報復を遂げた。

 こうして渡とも再会できた。

 何も問題ない。

 一つだけ、三輪のことで不安が残っているものの、それは今言うことではない。


「僕が戻るまで実行するな、と忠告したのが理解できなかったか?」

「どうしてそっちの都合に合わせなきゃいけないの? そうやってズルズル延期するうち、馬里月乃の生活パターンが変わっちゃったら台無しでしょ? 思い立ったが吉日よ。罠を仕掛けるチャンスがあったから、その好機を逃さず実践したまでよ。あたしは悪くない! どう考えても、あたしの決断こそが正しい!」

「お前、自分で何を言っているのか判っているのか」

「重々承知だわ。幸い、あなたの『色彩術』は小道具に宿ってたみたいだから、罠も滞りなく発動してくれたわ。その点はあなたに感謝してもし足りないくらいね。ありがとう、お礼を言っとくわ」


 美憐はぺこり、と頭を下げた。

 詰め寄られた渡の懐で小さくお辞儀しただけだったが、それは偽らざる美憐の本心でもあった。どんな過程にせよ、渡の助力なくして報復は達成できなかった。彼の『幻術』イリュージョンがあってこその悲願成就であることは疑いようがない。


「僕はどうなっても知らないからな」


 渡は諦めたのか、とうとう拳を下ろした。

 慇懃無礼な美憐に歯牙を抜かれたのか、それとも呆れ果てたのか。震える双肩から力を抜いて、一歩だけ引き下がる。


「色彩術師でもない一般人が、術者の調整なしに力を行使して、無事で済むはずがない……必ず何かしらの負担、後遺症、見えない墓穴を掘っているに決まっている」

「脅しても無駄よ。もうやっちゃったもん」

「お前に道具を預けるんじゃなかった。僕の軽率さが招いた失態だ」

「今度は自虐? そこまで言うことないじゃない」


 顔を上げた美憐が、今度はむくれる番だった。

 こうも言われっ放しでは、癪に障る。

 美憐には美憐の事情があったのだし、一方的に席を外した渡の落ち度を考慮に入れたとしても、一言くらい反駁したくもなる。


「大体、アホくんにも説明責任はあるんだからね? 今まで学校をサボって、どこで油を売ってたのか――」

「だから、それはだな」


 欠席の理由。

 そこは渡が最も突っ込まれたくない内容だったらしく、罰が悪そうにさらに後退した。

 美憐はここぞとばかりに一歩近付く。間合いを詰める。


「許婚が見付かった、とか言ってたわよね? 昔別れた女の子に未練がましく付きまといに行ったの? うっわ根暗、いい加減忘れて新しい恋を探しなさいっての」

「何だと。人の気も知らないで」

「知るわけないでしょ、教えて貰ってないもん。教えて貰おうと思ったけど、先に姿をくらましたのはそっちじゃないの。こっちはさんざん質問しようとしたのに音信不通だし」


 美憐の舌鋒は止まらない。

 さすがに渡も難色を示したのか、気勢を削がれてたじろいだ。


「いや、だからそれは……」

「そもそもアホくんって、許婚の面影をお姉ちゃんに求めてたくせに、いざ本物が見付かった途端、それまでの求愛をチャラにして本物へのこのこ尻尾振りに出向くなんて、もはや尻軽どころでは済まないわ、単なる浮気性じゃないのよそれ――」

「待て。お前にそこまで言われる筋合いはない」

「あるわよ」

「ない」

「あるってば!」

「ない!」


 言い合いが続いた。

 ガキの喧嘩にも等しい、己の主張を繰り返すだけの低次元ないさかいである。張り合ううちに美憐も我ながら情けないと冷静に傍観できたものの、売り言葉に買い言葉で両者の語気がヒートアップしていると、今さら後には引けなかった。

 かあっと頬が朱を帯びる。

 真っ赤にのぼせ上がる感覚を実感しながら、美憐はなおも突っかかった。


「あるって言ってんでしょ! あたしはね、あなたを頼りにしてたのよ? お姉ちゃんの仇を討つ、唯一の協力者だったんだから! あなたのこと、お姉ちゃんも満更じゃなかったみたいだし……あたしだって一緒に行動するうちに、だんだんと良さが判って来たんだから。あなたが居なくて寂しかったし――……って、何言ってんのあたし。あうぅ」


 思いの丈を吐きかけて、ようやく美憐は息を飲み込んだ。

 危うい所でブレーキがかかった。

 ――あなたが居なくて寂しかったし。

 こんな言い方、まるで愛の告白みたいではないか。


 あなたが MISSいなくて YOUさびしい


 数日振りに会えた渡との会話は、彼女の気分を変な方向に高揚させていた。

 そしてそれは、あながち強がりでもないのだ。

 鼓動の高鳴りが止まらない。

 顔が熱い。一人で勝手にゆでだこ状態だ。


「……結局、何が言いたいんだお前は?」


 渡が怪訝そうに見下ろした。

 腰に手を当て、肩をそびやかし、斜に構えた横柄な居住まいに戻っている。

 お互いに思いっきり叫び合ったおかげだろうか。剣呑な空気がほぐれて、いくらか相手の意見に耳を傾ける精神的余裕が生まれている。

 嗚呼、これだ。

 美憐が一人だった間、欠けていたもの。

 とても懐かしく、安心できる何か。


「目の前に居るあたしを放っぽって、昔の女の尻を追いかけ回すなんてあり得ないんじゃないの? ってことよ!」

「判ったから怒鳴るな。それについては、今から話す」

「え」


 渡が折れた。

 否、もともと彼はこんな調子だ。ただ、本題へ入る前の段取りや連絡に不服があると、そっちに脱線してしまう悪い癖があっただけで。


「お前も気になっていたんだろう? 僕も別に、話さないとは一言も言っていない。時機を見計らっていただけだ。正直、まだ時期尚早だとは思っているが、こうなったらやむを得ない。そうしないとお前が納得しないんだろう?」

「そ、そうよ」

「なら話す。全く、世話の焼ける相棒だ」


 しれっと言われた。

 ――相棒。

 そんな冷静沈着に堂々と正面切って断言されると、こっちが照れ臭くなってしまう。


(相棒って、パートナーってことよね?)


 体が熱くなる。

 無論、特別な意味などはなく、単に『復讐の共犯者』という程度の言い回しでしかないのだろうが、美憐にとってそれは、無性に甘美な響きを含有していた。

 さっきまでの不満や憤懣が、すっかりどこぞへ洗い流されてしまう。


(あれ……あたし、なんで怒ってたんだっけ?)


 気が付けば、美憐の機嫌がいつの間にやら良くなっていた。

 何だろう、この気持ち。

 今まで目くじらを立てていたのが馬鹿馬鹿しいではないか。

 まるで道化だ。


「僕は、例の監査役……阿保聖人きよひとにいさんに連れられて、一時的に実家へ帰った」

「きよひと……って言うんだ、あの人」


 美憐は脳細胞を総動員して、うろ覚えの優男を回想した。

 小柄で童顔の、そのくせ何事も我が物顔で取り仕切ろうと強引に顔を突っ込んで来る、辣腕の『色彩術師』――。

 全身に十字架のアクセサリをくくり付けた、メンズゴシックの奇矯な美青年は、今はこの場には見当たらなかった。さすがに平日の学校までは勝手に立ち入ったりはしないらしい。それとも、任務を果たして別の行動へ移ったのだろうか。

 いずれにしても、美憐はあまり好きになれない人物だった。


「……って、にいさん?」


 言葉尻が引っかかる。

 ――聖人にいさん。

 渡は、奴のことを確かにそう呼称した。


「正確には、義兄だ。義理の兄になる予定の人だった」

「どういうことよ」

「あの人は、許婚の実兄なんだ」

「許婚の――?」


 阿保一族の親戚。

 将来、結婚する予定だった人の、肉親。

 そういうことか、と美憐は合点が行った。

 本来であれば、渡が成人したら許嫁と結婚して、その兄である聖人は義兄弟になる予定だったのだ。その当てが外れた現在も、聖人は一族の端くれとして渡を監視する役目を負い、門外不出の『色彩術』を見張っている。


「僕にとっても、あの人にとっても、許嫁の再発見は唐突だった。だってそうだろう? もう二度と関与しないと思っていた人物だったからね……」

「そりゃ、まぁ」

「第一、阿保家の本家筋ですら放逐していた娘なのに、今頃になって所在が報告されるなんて、ただ事じゃない」

「……確かに」腕を抱え込む美憐。「何か、まずい事態だったのね?」

「ああ――」目を伏せる渡。「――『色彩術』の漏洩が発生した」

「漏洩?」

「門外不出の術式が何者かに模倣され、世間に広まろうとしていたんだ」

「え、それって」

「安心しろ、僕たちのことではない。ただ、似たようなケースが発生したというだけだ。でもまぁ、僕が疑われたのも事実だな。そうじゃなきゃ聖人にいさんが派遣されて来るはずがないから」


 実際、渡は美憐に『色彩術』の一端をレクチャーしてくれたではないか。

 そのことが掟に抵触するとしたら、申し訳なく感じてしまう。

 どうやら監査役の聖人とやらは、そうした一族の秘密事項を守るために、全国津々浦々を旅して回っているらしい。渡の漏洩疑惑が、聖人の追っている一件に無関係だと証明されたので、ようやく解放して貰えたという次第である。


「漏洩が、アホくんの許嫁に関わってた、ってこと?」

「そういうことになる。それもただバラすんじゃなく、術式を緻密に模写トレースしていたというから驚きだ。術式を模写・あるいは複製するなんて、魔力を持たない一般人には絶対真似できない領域なんだ」

「トレース……?」


 意味が、掴みかねた。

 美憐が渡の力を借りて実行した術式とは、わけが違うということか。

 美憐は飽くまで、渡が付与してくれた『色彩術』の小道具を借りただけに過ぎない。美憐自身は何の力も持たない一般人だからだ。彼女自身は無力なのだ。

 でも、模写は違う。

 実行者自身に力がなければ、正確な模写は出来ない。そっくりに複製できない。そんなものは、ただの下手くそな真似事でしかない。

 ――阿保一族の輪から外れた、魔力の持ち主が門外に潜んでいる、ということだ。

 その候補者として槍玉に上がったのが、かつて一族から放逐された面々だった……?

 聖人たちが血眼になって洗い出しを行なっているというわけだ。

 美憐は考えあぐねて、黙りこくってしまう。

 静まり返った。

 美憐の五感だけが停止したかのごとく。

 無論、それは錯覚だ。むしろ研ぎ澄まされた彼女の五感が、廊下の向こうで列を成して教室に帰って行く生徒たちのノイズを一切無視して、渡の一挙手一投足だけを濃密に感受するという集中力の現れである。


「信じられないことが起きようとしている」


 長口上になるのだろう、渡は一言置いて唇を舌で湿すと、深呼吸してから滔々と語り明かした。


「僕より一つ年上の許婚は、隣の県の中流家庭に養女として引き取られた……という設定で再発見された」

「設定?」

「幸い、里親の愛情を注がれて育ち、阿保家から出るときに封印された『色彩術』の片鱗も悟られることなく、一般人として溶け込んでいた――」

「なら問題ないじゃない。一体何が」

「――かに見えた」

「え?」


 美憐は絶句する。

 渡は再び息を吸って、ゆっくりとうそぶく。


「許婚の体内に封じられていた『色彩術』の魔力は、経年とともに何倍にも膨れ上がり、本人も知らぬ間に現実世界を歪めていた」


 世界を?

 歪め――?

 美憐にはさっぱり判らなかった。


「ちょっと待って。その許婚って、能なしだから放逐されたんじゃなかったの?」


 美憐は耐えかねて、問う。

 当然の疑問だった。魔力ゼロで一族に貢献できないから捨てられた、と聞いたのに、今さら『実は才能があった』と覆されても困る。


「なのに、どうして今さら」

「一族も気付かないほどの、些細な天賦はあったんだろう。誰にも気付かれない程度の、雀の涙程度しかない魔力だとしてもね」


 些細な芽。

 普通なら育まれることのない、ささやかな種。

 そんなのは通常、摘まれてしまう。貧相な芽なんかに構わず、最初から大きく芽生えた方を大切に扱うのが人間だ。その方が判りやすいからだ。

 でも、それが最初だけだとしたら?

 始めは落ちこぼれでも、あとから伸びる者だって居る。

 逆に、始めだけ凄くても、のちに伸び悩んでしまう者だって居る。

 では、許嫁は――?


「腐っても阿保の血族だったのさ。先天的な遺伝情報では知り得ない、かすかな『幻術』イリュージョンの片鱗だとか残滓だとか断片だとかが、長年、積もり積もってようやく発露したと見るべきなんだろうな」

「は、はぁ……」


 判るような判らないような。

 美憐にはちんぷんかんぷんだった。

 この男は――眼前に立つ調整士は――何を言おうとしているのだろう?

 話の筋が微塵も見えない。

 そしてそれが、のちのち美憐自身に降りかかることも、予知能力者でもない限り見えるわけがなかった。


「一般家庭で育てられた許婚は、やがて美術の才能に目覚め、優秀な成績や賞を修めるようになったそうだ。里親自身は離婚と再婚を繰り返していたようだが、連れ子を大事に育ててくれたのは間違いない」

「え? それって――」

「しかし、美術の頭角を現し始めた許嫁は、世間から妬みと嫉みを一身に受けるようになった。卓越した才能は奇異の目で見られ、気味悪がられるようになった」

「それって、どこかで」


 美憐の心に、黄信号が灯る。

 何だそれは。

 どこかで聞いたような。

 とても身近な、とても間近な――。


「許婚はイジメを受け、孤立し、姿をくらました」

「冗談でしょ、アホくん? 本当なの?」

「遺書を残して、自殺をしたということになっている」

「――!」

「一つだけ違うのは、里親の戸籍にも、学校の記録にも、全くそんな少女が生活していた形跡が残っていないということだ。消されてしまっている。まるで証拠隠滅のように」

「はああ?」

「おかしな話だ。直前まで『そういう設定』で、全員が寸劇を演じていたのに」


 設定。

 美憐は間違いなく、記憶に残っている。

 知恵の記憶を覚えている。

 美憐だけではない。渡だって、美術部の連中だって、三輪先生だって、学校関係者に至るまで、みんなが知恵のことを覚えている。

 彼女が生活していたことを、知っている――知っている?

 本当に?

 それは、事実だと言えるのか?


「幻覚……ってこと?」


 色彩術。

 幻を生み出せる魔術。

 色彩原理の理論さえ確立できれば、実際の物理的には不可能でも、魔力によって実現できてしまう幻惑。

 それを、知恵が操れたとしたら――?


「現場には『色彩術』を処方した痕跡があった。光源を歪め、架空の舞台が作られていたんだよ。聖人にいさんの調査結果では、せいぜい仕掛けてから一ヶ月足らずだそうだ」

「お姉ちゃんが自殺した頃と一致するわ!」

「そう。それはまるで、知恵さんの人生を精密に模写し《トレース》たかのようだった。新たな舞台で、新たな人物を配置して、架空の幻想で再現したような――」


 架空。

 幻想。


(――『幻術』イリュージョンだわ!)


 意識の混乱とパニックを招き、偽りの環境を構築していた。まるで、本当に起こった出来事であるかのごとく。

 再現リプレイしたかのごとく。

 ちょうど居合わせた阿保家の出奔者・渡を利用して、一連の顛末を煽動させたのだ。


「ちょっと待って。え、何? ちょっと待ってよ」


 美憐は頭を抱えた。抱えるしかない。

 どこまでが現実なのだ?

 どこからが虚構なのだ?

 再婚した両親。連れ子の知恵。ともに過ごした日々。

 この記憶は本物のはずだ。姉が着ていた私服だってあるではないか。姉の部屋も残っている。あれらが全て虚像であるはずがない。


「覚えているか?」歯噛みする渡。「知恵さんの死体は、どうなった?」

「え。それは……葬式を、して……燃やして……え? あれ? そんなことしたっけ?」


 記憶に、ない。

 イジメで自殺したのは覚えている。

 そこまでは記憶している。

 そういうことに、なっていたから。

 そうだと、思い込まされていたから。

 誰も彼もが。

 どいつもこいつも。

 ――『知恵は美術部でイジメられて死んだという設定』を信じ込まされていたから。

 現実が幻影に切り替わったのは、ここからか。

 翻って言えば――。


「――よく聞け、増場。告別式も火葬もしていないんだ。違うか? そんな描写はどこにもない。なかったんだよ! あんなに大切に想っていた姉の葬式も、墓参りも、お前の話には微塵も出て来なかった。僕も気に留めなかった……おかしいと思わないか?」

「まるで、あたしたちを幻惑してたみたいに?」

「誰の記憶にもない、記録にもない。お前の両親は、式に戻って来たか? ずっと海外出張しているんだろう? 親なしで葬式をやったのか?」

「そ、そうだわ。葬式なんてやってない……お姉ちゃんのお墓がどこにあるのかも知らないわ……どうしてだろ。なんで私、そんな重大なこと、気にも止めてなかったんだろ……」


 天地が引っくり返りそうになった。

 わけが判らない。

 何が真実なのだ?


「もしかして、お姉ちゃんは死んだと思わせて、自由に動いてた……?」

「そうだ。これは知恵さんの仕業だ。あの人は生きていた。死んだ振りをして、僕たちの報復劇を誘発し、身に着けた『色彩術』の試運転をしていたんだ」

「ど、どうしてそんなこと……」

「知恵さんが、僕の許婚だったからだよ」


 渡は目を閉じた。覚悟するように。

 美憐はしばらく二の句が継げなかった。

 言葉にならない言葉。場を取り繕うように次の言葉を思い付けたのは、たっぷり数分が経過した後だった。


「アホくん……本気で言ってるのよね?」

「知恵さんは養女なんだろう? お前たち姉妹は連れ子どうし……血の繋がらない他人だ」

「うちの母親が、引き取ってたってことよね?」

「そう……そして以前も、ちらっと話したと思うが、僕の許嫁の名前は『トモエ』さんと言った。幼少の頃だったから漢字までは覚えていないが」


 トモエ。

 美憐はたまらず、息を呑んだ。

 自殺した姉の名前は、知恵ちえ

 しかし、それは。

 読み方を変えれば。


 知恵トモエ――?


 心拍数が跳ね上がる。たちまち耐え切れなくなり、美憐の顔は真っ赤に上気する。

 頭に血が昇る。のぼせ上がる。

 なのに、体は氷のように冷えて縮こまった。

 以前、渡は知恵ちえに、許嫁の面影を見出していた。そのとき、名前の類似性に関しても一抹の引っ掛かりを覚えていた。

 何もかも、こういうことだったのだ。


知恵トモエさんは里子に出されて以来、字面はそのままに読み方を変え、別人として生きて来たんだろう……彼女は一般人として育てられたが、次第に『色彩術』を開眼し、しまいには僕と再会したことで、本来の記憶を思い出した」

「だからって、どうしてこんなまどろっこしいことを――」

「術式の実験だ」

「実験?」

知恵トモエさんは例え放逐されても、野に下っても、たった一人で僕ら阿保家の『色彩術』を模倣・再現できるという、示威行為を見せ付けたのさ」


 知恵は遅咲きだったが、誰よりも才能を開花させたと主張したいらしい。

 一つの学校を巻き込んで、ここまで大がかりな幻惑を誘発できるのだと誇示したかった次第である。

 術式の模写。みんなに嘘の記憶を植え付けるほどの、色彩原理の再現度。


「大方、僕という阿保家からの出奔者が居たことも、彼女にとって好都合だったんだろうな……まんまと利用されてしまったわけだ。僕が知恵さんに恋心を抱いたのも、あるいは幻惑させられただけだったのかも知れない」

「嘘でしょ。じゃあ、あたしも?」

「否定はしない。知恵さんを好きであればあるほど、僕たちは復讐に駆られて行動を起こすに違いないからな」

「あたしの、この感情が、全部ニセモノだっていうの?」


 認めたくない事実。

 もちろん、まだ事実だと判明したわけではないが、美憐には到底受け入れられなかった。


「何もかも、知恵さんのあからさまな挑発だったのさ。阿保一族へ『私はここに居るよ』と発信したんだ。あの人は……自分を捨てた阿保一族に恨みを抱いている」

「ちょ、え? あの優しかったお姉ちゃんが、人を恨む……?」

「まんまと一杯食わされた。知恵トモエさんの罠だった。あの人は、再会した僕が惚れ込むよう誘惑し、そのくせ告白したら断って、美術部の連中を幻惑して『自分をイジメ自殺に追い込む』よう操った」

「色彩心理による、マインドコントロール?」


 光と色は、人の感情や記憶すらも制御できる。

 以前、そう聞いたことがある。

 だからって、美術部全員を同時に操れるものなのか?

 それほどの使い手が、野に放たれていたなんて。


「僕らの報復劇を観察し、手玉に取れれば、ひとまずは実験成功だったんだろうな」


 渡の存在は、あの人にとってその程度のものだった。

 阿保家を出奔した渡など、簡単に操れるという宣戦布告。

 渡がどんな気持ちで出奔したかも知らずに。

 美憐の気持ちさえも踏みにじって。


(あたしとお姉ちゃんとの思い出も……部屋に残ってるお姉ちゃんの遺品も……)


 姉を慕う気持ちを――家族愛を――利用したのだ。

 知恵トモエは『色彩術師』として、こんな所にくすぶっているのが我慢できなかった。

 力を取り戻した以上、返り咲きたい。

 同情を引いて仕返しをしたい。

 まずは、再会した渡を手玉に取ってやろう――。


「ふざけないでよ! 正気なの?」


 美憐は、渡の腕を掴む。

 押し迫って直視する。

 目と目が合う。

 さらに近付ける。

 迫真の剣幕だった。美憐の記憶は錯乱する一方だ。


「お姉ちゃんが、あなたの許婚? 若くして美術の才能に恵まれたのも、封じられた力が少しずつ蘇ったせい? 確かに同一人物なら、あなたが許婚の面影をお姉ちゃんに見出したのも頷けるけど――」

「阿保一族の過失だ。そして、お前は報復すべきではなかった。昨夜の犯行も、ほぼ確実に知恵トモエさんが観測しているぞ。当然、阿保家からも睨まれる、関連性を疑われる危険がある。少なくとも、知恵トモエさんの身内として目を付けられる」

「冗談じゃないわ……!」


 本当に、冗談ではなかった。

 笑い話では済まされない。


(――今まであたしがやって来た『復讐』は、茶番だったってこと?)


 燃えたぎる使命感も。

 仇討ちの正義感も。

 姉を想う、この心も。

 何もかも知恵トモエに仕込まれた感情だったのだ。

 繰り返しになるが、知恵トモエは美術部をまるごと『色彩術』で幻惑した挙句、渡と美憐の復讐心を煽り、てのひらで操って、まんまと自己アピールの広告にした。

 イジメも、自殺も、知恵トモエが仕組んだ芝居だった。


「どうしよう……あたし……取り返しの付かないことを……!」

「何がだ?」

「部長を……副部長を……美術部の人たちを……復讐と称して傷付けたのよ!」

「美術部員が知恵トモエさんをいじめていたのは事実だ」

「そう仕向けられてたんでしょ? 美術部のみんなも、お姉ちゃんをいじめるよう心理誘導された被害者なんでしょ!」


 知恵トモエの自作自演。

 役者は一人も気付けなかった。あたかも自由意志で知恵トモエをいじめたと思っていた。誰も知恵トモエの操り人形だとは思いも寄らなかった。


「しかも、あたし……昨日の晩、三輪先生と鉢合わせちゃって……!」

「何だと――」眉を吊り上げる渡。「――あ、おいっ待て!」


 どん、と渡を押しのけて、美憐は居ても立ってもいられず、廊下を駆け出した。

 がむしゃらに、あてどなく一人で遁走する。

 頭の整理が追い付かない。

 何なの?

 一体これは何なの?

 ひたすら廊下を走り抜ける。

 生徒たちが何事かと注目し、後ろ指を差すのも構わず、美憐は逃げるように突っ走る。逃げ場なんてどこにもないのに。


 どうしよう。

 どこへ行こう。

 ――美憐の居場所は、どこだ?

 虚飾に満ちた信念が否定され、アイデンティティは崩壊した。実にもろかった。姉が教えてくれたパーソナルカラーも、赤毛が好きと言ってくれたあの言葉も、美憐が姉に好意を抱かせるための布石でしかなかったのか。

 いや、待て。

 そもそも渡の言ったことですら、真実かどうか確証はない。

 この世の全てが疑わしかった。


(あたしには判らない……判らないよ!)


 どれが現実ほんとう

 どれが幻覚うそ

 どこから、どこまでが――。


「何しとるんだ、増場?」

「!」


 ――肩に、手を置かれた。

 校舎の裏口、廊下を突っ切った先にある職員用玄関で荒く息を吐いていた美憐へ、一人の男性教諭が肉迫した。


「三輪……先生!」


 ゆうべの目撃者だった。

 思わず身をこわばらせる。

 しかしもう、遅かった。


「いかんなぁ、増場。廊下を走っちゃあ……ましてや、こんな時期に、人命をもてあそぶような罠まで張ったりして――」


 罠。

 やはりこの教師は薄々勘付いているのか?

 美術教師は、にやにやと下卑た笑みで呟いた。

 その表情に、今までの面影は微塵もない。

 はて、この担任教師はこんな風体だっただろうか。美憐へ話しかけているのに、どこか芝居の台詞を呟くような空々しさが付きまとっていた。

 まるでに、何かに魅入られて、操られているかのような――。

 美憐の肩に手を置いたまま、離してくれない。

 三輪の握力は大したもので、爪が食い込んで非常に痛い。


「先生は知ってるんですか? 色彩術のことも、お姉ちゃんのことも――」

「お前は少し、動き過ぎた。阿保渡と接触し過ぎた」迫る毒牙。「姉のために立ち回るのは思惑通りだが、こんな体たらくではあのお方に……知恵トモエ様に報告しなければならん」

「!」


 暗転入滅ブラックアウト

 美憐の記憶が途切れた。かつて聖人にされたのと似たような症状だった。

 視界がぐるんと回転するような強い色光を浴びた瞬間、ボロ雑巾のように床へ仰臥したあられもない姿のまま、美憐は意識を失った。


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