第6話 夢の続き

「郁海!! 無事か!?」


 崖の小道を海斗が駆け下りて来るのが見えた。

 それを見た拝島の表情に余裕が戻る。


「こいつらは郁海を捕獲に来た連中だ。手段を選ばない非合法組織だよ」


 伯父の言葉に海斗の鋭い視線が、私に寄り添う青年に突き刺さる。


 違う――どこまで事情を知っているか分からない幼馴染に対し、私が言いよどんだ隙に。

 拝島はポケットから取り出した無針注射を海斗の首筋に打ち込んだ。


「何しやがる!」


「私からの最後の親心だよ。ここで負ければ全てを失う。さあ、直系の力を見せてくれ!」


「言われなくても!!」


 首筋を押さえた海斗が私達に向き直り、直後岩場を蹴って後方に跳ぶ。寸前まで海斗のいた場所を蹴り砕いたキィは、反応出来ず岩壁に張り付く拝島を無視し、岩場を跳び海斗の後を追う。


 自由を奪われたままなのに、次第にキィの動きが速くなってゆく。体格では海斗が勝るが、拳主体の海斗の攻めより、キィの蹴りの方がなお速い。


「薬が抜けてきたみたいだね。キィが自分から戦うのは初めてみたよ」


 やっぱり薬を使われていたのか。少なからぬ不信と不快感を込めた私の視線に気付かぬのか、青年はどこか誇らしげに続ける。


「でも、あれでもまだ全力には程遠い」


 キィの蹴りがその胴を蹴り抜いたかと見えた一瞬。左腕でキィの片脚を抱き込み封じた海斗は、右の拳でキィを打ち抜く。


 岩盤に叩き付けられた次の瞬間蹴り上げられる少女の身体。争い続ける魚人や黒衣の男達を吹き飛ばしながら、地に落ちることさえ許さぬまま、球技でもするかのように一方的な攻撃が続く。


「駄目! もう止めてあげて!」


 拳を振るい続ける海斗の表情が獣じみてきた。瞬きもせずただ眼前の敵を睨み続ける。圧倒的に優位に攻撃しているはずのその顔には、焦りの影が見える。

 キィの表情は変わらない。けれど、その目は何度吹き飛ばされても機械的に海斗に向けられている。


 攻撃し続けているんじゃない。させられているんだ。

 その事実に思い当たり背筋に冷たい物が走る。


 拳を止めた瞬間、自分に降りかかる運命を予感して。いまや海斗の表情は、はっきりと恐怖と認識出来るまで歪んでいる。


「もう止めて!!」


 再び口をついて出た言葉は、どちらに対する物だったのか。

 振り抜いた海斗の左拳の上に、キィが留まった。

 体勢を立て直し、海斗が右の拳を振るう前に少女は空を舞う。

 月に照らされ虹色に輝く、その滑らかなシルエットは、官能的にすら思えた。


「海斗!!」


 少女の踵落としと少年の正拳突きが交差する。


「郁海……」


 私に向かい手を伸ばす顔が、泣き笑いの形で歪んでいる。


 縦に二分された幼馴染が崩れ落ちる寸前。

 十年前から彼に抱いていた感情が初恋と呼ばれるものだったと。

 遅まきながら私は気付かされた。


「嫌ぁぁぁぁぁぁッ!!?」


 咄嗟に抱き寄せてくれた宗也のおかげで、最も惨い光景は目にせず済んだ。


「もうここまででしょう、拝島さん」


 崖の小道を駆け上がろうとしていた拝島伯父は、宗也に足元を撃たれて立ち止まる。


「……そうだな。私はもう終わりだ……」


 いつも整えられている髪は乱れ、高価なスーツも着くずし、汗まみれの彼は叫んだ。


晦冥かいめい様、私がお守りしていた大いなるものの娘を捧げます。私に代わりこの方をお守りください!」


 弾かれた様に宗也が海を振り返る。

 その視線は海上に聳える岩に向けられている。


 いや、岩じゃない。この風景を見慣れている私が見間違うはずが無い。あんな形の岩など、今の今まで無かったはずだ。


 潮が満ちてくる。マキシと男達は揃ったように動きを止め、生き残った魚人達は拝跪を始める。


「あれが拝島の祀るもの……」


 岩に見えたものは波を割り、浜辺に向かい歩みを進める。魚人たちは一斉に歓喜の鳴き声を上げた。


 月を隠すほどに巨大なその影は、手足を具えた底魚の姿を晒した。オニオコゼに酷似した容貌を持つそれの視線は、重ささえ感じさせ私に絡みつく。宮司達が向けるのと同じ獣欲を含んだそれに、私は恐怖と共に強い嫌悪感を抱いた。


 私の靴底を波が洗うまでになった瞬間。巨大な底魚は不意にその歩みを止めた。

 魚人たちの鳴き声が止み、ただ波音だけが響く中。

 晦冥と呼ばれたものは、無数の黒い触腕に内側から引き裂かれ、血と肉片を撒き散らした。


「次から次へと」


 頬を汚した血を拭い、私を庇った姿勢のまま宗也が引き攣った笑みを浮かべる。


 巨大な異形を引き裂き現れた、黒くぬめる表皮を持つそれは、幾本もの触腕を2本に束ね立ち上がる。晦冥を凌ぐ高さに聳えた身体の中心が女陰のように縦に裂け、割れ目から半球状の器官が覗いた。複数の瞳孔を持つ、巨大な紅い単眼が。


 殺戮が開始された。見えない何かが暴れ周り、浜辺にいる者たちを、人間も人間でないものも無差別に引き裂き始める。


「……オトゥーム……何故ここに……」


 焦燥し切った拝島伯父の目が私に向けられる。


「これで本当に終わりか……」


 紅い目がぎょろりとこちらに向けられる。見えない無数の何かが迫る感覚に、私は身を竦ませる。

 だが不可視の触腕は私を貫く事無く、そっと頭を撫でるだけで離れて行った。


「……何?」


 マキシにはそれが見え、かわしているのか。消波ブロックの上で一人踊るような仕草を続けている。


 潮が満ち、足首まで浸された状態でキィも不可視の攻撃をかわし続けていたようだが、不意に縫い止められたかの様に動きが止まる。そのまま2度、3度と、小さな身体が衝撃に跳ね黒髪が揺れる。


「所長の許可は下りている。構わない、キィ、開放するんだ!」


 不可視の触椀に貫かれたのか。苦痛の表情を見せていたキィが、視線だけで宗也の指示に応える。


「アlhazァァァァdッ!」


 ソプラノの叫びと共に黒い留め具が弾け飛ぶ。そのままの勢いで、あれだけ頑強だった拘束着を引き裂き少女の裸身が覗いた。


 青白い肌。

 女性としては未だ成熟しきらない身体のライン。

 月影に透ける髪は何処までも白く。

 本来の彩を取り戻した瞳は紅く輝いている。


 長すぎる腕と細い指。

 肘からは虹色の粒子を撒き散らす鋭い突起物。

 アンバランスなパーツだが、全体としては完成された兵器の機能美を感じる。


 きれいだな。


 月に素肌を晒しキィは笑っている。

 この仔は間違いなく強い。だけど、それ故に何処までも孤独な存在。

 誇らしげに空を仰ぐ彼女を前に、何故だか無性に泣きたくなった。


 異形の少女は月を掴むように掲げた左手を、黒い巨体に向け振り下ろす。

 美しい虹の線が煌き、少女と巨大な異生を繋ぐ。

 弓を引く形に身体に引き付けた右手を、矢の如く迅く突き出す。


 オトゥームを中心に衝撃波が走った。

 単眼の異生の戸惑いが伝わってくる。


 白い少女が拝むように合わせた掌を返すと、澄んだ金属音が響いた。

 鉤に曲げた指。

 何かをこじ開けるような動作に合わせ、キィの眼前に虹色の道が開いて行く。


 痛み、か?

 異形の神が数万年振りに覚えた違和感の正体に気付いた刹那。

 滅びへの恐怖と共にその巨体は四散した。


 引き裂かれた神の向こうに垣間見える異界に、

 キィは少しだけ懐かし気な顔を向けた。



 オトゥームが弾け散った際に撒き散らされた恐怖は、巻き添えに私の中の何かを砕いていった。

 力を失いへたり込む足を波が洗う。


 緑色の空。唄う魚達。

 星を渡る旅。生まれたばかりの世界。

 たくさんの姉妹達。優しいおかあさん。

 襲われる寝所。みんなと別れゆりかごで眠る。

 約束された存在。試みの道程はまだ遠い。

 引き上げられるゆりかご。気弱そうな少年の顔。

 まだ起きちゃだめだ。その時まで眠っていなきゃ。


「ひ……ヒヒッ。まだ終わらんよな……」


 狂気に囚われた拝島が波間から手を伸ばし、私の足を掴んでいる。


 この男が――

 私ならほんの少しの殺意で殺せる。

 こんな男のために大切だったものが――


 耳元で銃声が鳴り響く。頭に2発。心臓に2発。

 私が殺意を向ける前に、絶命した拝島は波間に消えた。


「殺したのは、僕だ」


 泣きたくなるほど懐かしい顔。でも、思い出すとそれを糸口に、膨大な記憶が溢れてしまう。ちっぽけな今の私なんか、押し流されてしまうほどに。


「嫌だ……変わりたくないよ。私は私のままでいたい」


「君自身を含めた何人ものものたちが、それぞれの思惑で填めた枷が外れるだけだ。君は君自身だし何も変わらないよ」


 優しく言い聞かせる声に、耳をふさぎ首を振る。


「それでも……今の私が大切に思っていたものは、どうして大切だったのかさえ分からなくなる……」


 おばあちゃんと飲むひよこサイダーも。

 畳でまどろみながら聞く風鈴の音も。

 せがんで買って貰った麦藁帽子も。

 友達と初めて喧嘩したときの気持ちも。

 幼馴染の眼差しに感じた、この胸の高鳴りも。


「こんなの急すぎる! 私は何も頼んでなんかいない!」


 頭を抱えぐずる私の顔を、彼は困った顔のまま見詰めている。ああ、お兄ちゃんは昔とちっとも変わっていない。


「……少し眠るといい。いろいろあって疲れてるんだ。起きたらきっと全て良くなってるよ」


 彼はつまらなそうな顔で立っている白い少女に声を掛ける。


「キィ、頼む」


 空に虹の橋が掛かる。その向こうには、懐かしい寝所が見える。

 ごめんね。

 唇を尖らせた少女の顔。何故だか彼女に謝らなきゃいけない気がして。

 私は最後にそう呟いた。




 大いなるものの娘であり、義妹として育った少女を見送った宗也に、長身の黒人が波を蹴立てて駆け寄ってくる。


「先生、ちょっとまってクダサイ!! 何やってんデスカ!? 懲罰ものデスヨ!?」


 宗也は慌てるマキシに苦笑を返してみせた。


「ここに開きっぱなしの門が出来て、終わりが始まる可能性すらあったんだ。僕が想定した中では、ずいぶん穏やかな結末だよ」


 波に洗われている死体は、魚人を除けばそのほとんどがマキシの操っていた屍人だ。神智研の人的損害はゼロと言っていい。


「『スペアが確保できれバ、大いなるものノ実験を攻略すル鍵になる』ッテ言ったのは、先生デスヨ?」


 身体の割りに細かい事を覚えている。


「僕が言ったのは正確には『鍵になるかもしれない』だ。母さん達が研究していた可能性の話だよ。水に溶け込み、既にこの星のすべての生物に影響を与えている。大いなるものを排除するなんて、人間には土台不可能な話さ」


 大いなるものの試みは、現在進行形の実験の中では最も厄介な案件の上、スペアである郁海自身人の手には余る存在だ。“鍵”の名を持つ宗也の教え子がここに来たがった事も、ただの偶然ではなく、皮肉屋の描いた性質の悪い脚本に思えてくる。この結末に安堵しているのは、彼の偽らざる本心だ。


「No! 骨折り損ってヤツデスカ?」


 マキシの大げさな嘆きに少しばかり心が痛む。所属する班が違えば利用し合うのが当たり前の関係とはいえ、数少ない神智研内の友人を騙す様な形になってしまうのは、宗也の本意ではなかったのも偽らざる事実だ。


「亜神一柱に小神一柱。神殺しとしては充分すぎる成果じゃないか。それに――」


 波間に浮かぶ肉塊を指し示す。赤く染まる海の中、ほぼ完全な形を保ったオトゥームの巨大な眼球が輝いている。


「あれを持ち帰れば魔術班の顔も立つだろう。博士は“英雄”の核の鋳造が最優先課題だっていつも言ってるし、大きな貸しになるはずだよ」


 宗也の言い訳に白い歯を見せ頷いて見せるマキシ。どうやら人が良い彼は、宗也のわがままを知った上で、騙された振りをしてくれるつもりらしい。


 同僚や教え子を巻き込み利用して、僕は両親の研究を引き継ぐよりその復讐を優先し成し遂げた。夢を見続けていたいというのが義妹の願いなんだ。人でなしの僕だとしても、兄として叶えてあげない訳にはいかないじゃないか?


 もう届かない場所で眠る郁海を思って、宗也は心の中で別れを告げた。




 暗く広い空間に狂笑が響いている。


 少女は両手を拘束されたまま、男の屹立するものに舌を這わせている。


 充分に濡らしたと判断したのか。男は少女を組み伏せ、そこだけ開いた拘束着の股間のスリットに男根を捻じ込む。


 少女の洩らすのは生理的な反射としての吐息だけ。覆い被さる男も快楽は感じていない。精を吐き出すため、ただ機械的に荒々しく腰を振り続けている。


 化学班の検査で少女に生殖機能は無く、能力も一代限りの劣性遺伝だと、とっくに判明しているのに、この男は事あるごとにこの無為な行為を続けている。


 正確にはこの男ではない。この男の腰から上に同化して存在する、狂人の執着だ。

 自らの肉体と共に理性も知性も失くしたまま、次の器が決まらない事にただ焦り苛立っているらしい。


 つまらないな。


 少女は緑色の空の下、波打ち際で眠る友人の顔を思う。楽しい夢でも見ているのか、彼女は穏やかな微笑を浮かべている。


 生きる理由も意味もなく、ただ生かされ続けるだけの日々だったが、生まれて初めて興味を持てるものが出来た。


 また、あえるといいな。


 狂笑が響く中、夢の中の友人を思い、少女は少しだけ微笑んだ。


                        ep.Myth Heiress/R END

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