わざわざ自ら死を選ばずとも、彼らはすぐに君に追いつくのだから、焦る必要など少しもないのだけれど、すぐに追いかけなければならないくらいに、何かに追われている人がたくさんいる、ということなのですかね。
歳を重ねるにつれ、そうした人々の存在を上手に無視することができるようになり、人身事故の電車遅延になにも感じなくなります。
五月に入ってから電車遅延や運休が多いです。今日で何度目でしょうか。多分、四度目くらい……?
三路線使っているので仕方ないのかもしれませんが、ちょっと多すぎる気がします。
どこかの知らない誰かの死に対する自分の無関心に、時々驚かされます。
そうした冷淡さは平穏な日常を守るためには不可欠です。
どこかの誰かの死を、身近な人の死のように悲しんでいたらば、心がいくつあっても足りないものです。
だからこその無関心。
そして、その無関心が、ちょっとずつ知らない誰かを殺すのだろうな、とも思います。
私たちはちょっとずつ誰かを殺して、ちょっとずつ誰かを生かしている。
そうした感覚に触れてしまう瞬間がある。見えてしまう時がある。ぞっとする。
前の前の職場で、駅のホームと電車の隙間に落ちたことがある、という人がいた。
確かに隙間が大きい駅ってありますよね、うん。
でも、その人はなんと一度ならず二度も落ちたというのです。二度も。
私は、そうして落ちてしまう人を描きたい。
ホームでも、電車でもない、なにもない空間に落ちてもがいている人。
自らを引き上げようと必死に自分の髪をつかんで引き上げようとする、愚かで、愛おしい人。
そうした人を書きたい。
自分で自分を引き上げられるわけがなく、結局は誰かが手をさしのべる必要があるわけです。
その誰かというのは、たまたまそこに乗り合わせた人である可能性が高い。
そして感謝を告げるまもなくその人は去っていくでしょう。
なんとなく、人生はそういうものなのだろうな、と思う。
大切な人、近しい人は確かに私にとっての支えになるのですが、救いにはならないのかもしれないな、とか。変なの。でも、それでいいのかな。
電車遅延、しばらく起こらないといいな。いや、遅れるくらい別にかまわんのですけどね。
やっぱり、どこかで誰かが死を選んだのかもしれないなんて想像を、月に何度もしたくはないのですよ。ね。
このたび、『名のない人々』が400話に到達しました。
https://kakuyomu.jp/works/16816700426633383705ロングテール戦略で全体のPV数を地味に伸ばし続けております。
話数って大事ですよね、うん。気が向いたらお読みください。
近況ノートの一文をChatGPTで英訳してDALL-Eに投げてカンディンスキー風のタッチで作ってもらった画像。好き。↓