ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの『青色本』を読んでいます。(二周目)
彼は「時間」を例に、以下のように言います。
『なるほど定義は事実屢々語の文法を明らかにする。そして事実、我々を困惑させているのは「時間」という語の文法なのである。ただその困惑を表現するのに、「……とは何か」といういささか誤解を招く問を立てているのだ。この問は、すっきりしない気持、心のもやもやを表現しているのであって、子供がしょっ中きく「なぜ」の問に類するものである』
なぜ。なぜ。
私たちの心のうちには無数のなぜが生まれ、答えを与えようと試みては、絶えず消えていきます。
明確に定義できる意味など本当はどこにもないからこそ、私たちは迷い、問い、もがくことが可能になります。
意味が閉じ込められてしまう世界はきっと退屈です。
私や、カクヨムにいる多くの書き手の人たちは、詩や小説を書くことによって、言葉の限定された使用から、外へと解放しようと試みているのだと思います。
連綿と継がれてきた伝統と規範と権威を、少しずつ破壊し、かつ築いていく。
もちろん、詩や小説などの文芸だけが担う役割ではありませんが、積極的に言葉の意味や役割の枠組みをあらためたりよみがえらせたりとする意欲を持つ分野だと思います。
なぜ、なぜ。
私は書きます。
言葉の意味が定義できない、使用について語るしかない、ある限定された場面において一般性の欠けた意味を生み出すために。
書きます。
誰かのもやもやとした「なぜ」に少しでも形が与えられたのであれば、私の作品は成功したといえるのでしょう。
いつか、そういう日が来ることを願いつつ。
書きます。
以下、更新です。
『はろーはろーはろーわーるど』
https://kakuyomu.jp/works/16816700426633383705/episodes/16817330648564725414