第5話 神智学研究所 魔術班

 おこもりを守っている訳ではないだろうが、人通りは無い。薄暗い路地から魚の顔をした男が飛び出してや来ないかと、おっかなびっくり先を急ぐ。


 途中どうにも気になって携帯の電源を入れてみた。拝島伯父と海斗からの着信が数件ある。一番新しいのはユリカからの物だ。少し迷ったがリダイヤルしてみた。


『あんた今どこにいるの? あの髭がうちに来てないかって連絡よこしたよ?』


「え……ごめんなさい」


 少し怒ったような声に、思わず謝ってしまう。


『おこもりがいやなら、家出とか子供っぽい真似しないでうちに来なよ。一晩くらいなら何とでもごまかせるから、明日しらっと帰ればいいじゃん』


 溜息交じりの呆れ口調ながら、ちゃんと私を心配してくれているのが分かる。なんだか泣きたくなってきた。


「……そうだね」


 今夜を乗り切ればそれで済む話かは怪しくなって来たが、キィを送り届けた後ユリカに匿って貰うのは、選択肢として考えても良いかも知れない。

 話すうち河沿いの道に出た。もうすぐ橋が見える。


『迎えに行くよ。今どこ?』


「橋の近く。でも、外に出ちゃ駄目だよ」


『まだおこもりとか気にしてんの? 直ぐ行くから』


 どうやら携帯が繋がらないので、自転車で探し回ってくれていたらしい。気遣いが嬉しかったが、心配でもある。通話の切れた携帯の電源を再び落とす。


 既に近くまで来てくれていたのか、ユリカのものらしい自転車の灯りが近付いてくるのが見える。

 私たちの姿を見付け手を振るユリカの姿は、河から噴出した水柱に飲み込まれた。


「な……!?」


 急の事態に頭が追いつかない。

 立ち竦む私に、3mほどの太さを持つ水の柱が向かってくる。


「ヴァン……いぷ。みずのまもの……」


 しゃべった!?


 驚きに正気を取り戻した私は、何かを呟いたキィを慌てて押し倒す。頭上をすり抜けて行った水柱の中に、ユリカの脚を咥えたあざらしの様な水獣が見えた。


 数m先で方向転換したそれが再び向かってくる。

 何処に逃げるべきかどうやってユリカを助けるか。混乱する私は、キィの視線でポケットの中の護符を思い出す。


 効果を信じた訳でもないが、ほとんど衝動のまま化物の顔を目掛けて投げ付ける。それが水柱に飲み込まれると、水流はようやく物理法則を思い出したかのようにばしゃりと崩れた。


 本当に効いた!?


 水を失っても勢いが止まらず路面に叩き付けられたそれは、厭らしいほど人間めいた顔に困惑の表情を浮かべている。


 化物から開放されたユリカが、咳き込みながら水を吐き出しているのが見えた。


 安堵する私に、人の顔を持つ水獣がずるずると這い寄って来る。

 水柱から追い出せたとはいえ、大柄な男性並みの体躯を持つ化物に敵うはずが無い。逃げ出そうにも腰が抜けてしまったのか、へたり込んだ私はもどかしいほど緩慢に後ずさる事しか出来ない。


 にたりと笑うそれの鰭脚が、私の脚を掴まえる寸前。

 動きを止めた化物は振り返る。その下半身は、何かに飲み込まれた様に見えなくなっている。不気味な金切り声を上げ必死に抵抗するも、爪痕だけを残し、見えない何かに飲み込まれながら川面に消えた。


「あら、あなたがキィのお気に入り?」


 何が起こったのか理解できぬまま川面を見詰める私に、橋の方から歩み寄ってきた人影が声を掛ける。

 巫女装束に身を包んだ女性が、興味深げに私を眺めていた。 

 人面の化物が見せた、恐怖に満ちた最後の表情に当てられていた私は、反応が出来ない。


 濡れた様な黒髪に、切れ長の瞳。襟元が大きく開き、豊満な胸元が覗いている。

 見た事のない顔だ。少なくとも水天宮の巫女ではない。


 拘束着の少女が、無言のまま私と巫女姿の女の間に割って入った。


「キィ?」


 ぼんやりとしたままの彼女は、私の疑問に答えをくれそうも無い。

 巫女は苦笑して見せると、付いてらっしゃいと踵を返した。


「立てる?」


 ユリカの足の傷は深いが、歩けないほどではない様子だ。肩を貸し巫女の後を追う私の後ろを、キィも大人しく付いてくる。


 橋の袂で待っていたのは宗也だけではなかった。

 黒皮の上下に身を固めた、長身の黒人男性。アフロヘアーで指や胸元には金の装飾が光り、夜だというのにサングラスで目元を隠している。


「このコが先生の妹さんデスカ?」


 劇画か!? 妹違うし!!


 口笛と共に両の人差し指で私を指し示す黒人。宗也は気弱げに笑って見せるだけで訂正しない。


 青年の車だけでなく、黒塗りにスモークガラスの大型ワゴン車が3台停まっている。巫女に黒人に文学青年と違和感の半端ない集団だが、異様な物々しさだけは伝わってくる。


「ここから見物してマシタよ。ヴァンイップでしたカ? あんなモノまで連れ込んデ、拝島サンも少々はしゃぎ過ぎデスネ!」


「神智研に陀厳教団だごんきょうだん。関わる全てを手玉にとって、十年越しで思い通りの盤面を見る事がれば、はしゃぎたくもなるわよ。もっとも、王手をかけたつもりでクィーンを抑えられてちゃ世話無いけど」


 巫女のべったりと絡みつく様な視線が薄気味悪い。明らかに会話の主題なのに置いてけぼりなのが不満で、私は目顔で宗也に説明を求める。


「もう気付いているだろうけど、拝島さんのやろうとしている事は危険だ。止めなきゃならない。君が今夜の祭祀に参加するつもりがないと、決心していてくれると話が早いんだけど」


 宗也の態度はこの期に及んでもどこか煮え切らない。


「君の友人の治療をしなければならないし、保護を求めるなら道々事態を説明する。でも、君に行動を無理強いするつもりは無い」


「まだるっこしいわね」


 巫女が冷笑を浮かべる。見えない何かが這い寄るような気配を感じ、慌てて振り返るも、暗い夜道だけが続いている。


たまき、ここは先生のやり方を尊重しマショう。彼女の協力を得られないと、このミッションの成功確率が格段に低くなりマス」


「キィは? この子はどうなるの?」


 良く解らないが、無関心なまま立ち尽くしている少女が気に掛かる。せっかく安全な所まで来れたのに、気遣いされている様子が無い。


「キィの出番はこれからだよ。ここに来たがったのは彼女自身だからね」


 今さら自分だけが、安全な場所で事が終わるのを待つのは、どう考えても違う気がする。私は当事者のはずだ。なのにまだ何も知らされていない。キィの役回りも不明なままでは心配だ。


 応急手当を受け、病院へ連れられるユリカを見送り、私はキィと共に宗也の運転する車で水天宮へ向かっている。


「君が見た、海に住む者たちにも信仰があってね、ずっと眠っている彼らの創造主を崇めている」


 黒塗りのワゴン車の行き先は別のようだ。スモークガラスの向こうは伺えなかったが、巫女や黒人が乗り込む際、映画で見る特殊部隊の様な装備の男性が運転席に見えた。


「人やイルカや魚とも交配できるから、様々な見た目をしている。彼らの中にも派閥があって、眠ったままの神様に唄を捧げる穏やかな者たちと、創造主が目覚めれば彼らの欲望の全てを叶えてくれると、その目覚めを心待ちにしている者たちの両方がいる。不思議な事に、人の姿から遠い者達は穏やかなものが多く、人に近い者は欲望に忠実なようだ。人の本性に近いからって話もあるけど、僕は信じたくないな」


 素人民俗学者は異形の姿の存在を祀る祭祀の話ではなく、その異形の存在自身の信仰の話を始める。彼が魚人の話にさほど驚きを示さなかったのは、予めその存在を知っていたからだと直ぐに理解できたが、私は思わぬ話の飛躍に少なからず混乱する。


「拝島は他人に取り入るのに長けた人でね。君達を襲ったヴァンイップも誰かからの賜り者だろう。元々僕達の組織の情報部の人間だったけど、海に住む者たちの穏健派と過激派、それを調べる僕達の組織の間を泳ぎまわり、諍いを起こしては自分の地位と財産を築いていった。2重3重スパイである事は僕達にも解っていたし、お互いに利用し合う様な関係だったが、今回はさすがにやり過ぎだと判断されたようだね」


 何だろう。すごく不穏で現実的でない話を聞かされているのに、その内容が腑に落ちるのは、自分の目で見てきた物のせいか、窓外の夜の闇のせいか。


「秘宮と拝島の祭祀の違いの話って……」


 たった今聞かされた異形の者達の信仰に、相似形に当て嵌まる。穏やかな表情のままの宗也は無言だったが、答えは聞くまでもなかった。


 海で失踪したままのおばあちゃん。異形の存在を祀る拝島――それじゃあ、一体私は何者なんだろう。


 水天宮の社に続く石段の前で車を停める。外はすでに騒がしい。争う声や銃声のような物まで響いてくる。頑丈な車内から再び夜の中に出るのは不安だったが、知らないままで終わる訳には行かない。


「遅かったな郁海。そろそろ準備を始めるよ」


 石段を登った先の境内では、待っていたらしい拝島伯父が、何事も無かったかのように出迎える。当たり前だが、祭祀に参加する気はもう欠片も無い。宗也の隣で動かない私に苦笑して見せると、伯父は取り巻きにあごで指図する。


「拝島さん。来て貰うのはあなたの方ですよ」


 宗也の構えた拳銃に、男達の動きが止まる。植え込みから潜んでいたらしい影が飛び出すも、機械のように反応したキィの蹴りを受け石畳に倒れ付す。

 その男は魚の顔を持っていた。もう隠す気も無いらしい。


「キィ。好きにしていいよ」


 優しげな微笑を浮かべた宗也が告げる。無言のまま少女は男達に向かい駆け出した。

 直ぐに乱戦になった。


「マキシ達も気が早いからなあ。こっちに合わせる気も無いんだから」


 摂社の陰に駆け込み、銃を手にぼやく宗也。この優しげな人は、本当に撃てるんだろうか。


 拘束着の少女は、今までの様子から想像出来ない程機敏に駆け抜け、脚だけで男達を倒してゆく。相変わらずの無表情ながら、止まらない円の動きは独楽のようで、どこか楽しげな気配さえ感じる。ハラハラさせられる事さえないが、それならなぜ浜辺では、好き勝手に嬲られるような事になっていたのだろう。


「誰も指示をしなかったからだろうね。深みのもの程度じゃ、初めからキィにどうこう出来るはずが無いし」


「でもその……いやらしい事されてたけど」


「キィにしてみれば、犬がじゃれ付いている程度の認識さえなかったのかもね。やっぱり女の子相手に性教育は難しい。教師役である僕の至らない部分だね。魚人たちが盛っていたのは、今夜が祀りであるのと、彼女となら強い子を得られると、本能的に悟ったからじゃないかな」


 半分以上この人のせいか。同時に尋常じゃないキィの身体能力も思い知らされるる。


 杜のほうから響き渡る悲鳴に目を向けると、木立の中に妖艶な巫女が立っている。彼女の前で、ばたつく男の下半身が中空の見えない何かに飲み込まれて行くのが見えた。あっちも心配要らないようだが、あまり見ない方が良さそうだ。


「環さんもえげつないな。でも、ここはもう任せていいか」


 本殿の陰に避難した拝島伯父はこれ見よがしに姿を晒した後、扉を開け中に消える。どうやら誘われているようだ。銃を構えたまま身を低くして走る青年の後に続く。中を伺うと、床板が剥がされ地下への階段が見えた。


 木製の階段はやがて石段に代わり、気付くと私たちは地下の洞窟を進んでいた。途中何度か物陰からの不意打ちを受けるも、キィが危なげなく対処する。どれだけ下ったのか。月明かりが差し込み、潮の香りが漂い足元を波が洗っている。ここが出口らしい。


 怖い。身が竦んで動けない。


 過去に溺れ掛けた経験でもあるのか。海の水に足を浸けるのさえ怖くて固まってしまった私は、宗也に抱きかかえて運んで貰う。月影に照らされる中、ひょろりとした素人民俗学者の膂力を信頼しきれない私は、固く目を閉じ彼に強くしがみ付く。


「もう大丈夫だよ」


 岩場に下ろされ周囲を見回すと、古い社に続く岩場が見える。こんな近くに洞窟があるなんて、海で遊ぶ事のなかった私には知る由も無い。


 浜辺では特殊部隊めいた装備の男達が、銃やナイフで海から上がって来る者たちと争っている。ゴーグルとマスクで顔を被い、素顔を晒すものはいない。そんな中、指揮でもしているつもりか。岩場の上で場違いなアフロの黒人が、幾つもの金の指輪を嵌めた指で、ラッパーだかDJのような怪しい動きをしている。


 奇妙な事に気が付いた。魚人の鉤爪で深く切り裂かれても、黒いアーミージャケットの男は倒れない。それどころか、腕が明らかに折れ曲がっている者も、器用にナイフを振るい戦闘を続けている。驚いた事に、胸を刺された魚人が立ち上がり、別の魚人に襲い掛かるのまでを目にした。


「あれって……」


「ここはマキシに任せて大丈夫かも――」


 宗也の言葉を聞き流し、キィは身軽に岩場を跳ぶと、乱戦に斬り込んで行った。


 思惑が外れたのか。拝島は浜辺の混乱の中を突っ切る事も、悲鳴が響いてくる崖の小道を登ることも出来ず、辺りをせわしなく見回している。


 魚人たちは乱入した拘束着の少女に吸い寄せられるように集まってくる。人間に対するような手加減は無いのか、上体を拘束されたままのキィが舞う度に、血飛沫が撒かれる。


 白いエナメルに月光が反射するのか、細い脚がしなやかに振るわれる度、虹色の軌跡が描かれる。群がる魚人たちは手を伸ばすも、キィの動きを止める事さえ叶わない。灯火に焼かれる羽虫のように、ただ無為に命を散らされる為だけに海から這い上がって来る。

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