はろーはろーはろーわーるど
「こんにちは、せかい」
――は?
ベッドに横たわる男が目を覚まし、意味不明な言葉を吐いた。捨てられた子犬のように瞳は潤んでいる。捨てられた子犬なんて一度だって見たことないのに、と女は自分の思考を否定した。比喩は自由に経験を逸脱する。現実とは無関係に言葉が滑っていくのが心地よくて身を委ねてしまう。罪だ、と女は思う。
男に身を寄せる。やわらかい温もりがシーツ越しに伝わる。女が思うこの男の最大の魅力は、人よりも少し体温が高いことだ。
「起きたの?」
閉じられたカーテンは光を完全に遮ることはできずに隙間から朝が溢れた。どうしたって防ぎようのない時間の移ろいがあるのに、一人だけ終わらない変わらない今日へと逃避している。
ずるい。
女は憎み、愛おしむように男の瞳を覗き込んだ。黒い艶やかな表面には、確かに自分の顔があった。男を通じて見る女の姿は、昨日とほとんど変わりがないはずだが、少しずつ変わっている。一ヶ月、一年。時間は抗いがたい変化を突きつける。いつまでも女としての美しさを保てるわけではない。美しさ。そうだろうか。
「ああ」
男が無造作にひげをごしごし擦ると白い粉が散った。人のからだの表面に張られた皮膚が汚いと感じたことはなかった。人から剥がれ落ちた肌を不快に思った。愛しいと思うはずの男の一部であっても同じだ。
女は負の感情にあらがうように、男の髪を撫でた。怯えた獣のように丸くなっている彼は、上目遣いでこちらを見る。テレビで見た肉食獣に捕らえられた小さな羚羊を思わせた。
テレビをつけた。
ニュースで見る世界が遠く感じられるのは、小さな部屋でふたり、毎日新しく生まれ変わるからだ。昨日の男はもういない。連続して繋がるはずの日々が、途切れ途切れになる。女は男の記憶の欠けることを拒まないが、欠けた穴を埋めるようなこともしない。彼の逃避に流れされるまま、ゆるがせに無為を過ごしていた。
「コーヒー、飲む?」
「ありがとう」
男が状況を理解していないことを、女は確かに理解している。
薬缶で湯を沸かした。青色の火が薬缶をつつむように広がっている。熱が緊張を生む。中の水温と圧力と、外の静寂が生む緊張が高まっていく。沸く。鳴る。白い息を噴き出し始める。まだ鳴らない、まだ鳴らない……鳴る。
ピーッと甲高い音が部屋に響いた。
緊張が破れ、カーテンから漏れ出した朝と混ざった。耳の奥いっぱいに光をそそぎこんだかのように頭は一瞬だけ真っ白になる。女だけは昨日を忘れないはずなのに、すべてが白紙に戻った気がした。
朝はこうして、新しく生まれ変わるのだ。
「記憶をなくす薬なんだよ。ぴったり二十四時間。そうして目覚めたら、こんにちは、せかいってわけ。精密にプログラムされた薬なんだよ。僕のためにデザインされたものだから、君に効果があるかはわからないけど、試してみる?」
――は?
女は、男の言っていることが信じられなかった。信じるも信じないも、自分で飲んでみたところで飲んだ記憶は残らないのだから、試してみる気にもなれなかった。やってみてもその効果がわからない行為は、やってみてもやっていないのと同じことだと思った。
だとしたら、男は何度も死んでいるのではないか、とふとそんな考えが脳裏をよぎった。
「あたし、進んでいるのか、退いているのか、時々わからなくなるの。あなたと一緒にいるからなのか、あたしがあたしだからなのかはわからないけれど」
隣の電車が走り始めると、自分の乗っている電車が発車したのかと錯覚した。電車のなかでスマホに見入る男が、ちらと顔をあげると、一瞬だけ目が合った。やがて動き出した。
家に帰るだけ。それだけのことが、億劫に感じられた。
近所の踏切に花を活ける。誰かが死んだ場所には心がなにかに引きずられる。奇怪な誘惑を断ち切るのに生きた、生きていた花を捧げた。
近くのコンビニでファッション誌と少年誌を買う。男は毎週月曜日のマンガを楽しみにしている。
――でも、どうして読めるの? 記憶がなくなっているのに、そのあいだはどうやって埋めることができるの?
「いらっしゃいませー」
コンビニ店員は数人ローテーションで同じ顔。買うものはいつも決まっている。男は同じものしか口にしない。何の変哲もない一日も、最後に薬を飲んで終わる。だから変化は少しも起こり得ない。
男は毎週、違う物語を読んでいる——。
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