コミュニケーション
「ガハハハハハハ」
――こいつ、マンガみたいな笑いかたするな。
スウェーデンから来た身長百九十六センチの巨漢は見た目にたがわずレストランが震えんばかりの太い声で笑った。長期休暇で東アジアを回っているのだという。日本語は、と尋ねると、勉強中だ、という。
「へえ、どのくらい勉強してるの?」
「そうだな、だいたい二十分くらい」
「ハハ、二十分て、今ちょっとだけ話しただけでしょう」
「そう。それだけ」
スウェーデン式のユーモアも、いくらか女に通じたらしい。男のユーモアを理解したことを示すために、少しおおげさに笑ってみせた。露骨なくらいに示してやらねば通じないからだ。周囲も同じように笑う。意味を解さないものもいる。文化的差異が生む微妙な間隙を埋めるように、伝染したかのように笑いが広がっていった。
「ねえ、映画でも行かない?」
「いいよ」
知らない中年男に誘われひょこひょこと付いて行ったのは、女の人生最大の失策だといっても過言ではない。
人に合わせるのが性に合っていた。自分の考えなど持たずに流されてしまうのが楽だった。人の提案に従っていれば間違うことなどないと思った。誘いに人の悪意がこもっているか否かなど考えることもなく、信じることが正しく、疑うことが悪だという二分で常に自らを正しい側に立たせることが板についていた。そうしていれば、間違うことなどない、と。
カラオケ、居酒屋、ホテルとなって最後の段で怖気づいて助けを求めた。男の震える声を、今でもよく覚えている。懇願するような、苦しそうな声。
「家族が、妻と娘がいるんだ」
――知るか、ボケ。
女は自分の意志で拒み、結果として男を陥れた。警察に連れていかれる後ろ姿は滑稽で弱々しく、人間の愚かさをその身一心で引き受けているかのように見えた。
「来年、イギリスに留学するんですよ」
青年は無邪気に語る。女は屈託のない笑みと朗らかな声の調子に魅力を感じていた。かといって、一回り近く年下であろう彼を恋愛対象だとは思えなかった。可愛い弟、という感覚だ。
「へえ」
グラスを傾け、酒で喉を潤しながら彼の話を聞いてやる。店員が客に油を売っていていいものだろうかと思いながらも、他の席にはほとんど客はいないのだから問題もなさそうだ。女とスウェーデンの彼に加えて、いつもいるオーストラリア人とイギリス人、メキシコ人、中国人。日本人が数人。都内だからこそ、これだけ多用なルーツの人々が集まるのだろう。
「ちなみに昨日、ミャンマーから帰ったばかりなんですけどね。へへっ」
「へえ」
青年はかまわず自分のことを話した。女の鼻を木でくくったような態度にもどこ吹く風、あるいは本当に気がついていないのか、誰でもいいから話したいのか。
ペラペラペラペラペラペラペラペラペラ。
男が、女には聞きとれないようなスピードで青年に話しかけると、青年は恥ずかしげに、イエス、と言った。
女の英語力では聞き取れない時があった。誰もが気をつかってゆっくりと話しかけてくれるが、かえってその方がなにを言っているのかわからなかったりするから不思議だ。それでも、なんとかコミュニケーションを取れているつもりだった。
「人一人の人生を台無しにして、どんな気分だよ?」
――違う、あたしは被害者なんだって。
男はあまりにあっさりと死んだ。少女だった女が、罪悪感など抱く隙など残さぬように手際よく終わりを迎えた。良くも悪くも、誰に対する配慮もない。あまりの手際のよさに、死は、予定された運命に思われた。
犯罪の被害者になったことで気を使われた。正解がなんだったのか、女は今になってはわからない。自分で選び取らなかった行為に対して責任を感じる必要などはないが、はじめて自分の意志で決めたことなのだ。罪悪感とは少し異なる、妙なわだかまりが心に残り続けた。
自らの生の責任を逃れることなど、誰にもできない。だからこそあの男は、自らの命を絶ったのだ。愚かさに耐えることができずに。
「だからサンディエゴのバーガーは最高だって。ところで彼、君のこと好きだよ」
スウェーデン人が言った。店員の青年が顔を真っ赤に染めて「違うんですって」と必死に誤魔化そうとしていたが、もう遅かった。
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