カントが、敢えて埋めなかった「世界」と「私」の間を
現象学が取り持ち、
「私の知覚している世界しか存在しない(「私」=「世界」)」
から、いつしか
「私は、私の知覚する世界で生きているからこそ、私である」
という、頑強な主観主義が生まれた。
そうした世界には、本当の「例外」、
「特別」、「アクシデント」や「不幸」は、存在しない。
何故ならそれらは、世界の外から、ある日突然
もたらされるものではなく、
既に今ある世界の、織り込み済みの現象の一つに過ぎないからだ。
したがって、私に起こるどんな喜怒哀楽も、
「私」という世界の表象に過ぎず、
その生起の一つ一つには、意味がない。
確かに、こんな考え方ならば、「将来の不安」は不安にならず、
日々、己の身の振り方を悩み、
「新たなこと」を思考する必要もない。
けれどそれは、”楽しいこと” なのだろうか。
それこそが閉塞した「世界」であり、窒息しそうな「私」ではないのか。
僕は想う。
たとえ逆説的であっても
過酷かつ、不自由な「外」の概念を捨てては、忽ちに心が死んでしまう。
安易な等式で結べるものは、この世界にはあまり、多くは無い筈だ、と。