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三ノ宮の旅

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この世界の終わりが近づくと、月は青みがかっていくらしい。
そういう事前情報を知っている上で夜空を見るとなるほど今日は確かに月が青く輝いている。満月ではないしまるで病的な口裂け女の笑顔みたいに細い月が浮かんでいるが、まあ確かに青色だ。

この世界は終わらない。そういう確信があるから今日も毒酒を飲みながらこれを書いている。
何から書こうか。
前までは足のない同居人のはなしをしていたっけ。
あのあとどうなったかだって?
今はもう足のない人と同居していない。だからあの話はあそこで終わりだ。私はいま別の場所にいる。
強いて言うなら。ここは、刑場跡地だ。
川沿いのあちこちに松の木が生えていて、どこか懐かしい気持ちになる。私が昔いた場所も刑場跡地で、なぜかそこも松の木だらけだった。
刑場と松の木の因果関係は私は知らない。あるのかもしれないし、ないのかもしれない。
何を問うても黙して語らないのは、私の足元に立っている双子の地蔵も同じだ。

最近旅してきた世界はいくつかある。でもその一つ一つをいちいち説明するのは野暮だろう。あるいは、私は旅をしていなくても、これを読んでいるあなたが旅をしてきていたのかもしれない。
旅とは何だろう。モザイクの世界で不思議な月を見たことや、自分が怪物になってしまった世界をもぞもぞと歩き回ることではないと、私は思う。

認知とか認識とか、そういう枠を大きくしたり小さくしたりすることで感じたことを思い出したとき、それは旅になるのではないだろうか。
旅をしている人は旅をしている時に、自身の旅を知ることはできない。宿に戻り旅を旅と思ったときに、あるいはどこかでふと足を止めたときに、それはきっと旅になる。

旅の手記を書いてみれば面白いかもしれない。
誰かに何かを伝えようとするのは人間の持つ根源的な欲求の一つだ。
世界は私一人ではない。それを認識するために、旅を手記として思い出すのはいいことだと思う。


と。
三ノ宮のマクドナルドで関西弁の女子高生が言ってました。
とうぜん、全身モザイクで輪郭すらはっきりと見れない記憶の彼方のとある女子高生が。

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