第4話 古の祭祀

 まだ鼓動の乱れが治まらない。

 おこもりというのは、あれが来るから外に出ちゃいけないんじゃないか?


 灯りの消えた町を、跳ね回る魚の顔持つ男達。自分が知らなかっただけで、毎年繰り広げられていた光景なんじゃないか?

 ふとそんな事を考え怖くなった。


 落ち着いてくると、今度は青臭い匂いとべたつきが気になって仕方ない。


 青年は何気ない風に、クーラーを切りウィンドウを下ろした。

 私も無言で窓を開ける。


「女の子相手に言うのもなんだけど、やっぱり臭うよね」


 なら口にするな。

 デリカシーの無さに呆れるが、本人に悪気がないので怒る気にもれない。


 キィは後部座席で半眼のまま大人しくしている。


 誰がこの車掃除するんだろう……

 男性と精液の話をする気まずさを避けるため、私は気になった事を訊ねてみた。


「さっきの本物の銃ですか?」


「紳士の嗜みだよ」


 ニヒルに唇を歪めて見せたつもりだろうが、まるで似合っていなかった。


 間の悪いことに資料館に館長の姿はなかったが、宗也の判断でシャワーを借りる事にした。


「ちょっと、この子の服どうやって脱がすんですか!?」


 一緒に洗ってやってくれという宗也に当然の疑問を投げかけると、信じられない応えが返ってきた。


「ごめん。僕も知らないんだ」


 すまなそうに笑って見せる姿に、軽い殺意を抱く。


「……後で全部説明して下さい」


 今は一刻も早く穢れを洗い落としたい。

 手早く服を脱ぎ、タオル代わりに少女の身体にこびり付いた精液を拭き清める。どのみちもう着られない。


 暑苦しい拘束着を脱がせに掛かるが、留め具だと思っていた黒いパーツは、外せる構造をしていない。金属のようにも陶器のようにも見えるが、簡単に壊せそうにもなかった。


 白いエナメル革のほうももちろん、破ったり裂いたり出来る強度ではない。

 拘束着の本来の目的を考えれば無理もない。だけど、なぜこんな物を着せられているんだろう?


 ――薬?


 ぼんやりとしたままの少女の表情で思い当たる。暴れたり、自傷癖があったりするのだろうか? それならばなぜ同行しているのが医者や看護師ではなく素人民俗学者の青年なのか。


 ――薬漬けの少女を監禁して連れまわすサイコパス?


 すぐ外にいるはずの宗也の顔を思い浮かべる。なんとなくだが、やっぱり違う気がする。昼間私やユリカにキィの顔を見られても慌てた様子は無かったし、なにより一度キィに逃げられてしまっている。犯罪者としても介護者としても失格だ。


 服を脱がすのは諦めた。幸いな事に、首周りはぴったりとしていて、中に精液が流れ込んだ様子は無い。


 狭いバスルームで、寄り添って冷たいシャワーを浴びた。

 冷水で充分に樹液を洗い落とすと、そのままシャンプーを掛けキィの髪を洗い始める。


 臭いが残らないよう贅沢すぎるほど使ったら、二人でボトルを開けてしまった。後で買って返さないといけないか。替えがあるならまだ洗い足りない気分だったが、見当たらないので諦める。


 バスタオルで身体を拭く段になって、着る物が無いことに気が付いた。

 ゴミ箱に投げ入れた衣服は、たとえクリーニングに出しても二度と着たくはない。少し躊躇した後脱衣室から顔だけ覗かせ、宗也に着替えを要求した。


「ごめんね、気が利かなくって」


 用意された男物のシャツとスラックスは仕方がない。だが、男物のトランクスは謹んで辞退した。


「結果論だけど、これで良かったのかも知れない」


 さっぱりしてキィの髪を乾かしていると、青年はおかしな事を呟いた。


「どういう事?」


「君がおこもりに参加せずにすむという事だよ」


 忘れていた訳ではないが、そうも行かないだろう。

 時計を見ると、時刻は8時過ぎ。11時には神社に戻っていなければならないが、そろそろ誰かが電話をかけて来るかも知れない。着信は――


「探しているのは携帯かい? 電源なら切ってあるよ」


 青年が私の携帯をかざすのを見て、慌てて取り返す。


「ちょっと、どういうつもりです!?」


「居場所が直ぐに知られちゃうだろ? でも、その警報は役に立つかも知れないな」


 なんだろう。ずっとほのめかしばかりだけれど、何か確信を持っている言動に思える。


「知っている事があるなら話してくれませんか!?」


 苛立ちを含んだ私の口調に押されてか、素人民俗学者は居住まいを正す。


「ここ汐入はね、ちょっと特別な土地なんだよ」


 彼曰く。この地方は海に面して入り組んだ川も多く、河童や獺の民話が多く残されているという。


「河童憑きって言って、女の人がエッチになっちゃう話とか、もっと直截的に、河童の仔を孕まされる話とか」


 あんまり女の子にする話じゃないと思うけどねと云う付け足しは、半眼で聞き流す。


「でもこの汐入の町に限っては、不思議なほどその手の話が伝わっていないんだ」


 この人は何が言いたいんだろう。前段の河童の話はキィが襲われた話と符合するように思う。自分の連れの少女が見舞われた惨事に対し、非情に見えるほど冷静なのは、こうなる事を予想出来ていたからか。だが、この町にその手の話が見当たらないというのは、どういう意味だろう。先刻の浜辺での凶事からすると、その逆なんじゃないだろうか。


「意図的に伝えていないか、誰かが話を揉み消しているか。そんな風に読めないかな?」


 ぞくりと。背筋に悪寒が走った。

 町ぐるみで隠し伝える伝承。それに絡んだ祭祀に知らず参加させられそうになっていたとしたら、それは生贄めいた役割なんじゃないか。


「逆に、異類婚で福を得る話はいくつか残っている。いるか女房にあざらし女房。選り取り見取りだ」


「……それは、自然に対して恐れを抱いているか、あるいは感謝しているか。そこに住む人の捉え方の違いなんじゃないですか?」


 開きっぱなしの目に水掻きと鉤爪を持つ手。現物を見てしまった後では、宗也の話に対する反論のための反論でしかないかもしれない。それでも、おばあちゃんがお祀りしていた海までが、一纏めに如何わしい物に扱われるような言い方は嫌だった。


「そうだね。僕の話を鵜呑みにする事はない。自分で考えるのが肝心だ」


 怖がらせるような話ばかりして悪かったねと、優しい微笑を浮かべてくしゃりと私の頭を撫でる。


 会ったばかりで距離感が近すぎる気もするが、不思議と嫌な気分はしなかった。デリカシーに欠ける部分はあるが、見た目どおりに下心を感じさせない接し方が安心できるのか。


 まるでお母さんみたいだ。男性相手なのに、なぜだかそんな思いを抱いた。


「本宮に参加するかどうかは、君が自分で判断すれば良い。あれはあれで、僕が対処すべき別の問題だからね」


 窓の外を何かが横切った気がする。

 小さな物音……蛙の鳴き声か?


「付いて来ちゃったかな。様子を見てくる」


「ちょ……ちょっと待ってよ!」


 事も無げに言って見せ、外に出ようとする彼を引き止める。怖いからというより、正直彼が心配だったからだ。元特殊部隊所属にも、無敵のコックにも見えない。


「そこの奥のドアを進むと、地下の通路で別棟の倉庫に繋がっている。鍵は中からなら開けられるから、様子を見て外に出るんだ。明かりは点けずにだよ」


「この子はどうするの?」


「キィの事は頼む。心配ない。半分は僕の用事だけれど、ここに来たがったのは彼女自身だからね」


 はぐれたら橋まで連れてきてくれ。そう言い残して外に出た。

 なんだかはぐらかされた気分だ。キィが来たがったって、何の話?


 ドアに鍵を掛けキィの所へ戻る。

 茫洋としたままの彼女は不安の欠片も感じていない様子。ぎゅっと胸に抱いていると、私の不安も和らいだ。


 建物の周囲を何かが廻っている気配がする。宗也だろうか。

 不意に照明が落ちた。緑色の非常口の誘導灯だけがぼんやりと辺りを照らしている。


 しばらくの間身動き一つ出来ずに固まっていたが、キィを抱いたまま立ち上がり、そろそろと奥のドアへ向かう。


 守るべき存在がいるという使命感めいたものが無ければ、恐がりな私は部屋の隅で目を瞑り、膝を抱えて蹲るしか出来なかっただろう。


 注意深く薄暗がりに目を走らせていると、展示品の一つがやけに気になった。

 磨かれた緑色の石。護符か何かだろうか。中心に燃える目を持つ歪んだ五芒星が刻まれている。非常灯の灯りに照らされ、五芒星が揺らめいて見えた。キィも珍しく興味を引かれているようだ。お守り代わりに借りてゆく事にする。


 キィを抱えるように壁伝いに地下の通路を走り抜け、倉庫に向かう。

 鍵の掛かっていないドアを、音を立てぬよう静かに開き中から鍵を掛ける。

 明かりは点けず、非常灯だけを頼りに雑多に物が収められた棚をくぐり抜け、出入り口の扉に辿り着く。


 宗也の言う様に、内側から鍵が掛けられているのを確認する。

 キィを棚の影に隠れさせると、資料館に面した窓から外を伺ってみた。


 暗くて良く解らない。凝視していると、植え込みの間や立ち木の陰を、屈んだまま跳ね回る何かが見えるような気がしてくる。不安と恐怖を抱いたまま闇を見詰めているせいかもしれない。


 どこかでガラスの割れる音が響いた。

 身を竦めていると汚れ曇ったガラス越しに、資料館の中で動く人影が見えた。


 あのまま資料館に留まっていたらと思うと、冷や汗が滲む。

 今がここを出るタイミングだろうか。それとも、まだ外にも何人か残っているのか。


 銃声なのか。パンパンと二度乾いた音が大きく鳴り響く。


 迷ってる場合じゃない。ぼんやりしたままの少女をしゃがませ、思い切って姿勢を低くしたまま外に出る。


 魚人と鉢合わせしない様にと祈りながら、植え込みの影を伝う。

 民族資料館の敷地を出て、身を隠す物が無くなると、キィの背中を押すようにして夜の道を走った。


 宗也は無事だろうか。

 拳銃を片手に大立ち回りする姿は想像できないが、不思議と酷い目に会っている光景も思い浮かばない。なんとなく、長い手足を振り回して上手く逃げ回っているような気がする。


 下着も無しでは落ち着かないので、おばあちゃんの家へ寄り道する。

 私が着替える間、キィは座って大人しく待っていた。


 本宮の事も気になったが、今はやはりこの子の事が優先だろう。

 彼との約束を思い出し、私はキィを連れ夜の町を走り橋へと向かった。

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